虐待と保護
帰宅したアパートの居間で、香久夜が照司と並んで立ちつくした。家にあった照司のノートや教科書が、破り捨てられて畳の上にばらまかれている。ページが破り取られているばかりではなく、細かく引きちぎられていて、その切れ端にまで憎しみがこもっていた。こんな事をしても何の得にもならないはすだ。どうして毎日のように、こんな事が起きるのか理解できない。
「香久夜っ、照司っ。こっちへおいで」
台所から姉弟を呼ぶ母親の怒鳴り声が響いてきた。こういう口調をするときには、自分の声音に興奮して、苛立ちを深めてゆく。
「あんたら。さっき、公園で何やっとったんや?」
「なんのこと?」
香久夜には母親の言葉が何を意図したものか理解できないでいる。部屋を窺うように眺めると、目元に酒気の浮いた父親が、テーブルに足を乗せて座っている。父親は今日もまた仕事に行かなかった。母親はその夫を背景に仁王立ちになり、姉弟を睨み付けていた。母親は怒鳴った。
「しらばっくれても、お父ちゃんもお母ちゃんも、ちゃんと知ってるんやで」
既に、この女は自分の言葉に興奮し、怒りを爆発させていた。
「あんたら、近所の人に私らの悪口を言いふらしてるんやろ」
その言葉に香久夜は思い当たった。さっき公園で近所の主婦と短い会話をした。母親はそれを何処かで目撃したのだろう。そして、そんな光景に被害者意識のみ働かせて、香久夜が悪口を言いふらしていると考えたに違いない。自分たちがそんな事をわざわざ言いふらさなくても、日々、この母親のかん高い怒鳴り声が響けば、近所の人は何が起きてるかくらいは察することが出来るはずだ。
何故、殴られているのか分からない。ただ、罵声と痛みと恐怖の中で、早く過ぎ去ってくれたらいいと思う時間が経過した。香久夜の前に、父親に殴られた腹を押さえてじっと小さく身を縮こまらせている照司がいる。涙と鼻水が固まって表情がこわばっている。
どれだけの時が過ぎたのだろう。薄暗い部屋の隅で、野ネズミのように息を潜めている香久夜と照司を、びくりと驚愕させる変化が起きた。突然に、呼び鈴がせわしなく鳴った。
こんな夜更けに尋ねてくる人物には心当たりがない。自分と照司によからぬ変化が起きる予兆かもしれない。香久夜は闇の中で耳を澄ませて、成り行きを窺った。父母は呼び鈴を無視して応じる様子がない。
呼び鈴に代わって、ノックの音が響いた。ドアを拳で叩くという気迫だった。
「工藤さん」
その男の声に続いて、中年の女が呼びかける声。
「工藤さん」
更に続いて、別の男が指示命令する声が順番に聞こえた。
「ドアを開けなさい」
この男の声は、指示することに慣れた口調で、香久夜は男が教師か警官だろうと見当を付けた。
居間から物音がした。父母、どちらかが玄関に向かう足音だ。玄関のノックを無視できなくなったらしい。酒と子どもたちを殴ることしか興味のない父親の足音ではないだろう。その後、玄関から響いてきた怒鳴り声は、母親の声だった。
「なんやのん? あんたら。こんな夜遅うに」
「……」
「あの子たちに?」
「……」
「会わせられへんわ」
「……」
「なんで、あんたらに会わせんならんの?」
「……」
言い争う会話らしいが、母親の声が辺りに響くほどかん高い。母親の言葉のみ聞こえて、会話のやりとりが分からない。照司は不安気に香久夜の手を握った。この後、部屋の中で起きる出来事には、自分と照司には関係がないと、香久夜は目をつむり、身を縮めて運命に身を任せた。
突然に現れた男に照司が抱き上げられた。香久夜は照司と引き離されることを恐れるように、その男の人に付き従った。首筋をつままれた子猫から、全身の力が抜けきってしまう。香久夜も照司も、ぐったり力が抜けきって、車の後部座席に身を寄せ合っていた。
後から思い起こせば、時々、横のシートのおばさんや助手席の若い男の人が、香久夜たちに何かを話しかけていたのだが、その言葉の内容は全く記憶に残ってない。
突然に音声が途絶えた映画を眺めるように、香久夜と照司の周りを、二人から切り離された全く別の世界の光景が、通り過ぎて行く。