香久夜の秘密
そんな思いに惑わされて、その後の八日間、鳳輔たちは姉弟との別れを告げられずにいた。香久夜と照司にとって弥緑社の生活は以前と変わりがない。香久夜が勝手に出かけると、マツリやイセポなどの巫女たちは心配してくれるし、スセリは今まで通り香久夜にお説教をする。この世界に来てからの日常生活が続いていた。
街に出かけると、人々は旅の苦労をねぎらってくれた。ただ、人々は香久夜に旅の話をねだるのだが、自分たちが見たことのない、ウナサカの樹海やアシカタの野やミウの丘に好奇心がかき立てられるだけで、自分たちが消滅すると言うことについて、恐怖はないらしい。香久夜は首をかしげた。この世界の人々にとって、命というのはどんな意味を持っているのだろう。生きると言うことが、どんな価値を持っているのだろう。
「山王丸さん。命って何やのん? 生きてるってどんなこと?」
香久夜は短い言葉の中に、命とか、生きるとか、答えることが難しい質問を二つも盛り込んだ。
「そうさな、」
「私らやったら、死ぬのは怖いで」
香久夜はそう言いながら、彼女自身もそれほど切実な感じはない。蓬莱島で育った十四年間の人生に比べたら、こちらの世界で過ごした数ヶ月の方がずっと良い。弥緑社の塀越しに、祭りの太鼓や笛の音が聞こえている。人々が、姉弟が寂しくないようにと気遣って始めた祭りが、この数日続いている。香久夜の中のこの世界のカグヤは眠ったように温和しい。スエラギ様の意志を素直に受け入れて消滅を待っているらしい。そんな感覚は蓬莱島からやって来た香久夜にも移ったように、香久夜の心も静かに澄み切っている。
あと一日の命だとしても、照司と一緒に自然に消滅できるなら、それはそれで良い。
「ここには優しい人がいっぱい居て寂しくない」
香久夜の言葉に照司が頷いた。
「うん」
「みんなと一緒やったら、このまま消えて無くなってもええわ」
「そんなことは言わぬ事だ」
鳳輔が、突然に、会話に割り込んだ。もう時間に余裕はなかった。この時に言ってしまわねば。そんな鳳輔の姿勢が、香久夜には異様な雰囲気にも感じられた。香久夜と照司は首をかしげた。この仲間の中に隠し事は無かったはずだ。姉弟の傍らにいた山王丸と吉祥が、予め打ち合わせていたように鳳輔に寄り添って、三人で香久夜と照司に向き合った。
そして、吉祥と山王丸は、鳳輔が二人に語る内容を既に知っている。香久夜は自分が仲間外れにされたようで不愉快で、不安に眉をひそめた。
鳳輔は言った。
「私は、スエラギ様から、お前と照司を蓬莱島に返す役割を授かった」
「私と照司だけ?」
香久夜の問いかけに山王丸が答えた。
「香久夜、スエラギ様の御心を察せよ」
鳳輔が言葉を継いだ。
「命あるものたちが、この世から消えてなくなるというのは、やはり、良いことではない」
吉祥が言葉を足した。
「照司がここで命を終えてしまっても良いというの? あなたはそれで平気なの?」
香久夜は弟の姿を眺めた。この弟は生まれてこのかた、ちっともいい目を見ていないが、この子にはまだ将来がありそうな気がする。きっと本来歩むべき人生を残している。しかし、香久夜は意外なことを言った。
「照司。あんたは帰り。私は帰る資格はあれへん、ここに残るわ」
「お姉ちゃん、嫌や。お姉ちゃんが残るんやったら、ボクも残る」
照司が姉に逆らったのは初めてだった。自分の心情を説明できない香久夜の心に、怒りが湧いた。
「なんで、あんたは私の言うことがわからへんの?」
香久夜は思わず照司に手を上げた。照司は父母から殴られるときのように弱々しく腕で頭を庇ってうずくまった。その様子に香久夜は元の世界のことを思い出した。
「ごめん」
香久夜は照司に詫びたが、ヒヤリとするほど背筋に冷たい恐怖を感じていた。自分も母親と同じように照司に接ししようとした、自分も母親と同類かもしれない。香久夜は身を翻して走り去った。
その香久夜を、吉祥は広い弥緑社の隅の木立の影に探し当てて、仲間にも手招きをして呼び寄せた。再び、三人は香久夜と向きあった。
「香久夜」
吉祥は叱りつける口調で声をかけた。事実、腹を立てている。
「ずっと一緒にいたのに、なぜ、今度は照司を守ってやろうとしないの」
吉祥たちは、香久夜が照司を気遣う優しい姉だという印象を持っている。香久夜も自分がそう言う印象を持たれていることに気付いている。
「本当は、違うねん」
香久夜は吉祥にそう打ち明けた。香久夜は、その言葉を怖くて、ずっと心に秘めていた。
「照司がお父ちゃんや、お母ちゃんから酷い目に遭ってる時に、『照司がこのまま殴られ続けたらええのに』って思てん」
香久夜の意外な言葉に、集まってきた仲間を代表するように吉祥は疑問の言葉を発した。
「どうして?」
「照司が殴られてる間は、私は殴られたり蹴られたり、冷たい水を掛けられたりせんですむからや」
仲間が息をのむような激しい口調の言葉である。その人々の中に照司の顔を見つけて言った。
「分かったか? 私は酷い人間や」
人に聞かれたくはないけれども、いつか照司に告白して詫びなくてはならないと考えて、罪の重荷を背負って。ただ、それ以上、照司の顔を見続けることが出来ずに吉祥の胸に顔を埋めて叫んだ。
「私、大人は嫌いやけど、自分の事は、もっと大嫌いや」
吉祥は香久夜を強く抱きしめた。
「だめよ」
心の底にわだかまっていた物を吐き出すことは必要かも知れないが、これ以上、自分で自分を傷つける言葉を言わせてはいけないと口を封じたのである。香久夜の体が吉祥の腕の中で小さく震えている。
(こんなに幼い少女だったのか)と吉祥は思った。
今まで、この少女が成し遂げた事の大きさを重ね合わせて、香久夜を見ていたのである。しかし、腕の中で歯を食いしばって、小さく震えている香久夜のなんと幼いことだろう。
「もう、大丈夫。大丈夫だからね」
腕の力を抜いて、香久夜の顔をくっつけるように眺めてゆっくり声を掛けた。
「今まで一人っきりで、照司を守って頑張ってきたのね」
香久夜が誰かからかけて欲しかった理解のある言葉だった。香久夜は大声で泣きじゃくった。そして再び、吉祥の胸に顔を埋めた。照司は、ぽんっと温かく背を押される気がして山王丸を振り返った。黙っていても山王丸の言いたいことは分かる。
(今までそうしてもらったように、今度はお前が姉に付き添って支えてやれ)
照司が黙ったまま、泣きじゃくる姉の横に寄り添った。この姉が取り乱すほど泣きじゃくるのを見るのは初めてだった。姉を気遣うように、照司はそっと声を掛けた。
「一緒に、帰ろ」
弟がこんな自分を許してくれたという事、隠し事が無くなって、香久夜の心がすっきり軽くなった。この時、香久夜の心の封印が一つ外れた。うっと香久夜は眉をひそめた。胸に手を当ててはいるが苦しくは無い。全身がむずがゆく身もだえするほどだ。黙ってこの家族を見守り続けていたショウジが期待を込めて呟いた。
「カグヤが」
香久夜の体がまばゆく輝いて、鳳輔たちに照司からショウジが出現したときのことを思い起こさせた。そして、人々は期待した。香久夜が心に封じてしまったこの世界のカグヤが出てくれば、カグヤとショウジがそろって回廊を封じることが出来る。この世界を消滅させずに、邪気の流入を防いで存続させうる。
しかし、その輝きがどこか淡い。やがて、輝きはとだえ、香久夜一人が残された。月の世界のカグヤは、香久夜の心に封じられたまま出てくることができないらしい。その足下で人々の影が長い。日が落ちかけて、最後の日が終わろうとしている。鳳輔は香久夜と照司を送り返さねばならない。
「私な、この世界の人たちのおかげで、自分が生まれてきても良かったんやって思てん。そやけど、あっちの世界では、私はいらん子や」
香久夜がぽつりと語った言葉が、鳳輔たち心を抉った。