ショウジの予兆
自分たちが聖域アシカタへの旅に出ていたことが、今は夢のように思える。失われた仲間のことを思い起こせば、夢であって欲しいという気分になる。
姉弟は周囲を見回した。この竹林の光景には見覚えがある。彼女たちが旅立った都の端、吉祥が旅に加わった場所だった。
(生きて帰れたんか?)
すとんっ、と腰でも抜けたように、全身から力が抜けて、二人は葉を茂らせた竹の傍らでへたり込んだ。力も気力も失せていて、お互いに交わす言葉もない。照司は両足を投げ出して、空を仰ぎ見ていた。旅に出る前には感情を感じ取ることの出来なかった彼の表情に、今は物悲しげな感情が溢れ出したまま静止していた。
香久夜の全身の力が抜け切っているのに、太刀の海王丸の束を握る指が離れない。左の手で右手の指を柄から剥がし取るように伸ばそうと思うのだが、そんな簡単な動作がうまく出来ない。指が滑ってつかめなかったり、伸ばした指が再び柄を握ってしまったり、ぼんやり意味のない行為が続く中で、彼女の感情に虚しさに怒りや悲しみが加わって、言葉破裂するようにが噴出した。
「あほかぁ! 私ら、また、二人だけやんか」
姉の罵声が誰に向けられたものか、照司はぼんやりと姉を振り返りつつも分からない。数ヶ月の苦しい旅の中で必死で築き上げたものが、その最後のたった数時間で崩壊してしまった。姉の言葉の通り、今は二人だけだった。
(今は、二人だけ)
二人がそう感じたとき、二人はそろって思った。吉祥、山王丸、鳳輔、あの三人が姉弟の大切な家族だったことを。
香久夜は再び握ったままの海王丸を眺めた。この太刀でスエラギ様に切りつけた記憶が蘇った。そのスエラギ様が、二人を都まで送り返してくれたのだろう。既にスエラギ様の意思は途絶えて、世界からも切り離された気分だった。
世界を救ってやると大言壮語して出かけたものの、二人は目的を果たせず帰ってきた。人々に心苦しい。なにより、スエラギ様がこの世界を救う唯一の方法として、この世界を滅ぼし再構築することを選んだと言うことを、人々に告げなくてはならない。
「また、二人だけになってしもたな」
「お姉ちゃん」
「しゃあないな。行こか」
香久夜は照司の手を取った。一人で歩くのは心細い。香久夜は照司の横顔を眺めた。照司は姉の自分が気付かない内に、しっかりした足どりで地を踏みしめていて、弱々しさが失せている。この弟と一緒なら、残された数週間の人生を全うする価値はある。目的を果たさず戻った二人は、人々の失望や怒りの罵声を浴びなくてはならないだろうが、二人がいれば耐えられる。二人の前に、もうこの方向しかないとでも言うように、都に続く街道が長く延びて見えていた。
照司は首を傾げた。首にかけたお守りの袋に、暖かく懐かしい人たちの息吹を感じとったのだった。吉祥にもらった珠が入った小袋だった。今は願い事を叶えてくれると言った吉祥もこの世には居ないはずだった。ただ、照司は珠に祈れと言ったスエラギ様の言葉を思い出した。
(吉祥さん、山王丸さん、鳳輔さん、もう一度)
照司は願うようにそう考えて、袋の上から珠を握りしめた。その照司が驚いて姉に呼びかけた。
「お姉ちゃん」
照司は言葉を途切れさせた。この珠の感触をどう表現すればいいのだろう。吉祥から受け取った時に感じた、固く凍り付いた義務感は融けて、緩やかに周囲を潤しながら流れるように、暖かさが照司を愛おしく包む。母親の愛情のみが持つ包容力だった。その現象に不思議さや不気味さはなかった。その振動が懐かしさを誘うようにも感じられる。
香久夜はそんな弟に気づかないまま、まだ抜いたままの太刀に気付いて鞘に収めようとした。その海王丸の刀身が鞘に収まる寸前、何かに呼応するように太刀の鍔が振るえて鳴った。
「変やな」
「どうしたん?」
照司の疑問に香久夜は太刀を掲げて見せた。
「ほらっ、海王丸の鍔が震えてるねん」
姉弟は不思議そうに首を傾げた。歩みを進めると、それに呼応して共鳴するように振動が大きくなる。
「あっ、あ・あ・あっ……」
この瞬間、目の前の光景に、照司の喜びの声は言葉にならなかった。遠目に人の姿が見え、数えてみれば三人。真ん中のずんぐりした体型は山王丸に違いなかった。
頭上で槍の鞘を半ば払うように掲げていて、その槍の穂先の鋼がきらきら光を放っている。太刀の共鳴と呼応して光っているように見えた。白い袈裟姿の背筋の伸びた老人は鳳輔に違いなく、ほっそりした女の姿は吉祥に違いなかった。
「あれっ、私たち、もう死んでんの?」
香久夜は光景が信じられない。既にこの世が消滅し、亡くなった三人と、あの世でめぐり合ったのかといぶかったが、そうではない。照司は前方に踏み出しかけた足を躊躇して止めた。
(目の前に見える、吉祥や山王丸や鳳輔の姿は本物だろうか?)
嬉しさの反面、信じられないと言う気持ちがあり、照司は少し立ち止まって、前方の三人を眺めた。幼いながら、信じたいと思った事が、裏切られることを繰り返していた。旅の目的が果たせなかったと言うこともその一つかもしれない。自分を裏切った運命に対する憎しみより、膨らませた期待や夢が失望に代わるときの自分の無力感の方が嫌だった。
(あれが蘇った仲間だと信じたあと、幻だと分かったら?)
照司はその格差に臆病なほど慎重になっている。じっくり見つめれば、鳳輔の白髪や髭は乱れて、白い袈裟は袂の辺りが千切れてしまっている。フクロウの姿に戻ったら、きっと、翼の風切り羽までボロボロに抜け落ちていて、空を飛ぶのにも苦労する姿だろう。山王丸は兜の天突きの飾りが取れかけてブラブラしているし、胴の辺りには鋭い刃物で切り裂かれたような傷がある。吉祥の着物は焦げて千切れて膝から下が見える。顔は煤けたように黒い。腰まで届いた髪の先は焦げて縮れ、ショートヘアーになっていた。
その仲間のボロボロで疲れ切った姿に、かえって実在感がある。なにより、そんな、よれよれのくたびれた姿でありながら、そろって満面の笑みをたたえて二人に視線を向けていた。山王丸の面にさえ、目には温かな微笑みの光が感じられる。
前方に見える三人は幻ではなかった。理由は分からないが、蘇ってあそこに存在するのは間違いがない。照司は改めて駆けだした。駆けてくる照司に手を伸ばし、優しく抱きしめようとする吉祥を見て、香久夜の心に温かみがわいた。この温かみは自分自身が生きている証だった。山王丸の姿を見ていると酷く懐かしい思いがして、香久夜もかけ出そうとした。そんな香久夜を立ち止まらせたのは、先に駆け寄った照司に生じた異変だった。




