スエラギ様の浄化
彼女は再び太刀を構えて跳ねた。この時に、また宝珠がびくんと大きく振動し、赤黒い意識の波が濃密な霧にも似て、じんわりと漏れだした。一人になったらという言葉と共に爆発した香久夜の怒りが、宝珠の頑丈な殻にヒビを入れたのである。
「お姉ちゃん」
その一瞬、照司が手にした守り刀を抜いてスエラギ様の頭上に投げた。もちろん、スエラギ様は照司の意図を察している。しかし、香久夜がスエラギ様の動きを読んで、自分を弾き飛ばそうとする腕を太刀で払って、その腕を足場にさらに跳ねて加速度を付けてスエラギ様の顔面に迫っている。スエラギ様の気が目の前に迫った香久夜に逸れた。
香久夜はスエラギ様の手に捉えられて、香久夜の背丈ほどもあるスエラギ様の顔面にいる。次の瞬間に余裕の笑みを見せていた表情が苦悶の表情に変わった。三面の顔がくるくる切り替わったが、どの顔も苦痛や恐怖を浮かべていた。見上げれば、スエラギ様の頭上の宝珠に照司の守り刀が刺さって、血のように赤黒い眩い光を放って部屋を満たしていた。
やがて、その短刀はぽとりと床に落ち、腫れ物からどろりと鬱血した血が膿を伴って溢れ出すように、宝珠に貯まり腐り果てていた邪念がしたたり落ちて、スエラギ様と香久夜に降り注いだ。その時に、香久夜を掴んでいたスエラギ様の腕がゆるりと動いた。照司にはスエラギ様が姉を懐に庇ったように見えたし、香久夜は光に包まれるようで、心地よい雰囲気の中にいた。
照司の位置からは香久夜が感じた光を、スエラギ様が放っているのが見えていた。スエラギ様の姿から鈍く赤黒い輝きが消えて、いまは眩いばかりに輝いて色の区別がない。
滴り落ちてきた邪念は、海に流した絵の具が溶けて薄まって色を失うように消滅した。最後にその宝珠を支えていた腕まで光を放ち始め、宝珠は握りつぶされるように光の中に消滅した。
光が多少薄れて、スエラギ様の表情がかいま見えた。何かを酷く悔いるような眼差し。無垢な青年のような、遥か彼方を見つめる目。やや、うつむき加減に静かに考え込む表情。まるで、スエラギ様の心中を現すように表情がめまぐるしく切り替わっていた。
光の中にいて、香久夜は逃げだそうともがいているのだが、しっかり優しく捉えられていて身動きがとれない。やがて、香久夜自身が意図したわけではなく、光の中から抜け出して床にそっと横たえられた。香久夜の涙声が響いた。
「あほぉ、あんたに家族を無くした者の気持ちが分かるか」
スエラギ様が発する雰囲気が一転していた。深い思索の中にいるように落ち着きがあり、体は静かに動きを止めていた。
【だめっ】
香久夜の心の奥底で香久夜に対して叫ぶ声がある。しかし、何かおかしいと思いつつも、蓬莱島の香久夜の意志は、彼女の体を太刀を構えたまま壁を蹴って、スエラギ様に突進させた。今まで強大だったスエラギ様の力が弱まっていると感じたのである。
「お姉ちゃん」
スエラギ様に太刀を振るう姉の姿を眺めた照司も、香久夜の心の底の声と同じ事に気づいた。香久夜たちは邪念を帯びたスエラギ様を倒すのではなくて、スエラギ様に憑依していた邪念を払い、目覚める手助けをしたのである。今のスエラギ様はもとの清浄で濁りのない意識を取り戻していた。照司は慌てて繰り返した。
「お姉ちゃん。あかん」
「あほぉ。弱ってるうちに、きっちり止めをさしとくんやぁ」
香久夜の経験では、邪教の神を倒してホッとしていたら、パワーアップして復活し、プレイヤーに苦戦を強いる。それがロールプレイングゲームやファンタジーの物語の定番の筋立だった。こんなのに復活されて、もう一度、戦うなんてまっぴらだ。相手が人間であろうと神であろうと、弟を守るためなら何でもする。
香久夜の体が再びスエラギ様に捉えられ太刀の切っ先が空を切り、姉が見苦しいほど手足をじたばたさせて喚いている様子を見て、照司はホッと胸をなで下ろした。
【良かった】
香久夜自身の心の底にもスエラギ様の無事を喜ぶ声が聞こえるようだ。
香久夜の体はスエラギ様の手に支えられて、ふんわり宙に浮かんでおり、振り回し続ける太刀はスエラギ様に届かない。弟を守るという香久夜の一念をスエラギ様は愛した。
《そなたたちに封印をさせたこと、わたしの誤りであった》
心に柔らかく伝わってくるスエラギ様の意志が香久夜の緊張を解いた。
「平和な世界にしてくれるのん?」
香久夜が発したその声に、慈愛に満ちた波動に乗って、スエラギ様の意思が伝わってきた。
《力を備えたまま、邪悪を払うべきであった。降り注ぐ邪念で神殿の屋根も犯され、わたしもまた力を失ったばかりでなく、汚れた意識に冒され力をふるった。わたしは汚れた意識の操り人形であった》
照司は一番気がかりな質問をした。
「みんなが笑って過ごせるようになるのん?」
スエラギ様の声のイメージが、いつしか力強い男性のものから、包容力のある女性のイメージに変わりつつあった。
《その為には蓬莱島との回廊を閉じねばなりません》
迷いの森ウナサカから、聖域アシカタの野を隔てる門を思い出した。香久夜と照司、二人で開け閉めした扉がついた巨大な門のイメージだった。
「あんな門があるの?」
スエラギ様は照司と香久夜の心の中から、そのイメージを汲み取り、別のイメージを伝えた。ずいぶんがっしりした作りの門だという以外に、香久夜と照司を拒む雰囲気がある。
「あれを閉じてきたら、ええのん?」
スエラギ様は、門が二人を拒む雰囲気の事を語った。
《あの門を閉じることが出来るのは、、カグヤとショウジだけです》
「何を言うてんの。私は香久夜やで。こっちは照司や」
《そうではありません。蓬莱島との境にある扉を閉じることが出来るのは、私のカグヤとショウジです。蓬莱島の者にはアシカタの門を閉じることは出来ても、あの回廊門を閉ざすことは出来ません》
その通りだと香久夜は思った。もし、あの扉が香久夜たちの世界の者に開け閉めできるものなら、こちらの世界が嫌だと拒絶しても、向こうは勝手に扉を開けて入ってくるだろう。香久夜はもといた世界の人々の身勝手さを思い起こして納得せざるを得ない。
スエラギ様の意思が伝え聞くのと同時に、香久夜と照司はスエラギ様の一部に同化し共有している。二人はこの世界の仕組みについて分かったことがある。スエラギ様というのは、香久夜たちの世界の人々が思い描く万能の造物主ではない。この世界の意思であり、心だった。カグヤとショウジはその腕の機能を担っている。
その世界の仕組みに迫るほど香久夜と照司は首をかしげざるを得ない。回廊を閉じられないなら、どうやって救えばいい。その不安をスエラギ様の声が癒した。
《照司、香久夜。残された日々、この世界を記憶に刻んでおきなさい》
この失われる世界のことを、何時までも覚えておいてくれと言うイメージだった。残された日というのは、どういうことだろう。
「どういうこと?」
《私は消滅する》
「この世界は?」
《私と共に消滅する》
「サギリさんや、イセポさんや、ムタケルさんや、ナセリさんは?」
香久夜は他にも言いたい名前はいっぱいある。しかし遮るようにスエラギ様の声が響く。
《消滅する》
「そんなん」
《心配は無用です。いずれ、わたしは浄化されて、世界は蘇ります》
その言葉に秘められたイメージは、この世界のあらゆる存在が全てが一体になって融合し、精錬されつつ、不純物を吐き出して、新たな世界を構築するという壮大なものだった。
蓬莱島との関係を完全に絶って回廊を持たない状態でスエラギ様は浄化されて蘇り、この世界も蘇る。ただ、新しい世界に現れる生き物はこの世界と同じものではない。スセリ、ムタケル、マツリにイセポ、この世界で香久夜と照司を慈しんでくれた全ての人々は、永遠に消えて無くなる。香久夜と照司はこの世界に来てから出会った人々のことを思い起こした。人々と香久夜の暖かなつながりは消え、再生する者たちは、二人と関わりのない存在だろう。
《蓬莱島の照司と香久夜よ、私の言葉を人々に伝えなさい》
言葉と共に、心苦しいという雰囲気がじんわり伝わってくる。辛い役目を香久夜と照司に指示しなければならないということだろう。ただ、人々は直接にスエラギ様の言葉を聞くことは出来ず、香久夜や照司がその声としての責務を背負っている。
その意思を最後に、スエラギ様が黙り込むように、共有する意識が切り離され、言葉も途絶えた。
「ちょっと、待ってぇな。そんなん、おかしいわ」
抗議の声を上げる香久夜の前で、スエラギ様や神殿が揺らめいて見える。スエラギ様は姿を消そうとしている。香久夜はそう考えたのだが、姿が不安定になっているのは香久夜と照司の方だった。
《照司、その胸の珠に祈りなさい》
照司はそんな声を聞いたような気がしたのだが、おぼろげになっていく景色と共に、二人の意識もふと途絶えてしまった。