聖域アシカタの野
第四章 聖域アシカタ
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「ここが?」
香久夜が呟いて、山王丸や吉祥がそうらしいと頷いた。
迷いの森ウナサカを歩き続けていた仲間の感覚からすると、突然と言っていい。フクロウの姿の鳳輔まで、不思議そうに首を傾げていた。上空から広く見渡してもこんな巨大な山門は見つけることは出来なかった。
霧が晴れて景色が広がるように、見上げるほど巨大な門が仲間の前に出現したのだった。ただ、広大なウナサカの樹海とその中央の聖域アシカタの野を遮る塀はなく、香久夜の背丈の四、五倍はあろうかという門だけだった。大門の観音開きの扉は大きく開いていて、門の外の景色は今までと変わりなく、ウナサカの樹海が続いている。しかし、門の内側に広がる景色に、荒れ果てた草原が見えた。ウナサカの樹海の中央にある直径十キロメートルばかりの草原地帯が、この星で最も清浄とされるアシカタの野だった。今は草木も枯れ果て、溜まり水がどろりと濁って腐臭を放っているようだ。その中央の小高い丘にスエラギ様の神殿があるはずだ。
香久夜は何かを探るように、門の外側から後ろに回り込んだ。門は消失するように見えなくなってウナサカの景色の中に溶け込んだ。更に、ぐるりと回って正面に戻ると、再び門が出現して、その内側にアシカタの野が広がっていた。香久夜は柱をぽんぽん叩いた。その堅さや温度に木の質感がある。石組みの台座の上に柱が立てられていて、表面は朱色に塗られているが、木目が確認できる。門の存在は幻ではない。香久夜は黙って仲間を振り返ったが、やがて、門の扉を押した。右側の扉が軋むように閉じて行く。巨大な扉だが、香久夜の腕力で軽く閉じることが出来るようだ。香久夜はもう一度仲間の様子を窺って、左の扉も閉じようとした。
「お姉ちゃん。閉めたら、あかんで」
弱々しく呼びかける照司の声に、やや非難の色合いが籠もっていた。
彼女はこの門を閉じる行為を通じて、ここから引き返そうと提案している。しかし、照司は山王丸の手を引いて、開いたままの左の扉から門をくぐろうとした。
ごんっ。
照司は何かにぶつけた額を押さえた。手で探ると門には目に見えない壁があって通り抜けることが出来ない。照司は左右の扉が開いていなければ通れないということを思い出した。照司は姉が閉じた右の扉に手をかけた。力を込めても開かない。
左の扉を開け閉めできるのは、ショウジだけ。
右の扉を開け閉めできるのは、カグヤだけ。
照司はそれを思い出して哀願した。
「お姉ちゃん、開けて」
哀願する照司に、はじけるように香久夜が反論した。
「あんた、何もわかってへん」
そんな言葉を発した香久夜自身が、この旅に出たときの自分自身を振り返って気づいたことがある。この旅の重さから逃げ出して照司と二人で生きることを望んでいた。それが今はどうだろう。この世界を救いたい。そんな大それた希望を持っていた。なにより、それが自分自身の為になるのではないかという期待さえする。しかし、それが大きな勘違いだとしたら。元の生き方に戻るとすれば、この門をくぐろうとする今が最後の機会だった。そんな姉の気持ちを察したのかどうか、照司が言った。
「ボクら、スエラギ様の所へ行かなあかんねん」
「そやから、分かってへんねん。スエラギ様は狂ってるねんで。そんな危ないとこへ行くなんて考えられへんわ」
二人と旅をともにする仲間は、香久夜の行為も理解できた。この門から一歩踏み込めば、危険は遥かに増すに違いない。仲間はここまで来るまでに随分苦労をした。香久夜は、その苦労だけで充分ではないかというのである。その香久夜が本心を爆発させた。
「せっかくできた家族や。みんな死んでしまうかもしれへんねんで」
香久夜にとって大事なのは、家族が仲良く一緒にいることだった。そして、今は、香久夜の家族は照司に加えて、山王丸や吉祥や鳳輔が加わっている。短い沈黙を照司が切り開いた。
「ボク、ここに来るまでに親切にしてくれた人たちを助けたいねん。ボクに家族ができたのは、あの人たちのおかげやねん」
この世界に来てからのこと、この旅に出てからのことを振り返れば照司の言うとおりで、香久夜に反論の余地はなかった。彼女は無言のまま扉を開けるしかなかった。
門を通り抜けた仲間たちは、息をのんで首をぐるりと回すほど、門の内側の世界に圧倒された。周囲は一面に枯れ果てた草原が広がって、振り返ると、今まで旅をした広大なウナサカの樹海は、通り抜けたばかりの門の内側にのみ見えているだけである。
「油断するな。ここはまだ入り口にすぎぬ」
山王丸は自分に言い聞かせるように言った。その通りだった。仲間は迷いの森ウナサカを抜けたばかりで、ようやく聖域の入り口に辿り着いたに過ぎない。
鳳輔が興味を示して梟の姿で空に飛び立ってみると、広大なウナサカの樹海は見えず、山門も消え失せて、ただ広大なアシカタの野が広がっている。
(いったい、この山門は?)
そう粒やい首を傾げる鳳輔に、吉祥はやや優越感を抱いた。彼女は過去に「空から見ても分からぬが、結界を抜けて地を行けば、」と、この場所の存在を知っていた。
その優越感が、吉祥に持続していた警戒感を解かせた。吉祥は物陰から自分を狙って降下する妖に気付かなかった。香久夜が叫んだ。
「お母ちゃん。危ない!」
照司が守り刀を抜いて切りつけて妖の勢いを止めた。鳳輔が錫杖を振るって止めを刺した。山王丸も素早く反応して香久夜を守る位置にいる。
周囲を見回すと、他に邪悪な存在は見当たらず、山王丸はこれが群れからはぐれて単独行動していたものだろうと判断した。ほっと力を抜いた仲間の中で、吉祥は思い起こすようにじっと香久夜を見つめた。香久夜もそれに気付いて吉祥の視線を避けながら、太刀海王丸を鞘に戻した。短い沈黙の後、吉祥は尋ねた。
「香久夜、いま何と?」
香久夜は吉祥のその質問に答えることが出来ない。緊急の状況で、深く考える間もなく、吉祥を『お母ちゃん』と呼んでいた。香久夜は自分の声をはっきり覚えていた。吉祥はにんまり笑って、香久夜を抱いた。
「もう一度、言ってごらん」
香久夜は吉祥の胸に、拗ねた表情を隠して言った。
「お母ちゃん。こう言うたら、ええんか?」
まだ、多少反抗的だが、吉祥は満足することにした。香久夜の髪を撫でてみると、指に優しくまとわり付くようでやわらかく心地よい。
(どうして?)
吉祥の心の中がほんのり暖かく、彼女は溢れた涙を指でぬぐったが、その涙の理由が判らない。
しかし、涙の余韻に浸る間もなく、上空から降って来たように現れた妖魔の爪を、照司は自分の守り刀で受け止めた。その腕の筋肉が緊張して、ぶるぶる震えている。妖魔の力が今までになく強大で、照司の力でも支えきれない。山王丸が短槍を振るって、妖魔にとどめを刺した。
「えっ?」
二匹目の妖魔が香久夜の太刀を避けた。香久夜は狙った獲物を外したことがない。しかし妖魔はするりと身をかわして香久夜の一撃を避けたのだった。しかし、吉祥の雷がその妖を焼き尽くした。その吉祥の隙を狙って、三匹目の妖魔が翼を広げて飛びかかろうとした刹那、鳳輔の錫杖が一撃目で妖魔の翼を叩き折り、次の一撃で頭を叩きつぶした。
この妖魔はウナサカの樹海のものとは比べることが出来ないほど強大な力を持っていた。しかし、この聖域の端に巣くっていた小物にすぎないのかもしれないという悪い予感もした。中央にはもっと強大な夜の妖がいるに違いなかった。香久夜と照司を狙ってた妖魔も、ここに来て香久夜一行の皆殺しを狙うように、手当たり次第に襲ってくる様子がうかがえる。
一方、前方を見つめる照司にも、ずっと気がかりなことがあった。時折、背筋に寒気が走るような異様な意思を感じる。ずっと昔、スエラギ様を流れ込む邪念から守るために聖域アシカタの野の中央、ミウの丘の神殿に封じた。カグヤとショウジが再び封印を解くまでは、犯されることの無い厳重な眠りについているはずだ。
しかし、今、彼が感じている怒り、嫉妬、憎しみ、侮蔑、汚濁にまみれた意識は何だろう。こういう形で意思を照司に伝えるのはスエラギ以外には無いはずだ。
(封印をご自分で解いて目覚められたのか)とも思ったのだが、この意識はスエラギ本来のものではない。
(本当のスエラギ様は?)
そんな照司の傍らで、香久夜とその分身のカグヤも同じ事を考えていた。
【スエラギ様は本当に狂われたの?】
山王丸は背負っていた大きな荷を捨て、決意を固めて言った。
「一気に抜けよう」
香久夜たちも山王丸の指示に異論はない。ゆっくりしていれば、妖魔が集まってきて遭遇の機会が増えるだけだ。
前方を見つめる照司の視線を追えば、中央のミウの丘と神殿がここからでも見えた。身軽になって歩調を早めれば数時間で辿り着ける距離だろう。
残りの仲間も山王丸を見習った。香久夜も瓢箪に残った僅かな水を飲み干して、手の甲で唇を拭いてから、その瓢箪すら捨てた。照司は香久夜に付き従いながら、肌にびりびりと響くほどの迫力を感じている。神殿から響き渡るような重苦しい迫力で、スエラギ様は既に香久夜達の存在に気付いていることが知れた。