蓬莱島の正体
「あんたら、もうええで」
香久夜はそんな言葉をタロウザにかけた。里を出立した時から、五人の屈強な元山賊たちが香久夜たちの荷を背負ってついてくる。それを断っていたのだった。荒涼とした景色の中で、生き物の姿が疎らになったことと照らし合わせると、タロウザたちが荒い息づかいをしている理由が分かる。香久夜と照司には、重く澱んだ雰囲気だが、タロウザたち生身の人間にとって呼吸さえつらいのだろう。
「我らはこれからウナサカに入る。都の人々にしかと伝えよ」
山王丸はそういう言い方をした。香久夜たちは近道をして街道から外れ、山に分け入ったために、都との連絡が途絶えてしまっていた。山王丸は続けた。
「よもやそういうことはあるまいが、我らがウナサカで果てた場合、事の次第を知るのはお前達だけである」
どこまでも付いて行くと言うタロウザに、別の任務を与えて帰らせるという配慮だった。もちろん、香久夜と照司をウナサカで果てさせるつもりはないが、そういう強い表現を使わなければ、この男達は引き下がるまい。山王丸はてきぱきと指示を出し、タロウザたちが背負ってきた荷を分けさせた。
「これも腰につけておけ」
「うんっ」
水の入った瓢箪を身につけておけと指示をする山王丸に、香久夜は素直に頷いた。吉祥は小首をひねった。香久夜の素直さが珍しい。香久夜自身、自身の変化に気付いていないだろう。今の彼女は、山王丸に他の人物に抱く疑いを抱いていない。彼女たちの為に重い荷を背負うさま、香久夜たちに疑問を抱かせない判断力や行動などを見せられれば当然と言える。唯一、香久夜に疑念があるとすれば、何故、山王丸がこれほど親切であり、危険な旅に積極的になれるのかということだった。何か裏があるのかもしれない、そう疑う心が僅かに残っていた。しかし、カヤミの意思を果たすためという明確な思いを告げられて疑念は消えていた。
(そうか、これまでのことなんて、ただの遠足みたいなもんやんか)
香久夜は緊張した。
「残りは捨てよ、出来るだけ軽装にし、この場を離れ村に戻れ」
山王丸はタロウザたちに命じたが、タロウザたちは山王丸の最後の指示だけは、承服しかねた。せめて最後まで見送ると言う。香久夜たちが先に立ち去らなければならなかった。
タロウザたちはすがりつくような目で香久夜たちを見送った。
(こいつらぁー、最後まで)
香久夜はやや愛情を込めて腹立たしく思った。この世界を救いたいと言う気持ちはある。ただ、自分と照司のことを考えれば、この旅から逃げて、世界の片隅で照司と二人で平和に暮らすと言う運命の選択肢もあっていいはずだ。命令口調で叱咤激励されれば反感が高まって、さっさと逃げてしまえるが、こういうすがりつくような視線で眺められると旅を放棄するわけには行かなくなる。
ウナサカに入った香久夜は当然のことに気付かされた。野において夜を過ごすための寝具として厚手の毛布を持参するということだ。食料や水も携行する。毛布と言えば軽いものに思えるが、香久夜はくるくる巻いた毛布を抱えて意外に重いことに驚いた。汗や夜露を吸えばもっとずっしり重くなる。そのかさばり、重い毛布を山王丸が背負う。
山王丸は休息の時に、背負った荷をどさりと音をさせて降ろすことがある。疲れを感じることもあるのだろう。しかし、苦行僧が求めて困難を背負うように山王丸は荷を背負い続けていた。自分自身への怒りと決意を抑え、濃縮するかのようでもある。
旅の仲間は四人に戻った。何か侘しさが漂っていた。人数が減じたということばかりではない。ウナサカの森の中心部アシカタの野から広がる瘴気を、周囲の樹海が浄化しきれず、漏れ出した瘴気が樹木を冒し木を枯らす。まばらになった木々で地形は見晴らしがいい。小鳥や小動物の気配は絶えているようだった。そして、この夜が香久夜と照司の一つの転機となった。
この世界のカグヤのイメージでは、四人は人の世界の端にたどり着き、その裏側の面に転移した。香久夜のイメージでは極地から旅を始めた四人がこの星の赤道を越えて、蓬莱島が見える半球に入ったという初めての夜だった。
「お姉ちゃん、あれ」
照司が腕を向けた先に異様なものがある。陽が暮れきって濃い闇の地平線に青みがかった巨大な星がくっきりと浮かび上がっていた。香久夜が今まで見てきたどの星より大きく、石を投げれば届くのではないかと思わせた。ただ、ウナサカの森に住んでいれば珍しい光景ではない。吉祥がこともなげに言った。
「蓬莱島でしょう」
(あれが、蓬莱島?)
都の人々からも再三聞かされた地名だし、この世界の何処かにいるカグヤが目撃して映像としても記憶にある。しかし、青く大きいその異様な星の姿に、香久夜は別の記憶が沸いた。全体は青みががかって、褐色の模様があり、その模様が流れる雲の白さで彩られている。
「ちゃうやん。あれ地球やで」
香久夜は照司にそう語った。他には『地球』という言葉を理解する仲間はいない。香久夜は考え続けた。
(地球があの位置にあって、あの大きさに見えるなら……)
そんな思いの結論を香久夜は言葉にして発した。
「分かったで。ここ、月の世界やんか」
香久夜は弟を指導するように続けて言った。
「月って、重力が地球の三分の一しかないねん」
月の重力が小さいというのは知っているが、三分の一というのは知識があやふやでハッキリしない。姉としての権威を出すために、三分の一と言う数字を上げたが、月の本当の重力はもっと小さい。香久夜が言いたかったのは数字ではなく、二人が重力の大きな地球で育ったために、この月の世界の人々より、ずっと大きな力を身に付けているのではないかということである。元の世界での香久夜の体重は四十六kgに満たないが、この世界では八kgにも感じない、やせ細った香久夜の筋肉でも、弥緑社を囲む生け垣を跳び越えることなど難しくないということだった。
この世界で腕力や脚力があるというのは便利だが、いつ、人から虐げられるだけの無力な状態に戻ってしまうか分からない内は不安だった。推測にせよ、自分の腕力にちゃんと理由付けが出来たことで香久夜は自信をつけた。ただ、ここが月だとすれば、まだ不思議なことがある。香久夜は深呼吸してみた。
(そやけど、空気あるで、ここ)
しかし、その矛盾の解決策も思いついた。香久夜は経験上、繰り返し学んでいた。
(大人って、嘘つきやもんな)ということだ。
この場合、これは実に便利な事実だった。全ての事柄や矛盾が、その一言で解決する。二人が呼吸をしていることは事実に違いない。月の世界に空気がないと言うのは、大人が言ったことだから信用できない。そう考えると、この世界に空気があって、風も吹いているという説明も付く。香久夜はすっかり納得した。
「では、貴方たちはあそこから来たというの?」
吉祥の疑問に、照司は分からないと首を傾げ、香久夜は質問を返した。
「そやけど、邪念が流れ込んでくるのって、あそこから?」
香久夜はその住人だったということに気が重い。じっと蓬莱島を見上げる香久夜に山王丸が声をかけた。
「どうした、香久夜。蓬莱島が懐かしいか?」
「ううん」
香久夜は首を横に振った。あの星を眺めて思い起こされるのは、人々の同情や蔑みの表情だった。十四年間という人生を振り返って思うのは、自分と照司が邪気に包まれ続けたのかと思い出だけだった。
(あそこには、私と照司の居場所はあれへんねん)
懐かしいという感情は湧かず、帰っても仕方がないと確信している。