家族の別離
近づいてくる音が、伝令の早馬だと気づいて警戒を解いた直後の事だった。香久夜は荒い息を整えながら主張した。
「ムタケルにもスセリにも、言うたらあかんで。私ら、大丈夫やから」
香久夜は白刃を鞘に戻した。突然に街道の両側の草むらから現れた十数匹の妖の襲撃を受けて撃退した。数匹の妖は逃げ去り、彼女たちが切り捨てた妖は既に融け果てて遺骸は残らず、鞘から抜きはなった白刃と息を整える彼女たちの姿にその行為が残っているに過ぎない。
この状況が都に伝われば、人々が動揺する。それは避けたい。山王丸は香久夜の配慮に感心した。旅に出た頃の香久夜の態度に比べれば、香久夜の変化と成長が伺えた。ただ、山王丸自身は気付いてはいない。彼が香久夜を眺める目に、娘の成長を愛でる父親の感情が加わっていた。
旅の仲間と都との連絡は早馬で保たれているが、都との距離が開くにつれて、連絡の間隔が大きくなる。香久夜たちは日々宿泊する村落の長に、日々の状況をしたためた書状を託していた。香久夜達の様子は村落の長から都に届き、都からの通信は早馬によって仲間の元に届いていた。この日、香久夜たちは街道の途中で都からの書状を受け取った。カグヤとショウジの健康と安否を問う連絡である。そして、文面の最後に、再び都に妖が襲来したという事実が報告されていた。聖域アシカタの野によからぬ変化がおき始めているらしいという。
ただ、幸いなことに、妖が上空に姿を現したのみで人は襲わず、どこかに飛び去ったとも伝えていた。香久夜たちはその知らせに安堵の色を浮かべていたが、山王丸はやや黙って考え込んでいた。
(妖どもめ。都には襲うべき相手が居ないことに気づいたということか)
山王丸はその視線を香久夜と照司に注いだ。香久夜は別のことを考えている。
(もっと早く)
香久夜の願いにもかかわらず、街道はいよいよ前方に見える深い山々を迂回して、ウナサカの樹海から東に大きく逸れてゆく。
「だめね」
香久夜たちのもとに戻った吉祥は、姿を人間に変え、肩をすくめてそう言った。この深い山々を上空から眺めれば、距離や高低差は分かる。しかし、斜面を登るのに、しっかり体重を支える足場や手がかりがあるか、倒木や岩を乗り越えるために無用に体力や時間を消費する地形ではないか。日暮れのあと、安全に体を休める場所があるかどうか。移動可能な地形が連続して続いており、山岳地帯を抜けてウナサカへ至ることが出来るかどうか。そういうことは、上空から判じることが出来ないという。たとえ、近道を求めて山へ分け入っても、途中、踏破不可能な地形に阻まれれば、再びここまで戻るしかない。香久夜も照司も、いつしか、旅の判断を山王丸に任せて疑いを抱くことがない。
(時間と、二人の体力が惜しい。それに妖どもが……)
山王丸は香久夜と照司を見て、ため息をつくようにそう思った。目の前の山岳地帯にまっすぐ突入するか、街道に沿って十数日の迂回するか、その判断を求められる場所が近づいていた。山王丸も判断に窮している。しかし、四人の歩調は衰えることなく続いていた。景色は開けて見晴らしが良く、妖に奇襲される恐れは去った。子供たちの足取りは軽やかで、ともすれば先行して、遅れて続く山王丸や吉祥を振り返って、早く早くと誘う素振りをする事がある。
吉祥がふと気づけば、子供たちを眺めて考え込む素振りの山王丸がいた。
「どうしたのさ?」
「多少、気になることがある」
「何さ」
「先の妖どもは、香久夜と照司を狙ろうていたのではないか?」
偶然に遭遇した香久夜たちを襲ったのではなく、香久夜たちに狙いを定めて探索し、意図的に香久夜と照司を狙っているのではないかという。十数匹、すべての妖が香久夜と照司を狙い、攻撃したように思える。
「気の回しすぎよ」
吉祥は明るく声を上げて笑った。彼女も自分を攻撃する妖が居なかった事実で、同じ疑念を抱えている。しかし、笑い飛ばしておかないと、吉祥もまた同じ不安に苛まされざるを得ない。先ほど逃げ去った妖でさえ、逃げ去ったのではなく新たな仲間を呼びに行っただけ。やがて数を増やして再び襲ってくる。そんな妄想がわき上がる。
山王丸や吉祥と距離が開いたのに気づいて、香久夜は照司を立ち止まらせて振り返った。そして、ふと心の底からわきあがってきた感情に微笑んで、山王丸と吉祥を指差した。
「ほらっ、見てみ。変な取り合わせや」
姉の言葉に照司はうなづいた。鎧と人の姿の龍が、何やら生真面目に話を交わしている。互いに異質な存在だが、異質なままの関係ではなく、何やら互いを信頼しあう素振りが垣間見えて、それが変な取り合わせと称した光景を作り出していた。
「夫婦漫才でいうたら、ボケ役の夫の山王丸と、突っ込み役の妻の吉祥やな」
普段は姉に忠実な照司だが、二人を漫才師に例える比喩には、やや首を傾げて疑問を呈した。香久夜は二人の光景に台詞を充てた。肩をいからせて肩幅のある山王丸の素振りをして言った。
「なぁ、お前。スエラギさん家はどっちやったかなぁ?」
香久夜は声のトーンを上げて吉祥の声音を真似た
「何やのん、アンタ。ボケるのは空っぽの頭だけにしときやぁ」
二人にそういうセリフを当てると、本当に息の合った漫才師夫婦に見えた。その二人が自分たちを眺めている香久夜と照司に気付いたようだが、吉祥の表情が険しくなり、山王丸は突然に槍の鞘を抜き払った。
「前へぇぇぇっ」
山王丸が抜いた槍の穂先で指し示す前方に、深い木々に覆われた山岳地帯がある。山王丸と吉祥が仰ぎ見る空に視線を転じれば、突然に現れた妖が香久夜たちの様子を覗うように飛び交って、いつの間にか空を隠すほど数が多い。その数に香久夜は恐怖した。彼女自身の死の恐怖ではない。傍らの照司が妖を防ぎきれずに殺されて、香久夜が誰かとの繋がりを失って独りぼっちになってしまう恐怖だった。山王丸の言うとおり、直ぐ目の前の深く茂った木々の下に逃げ込めば、上空からの妖の攻撃を防ぐことが出来るだろう。香久夜と山王丸の距離は開いていて、その間の上空に数十の妖が居る。山王丸と共に戦うために戻れば、照司も危険に晒される。香久夜はそう判断した。彼女は照司の手を引いて安全な森の方へ駆け始めた。
変化を解いて竜の姿に戻っていた吉祥が、ふわりと空に浮いて呟いた。
「やはり」
山王丸が語ったとおり、数え切れないほどの妖の中に吉祥や山王丸を襲うものはなく、獲物を定めたように香久夜と照司を急降下して狙う体勢にあった。山王丸は既に香久夜の方に駆けて山岳地帯の手前の森林に立ちふさがる位置に居り、妖の行く手を遮っていた。龍の姿の吉祥も、自分の周囲を通過して急降下する妖に雷撃を発して叩き落とした。
「照司、こっちにおいで」
香久夜は山王丸の元に戻ろうとする弟の名を呼んで、手を取り、森に向かって駆けだした。もちろん、山王丸と吉祥に背を向けている。
(山王丸が逃げろって言うたんや)
香久夜は心の中でそう言い訳をして、吉祥と山王丸を見捨てた。香久夜は森林地帯に駆け込んで空を見上げた。彼女の上で枝や葉が密に茂っていて上空から襲われる心配は去った。しかし、恐怖が残っていた。香久夜は照司の手を引いて木々の間を縫って森林地帯の奧へ駆けた。森や山の斜面を流れる小川を飛び越え、地を駆けることが出来ない地形は枝から枝へ飛び移って、心臓の鼓動が恐怖のせいではなく、尽きた体力を補うためだけに脈打つまで駆けた。道が無く、深く尾根が入り組んで地形が複雑になり、香久夜は自分が森の更に奧の山岳地帯にまで踏み込んでいることを知った。
そうやってたどり着いた窪地は、二人の姿を空から隠してくれているが、二人の視界を遮っても居る。
「お姉ちゃん。吉祥さんと、山王丸さんは?」
「静かに!」
香久夜は慎重な口調で命じて耳を澄ませた。
(鳥の鳴き声がする。妖は去った)
気配に機敏な小鳥たちは妖が居れば、今の香久夜たちと同じようにどこかに身を潜めている。小鳥が梢でさえずり始めているということは危険が去ったと言うことである。
「お姉ちゃん、山王丸さんと吉祥さんは?」
香久夜は弟が繰り返した質問に応えることが出来ない。離ればなれの不安より、後ろめたさがあった。
(ひょっとしたら、私はあの二人を見捨てた?)
香久夜は周囲の人々の期待や旅の危険から逃れて照司と二人になることを何度も望んだ。いま、図らずも彼女はその望んだ状況にいた。この世界の片隅に二人だけ。二人を傷つけるものは誰もおらず、危険に追い立てる者も居なかった。ただ、望んだ状況と違うのは、二人を愛する者たちとの別離だけ。
周囲に耳をすませても、聞こえるものは木々のざわめきだけだった。
「さんのうまるさぁん」と斜面の下に叫ぶ香久夜の声。
「きっしょうさぁん」と、木々の枝を抜けて空に放つ照司の声。
その声は共に何処かに虚しく吸収されて消え去った。彷徨う二人と山王丸や吉祥を、複雑に入り組んだ尾根と深く密な樹林が隔てていた。
照司や香久夜の声は擦れ、小さい会話の声になって続いた。
「山王丸さんや吉祥さんも、僕らを探してるのかな。僕らを見捨てたりせぇへんよね?」
「山王丸さんはマジメやから、私らを見捨てたりせえへん。吉祥かて……」
照司は香久夜の言葉を聞きつつ、離ればなれになった状況を理解している。しかし、照司の不安感は絶望的と言うわけではない。姉はすっかり忘れてしまっているが、照司は吉祥にもらった珠を身につけていた。
(この珠に念じなさい。助けに来てあげる)
そう言った吉祥の言葉が、生真面目な口調と共に照司の心に残っていた。事実、珠はずっと変わらず、吉祥の固く凍り付く信念を鋭く伝え続けている。この珠に念じれば吉祥が自分たちの居所を探り当てるに違いない。ただ、かなえられる願いは一つだけ、願いを叶えればこの珠は消滅する。照司がそれを提案しようとぽつりと呟いた。
「お姉ちゃん、吉祥さんのことやねんけど」
「なに?」
香久夜の言葉は焦りや苛立ちで冷たく短い、しかし、しっかりと照司の手を握る姉の手からは柔らかさと暖かさが伝わってきて、照司は続く言葉を変質させた。
「本当のお母ちゃんって、あんな感じかな」
「何言うてんのん、あんたには、私がおるやんか」
降り注ぐ光さえ厚く重なる葉に散って、唯一方向を定める太陽すらみえない。その薄暗さとじっとり湿る地面が、二人の不安な心を象徴するようだった。




