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蓬莱島の香久夜(かぐや)

(蓬莱島のカグヤ?)

 頭の中に響いた言葉を、声に出して繰り返したかどうか、香久夜自身は分からない。顔をしかめるほどうるさいベルの音に、彼女はは眠りを中断されて機嫌が悪い。現実の不安が見せた夢かも知れない。何故か、この種の夢を繰り返しみる。ただ、夢が夢である証拠に、眠りから覚めた香久夜は、衣服に隠れた腕や背中に、両親から殴られた現実の痛みを感じ、心に不安や怒りを残している。

 この目覚めた世界が、夢であればいいと言う願望が加わって、目覚めた自分が、いま、別の世界にいるのではないかと考えたくなる。しかし、響き続けるベルの音は、夢と現実を切り分ける。

 見回せば、ここは図書室の片隅。彼女のいつもの指定席である。香久夜は本を広げて眠っていた。彼女にとって、危険に晒されずに休める場所はここしかなかった。

 鳴り止んだベルに代わって、校内は他の生徒のお喋りでうるさくなり、香久夜は眉をひそめた。学校から解放される生徒たちが、帰りに立ち寄るファーストフード店でのおしゃべりの前哨戦を始めている。そんな生徒たちに混じって溶け込まず、香久夜の行動には無駄がない。黙ったまま、人と距離を置いて、音も立てず目立たずに、本を書架に戻した。

 その背表紙を読み取れば、文明の急激な進歩と共に引き起こされた社会不安や憎悪をテーマにした書籍だった。人類は二十世紀、二十一世紀と時を経て、文明の進歩と共に世界的な恐怖や不安も増大させているという。ただ、彼女の幼い顔立ちと比べて眺めれば、世界の貧困や民族問題に傾倒し、それを理解しているのかどうかは疑わしい

 彼女は書物と言う手段を通じて世の中に接するときに、自らに問うことがある。

(私たちは、この世界で邪魔者なの?)

 別の言葉で問うこともある。

(私はこの世界を憎んでいる?)

 迷って、自分が余りに惨めになるときには、この世界を憎むのが良い。

「工藤さん」

 司書の先生が香久夜に声をかけた。生徒は歳の割に体格は幼いが、大きな目に大人びた光を放っている。毎日、図書室に顔を見せる生徒だから、会話をすることはなくても、顔を見れば名前を知っているばかりではなく、彼女が書架に戻した本の題名まで知っている。目立たない無口な子だという印象だが、時間があれば図書室の隅にいて、この図書室の本の大半を読んでいるかもしれない。先生は本を借りて帰ればどうかと提案しようと考えたのだった。

 しかし、先生は戸惑うように言葉を途切れさせた。振り返った香久夜がうつむき加減の顔を上げると、左の頬骨の辺りに痣がある。この痣は香久夜の父親の失態の証でもある。小心でずる賢い父親は、普段は外から痣が目立たないよう、腹や背を狙う。たまたま、酔いがそのずる賢さを取り去って、本来は自分自身に向けるべき怒りや恨みを、娘の顔に向けさせた。先生は心配そうな声音で尋ねた。

「工藤さん。その顔の痣はどうしたの?」

「何でもありません」

 香久夜は無表情で、冷たく言い放って背を向けた。先生は香久夜の後ろ姿にため息をついた。読書好きの生徒と仲良くなる機会を、今日も失った。

 図書室を出た香久夜は腹立たしい。『痣はどうしたの』と聞かれても、父親や母親に殴られたり蹴られたりした痣の痛みが減るわけではない。一方で、声をかけた先生は『私は生徒に気遣ってやる優しい教師だ』という幻想で、さぞかし気持ちがいいだろうと皮肉に思った。そんな虫の良い幻想に利用されるのはまっぴらだった。本当に心配してくれているのなら、別の行動をとっているとも思うのである。

 こういう香久夜の行動を、大人は「協調性がない」と評して、好ましくは考えていない。香久夜にとってどちらでもいい。関係がないと断言しても言い。大人からどう評価されようと、彼女と弟の環境が改善されることがないと信じている。香久夜はこうやって、この世界に失望感と憎しみを深めている。

「く・ど・う・さんっ」

 香久夜の背後から声をかける少女たちがいる。緊張感のこもった角ばった声音で、明るさを装っていることが分かる。二つの声が合わさっているが、振り返らなくても声の主を思い起こすことが出来た。

 香久夜はその二人と同級生という関係を絶って振り返った。二人は笑顔に緊張を滲ませていた。香久夜に声をかけるのに勇気がいる。香久夜が声で判別したとおりの二人だった。

 一方は背が高い割に人を見下ろすと言う雰囲気が無い、眼鏡越しの目つきが慎重すぎるほど深い色を持っている。彼女の名を小沢ゆかりと記憶している。もう一方は、やや小柄でぽっちゃりしているが、はきはきと何にでも明るく対応するという印象がある。この場合、その性格が明るいという長所は、香久夜の劣等感を煽る。「タバタ」という音感の姓のみで、どんな漢字を当てるのか、名をなんと言うのか香久夜には記憶に無い。自分にとって無用の人間だ。

 意図して、香久夜は返事までに間を置いた。

「なに?」

 やや冷たく、突き放す声音に、二人は顔を見合わせてたじろぐ様子を見せた。この二人は、懲りもせず香久夜に声をかけてくる。それが香久夜にとってやや腹立たしい。香久夜はこの世界とのわずかな接点に、自分の境遇の腹立たしさを吐きだしている。

「これ」

 タバタは香久夜に封筒を差し出した。

「えっ? 」

「それじゃあ」

 二人は戸惑いを隠せないように、そして言い残した言葉を残念がるように、駆け去った。封筒とともに取り残された香久夜は、封筒を眺めた。中身を包むように紙を折ったもので、手作りの素朴さあり、表には「工藤香久夜さんに」と書かれている。この几帳面な文字は小沢の性格を思い起こさせる。裏面は子犬をイメージさせるシールで封じられている。このシールはこの種の小物を集める趣味のあるタバタのものだろう。 妙なことに、香久夜はそれを判断することが出来るほど、今まで密かにあの二人を眺めて知っていた。

 小さな包みの隅々に二人の心遣いが感じられる。シールに爪を立てて剥がして開封すると一枚の写真がある。先日の遠足のとき、先ほどの少女を被写体にしたものだ。その写真の一部に香久夜の姿が見える。もともと、意図して被写体にしたわけではないだろうが、角度の関係で香久夜が二人の背後に写り込んだ。そういう写真だった。

 画像を紙に焼き付けてみると香久夜の姿があり、余分に焼き増しして香久夜に与えてくれたものだろう。香久夜がまぎれもなくこの世界にいる。そういう証に違いない。

 しかし、二人の少女はその説明をしなかった。香久夜は自分の態度でその説明を拒絶したと言う自覚がある。

(こんなもの)

 そう思った瞬間、香久夜はそれを声に出してしまったかと恐れた。受け取ったものの、どう対処していいのか分からないでいる。香久夜の心にあふれ出してくるのは、惨めさと自己嫌悪だった。香久夜は荒々しく、しかし、写真に傷をつけないよう封書の折り目に合わせて包み直すことも忘れていない。彼女は写真をポケットにしまいこんだ。

 この世界が滅びることを願いながら、この世界との唯一といっても良いつながりを破り捨てることもできない。彼女は自分自身をも憎んだ。香久夜は校門を通り抜けた。下校する生徒たちの流れが合流する場所だが、香久夜の雰囲気は切り離されたように滑らかな流れに渦を巻いて行く先が定まらない。



次回更新は明日。4回に分けて、虐待されていた姉と弟が保護された施設を脱走し、不思議な世界へ迷い込むまでを描きます。

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