家族の気配
「フジノグラ、オウナセ、ミナセ、マツハまでは、迷うことの無い真っ直ぐな道でございます」
旅立ちの前、ムタケルは香久夜に噛んで含めるように、とつとつと説明をした。その説明を香久夜は半ば上の空で聞いていた。
(どこかで逃げて、この世界の片隅でひっそり暮らせれば)
そう考えていた。香久夜が主張した少人数の旅という手段は成功したかに見える。ムタケルやスセリらが町や村に早馬を跳ばして、旅の宿や食料の手配をしてくれている。香久夜たちは宿や食料の心配をすることも無く、四十日はかかると見られていたマツハまでの日程を三十二日でこなしていた。大勢のお供を連れた旅なら、こうは行かなかっただろう。この順調さは旅の仲間に明るさを与え、早馬に託された通信で香久夜と照司の様子を聞く都の人々にも安堵感を与えてもいた。
香久夜が多少ありがたいと思うのは、旅で接する人々が香久夜の意思を尊重してくれることだ。決して押し付けがましくない。敷物もない木の床に寝台が四つ、一輪の花を生けた花瓶のあるテーブルが一つ、壁には窓が一つあって夕日が差し込んでいる。香久夜たちはそういう質素な宿の部屋にいる。カグヤとショウジの身分を考えれば、全く場違いな部屋に違いない。しかし、香久夜はこういう質素な部屋を望んだ。気分が落ち着く。
香久夜は寝台に座って、ぼんやりとムタケルの言葉を思い出した。
「しかし、マツハを出たところで街道は大きく迂回しまする」
地図で見れば、旅の仲間はいよいよその円の外周に近づいていた。ここ数日、香久夜たちが進む方向に立ちふさがるように、避けることができない山岳地帯の山の峰が続いて見えていた。次のマツハの町を発てば、街道は山々の麓に沿って大きく右に迂回して、約十日の日程を経て、次のシミナリの町と結ばれている。シミナリの町から山岳地帯を抜けてウナサカの樹海へと細く続く山道の存在が知られていた。昔、カヤミが辿った往路のルートだった。
香久夜はふと思った。
(もし、マツハから山をまっすぐに突っ切れたら)
どうせ目の前の山岳地帯を越えなくてはならないなら、まっすぐ進めば旅の日程は五日は短縮できるに違いなかった。滅びに瀕するこの世界にとって貴重な日程だろう。
(少しでも早く人々の困窮を救えるなら)
香久夜そう考えつつも、山岳地帯に紛れ込めば、山王丸や吉祥をまいて逃げてしまえるかと思い直す冷静さも持ち合わせていた。座っていたはずの寝台に、いつ心乱れる身を横たえたのか香久夜は分からなかった。
照司の髪をもてあそぶように梳いていた吉祥が、ふと気づいて照司に姉の姿を指差した。香久夜は足のつま先は床に残したままで、全身の力をたらりと抜いて上半身を寝台に横たえて無防備に眠っていた。香久夜のぽかんと口をあけた緊張感の無い様子が面白い。
照司も普段あまり見ることの無い姉の姿に微笑んだ。突然、吉祥は両の掌で照司の頬を挟むようにして照司の顔を自分に向けた。
(この子は、微笑んでいる)
その表情は言葉で表現しにくく、吉祥は照司をやわらかく抱きしめてみた。心地良い。この不思議さは照司の微笑が彼女の胸に埋もれて見えなくなっても強く続く。吉祥は自分の心が溶けて照司に重なるように思われた。
「なあに?」
吉祥はやや覚めた口調で言った。照司を抱きしめていると、山王丸の面がこちらを向いているのに気付いたのである。自分の心の中を見透かされたようで、吉祥は戸惑いが隠せなかった。
「そうさな」
山王丸はそうつぶやいてその視線を香久夜に転じた。吉祥に答えようにも自分でもよく分からない。戸惑いながら、照司を抱く吉祥の姿、微笑む照司と、くつろぎきって眠る香久夜の姿、そういう存在に心を満たされていた。山王丸にが着用する固い面に、柔和な表情を感じたような気がして、照司は山王丸をじっと見つめた。照司はふと耳元で響く音に気づいて、吉祥に視線を転じて首を傾げた。
(吉祥さんが、何か音を立てている)
言葉でもなく感嘆の声でもなく、リズムを刻むわけでもない、吉祥の喉の奥から、照司が「音」と称した振動が響きだしている。
「照司。目を閉じて心を澄ませてみよ」
照司が山王丸に従ってみると、鼓膜に響く振動が頭の中に映像を生み出し、吉祥の思い出だと分かった。彼女が幼い頃に他の仲間から育まれて聞いた子守歌であり、仲間が幼い吉祥を残して消え去る悲しみを伝える歌であり、孤独という言葉も知らないまま一人で生きた吉祥の寂しさだった。しかし、今、共に過ごす仲間がいる喜びの意識が、様々な思い出の光景のメロディに乗って紡ぎ出されているのである。照司を抱く心地よさに、吉祥は我を忘れるように彼女の人生を吐き出していた。照司もまた、吉祥の胸に甘えるように顔を埋めた。
しかし、次の瞬間、くつろいだ雰囲気は一転した。香久夜が突然に顔をしかめたかと思うと、うなされ、身もだえし、悲鳴を上げて目を覚ました。香久夜は何かを恐れるように目を見開いて自分自身を強く堅く抱いた。
照司は吉祥の胸から顔を上げて姉を振り返った。既に、山王丸が香久夜に優しく寄り添っていた。
照司は姉の行為を吉祥に説明した。
「きっと、お姉ちゃん、お父ちゃんかお母ちゃんに殴られる夢を見てん。ボクも、時々、夢みるねん。夢の中では泣いても誰も助けてくれへん」
山王丸は状況を理解できないまま、香久夜に声をかけ続けている。
「どうした、香久夜。なにか」
「人は、嫌や」
香久夜は歯を食いしばって短く答え、そのまま感情を閉じて黙りこくった。
部屋の入り口に簾があり、部屋の中と廊下を隔てている。その向こうに数人の人影が現れた。年老いた人影は、この村の長とその妻、そして数人の村人だった。彼等の来訪の目的は旅をする香久夜たちへの挨拶と励ましだったに違いない、しかし、突如として聞こえた香久夜の悲鳴に戸惑いを隠せない。押し黙った香久夜に代わって、山王丸が対応した。
「いやさ、本来は私が皆様のもとに出向いて、もてなしの礼を言わねばならないところ、ご足労頂きましたな」
穏やかな口調に山王丸の誠実な性格と、本心をさらけ出すような素直な感謝の気持ちが現れていた。村の長は言った。
「もてなしに、何かご不満でもあったかと」
山王丸の口調は苦笑じみたものになった。
「心配は無用。心尽くしには感謝しております」
「それはようございました」
老人は胸をなでおろすように言った。
「村の者どもが、皆様にお礼を申したいと言いまして、参じました」
カグヤたちがこの世界を救うために危険な旅をする、そのことに一目会って礼を言いたいという。他の集落でもこの種の人々がいた。しかし、この時は村人の言葉が、何故か香久夜の癇に触った。この少女は臆病なほど引っ込み思案か思うと、突然に性格を一変させて攻撃的になる。
「礼なんか、いらんで!」
突き放すような口調が鋭く冷たい。一瞬、照司が香久夜を責めるような目をしたことを香久夜は見逃せなかった。彼女は感情を高ぶらせた。
「別に、あんたらの為とちゃうねん。ほっといて」
村人は無言のまま香久夜の言葉を受けた。
「どうせ、わたしらなんか死んでも、どうでもええんやろ。私らだけに、しんどいことさせて、あんたらはノホホンとしてるだけやんか」
山王丸が香久夜と村人の間に割って入った。頭を深々と下げていった。
「すまぬ。気が高ぶっているゆえにな、今夜はお引取りいただきたい」
山王丸の誠実な口調に、村人達はうなづいて静かに背を向けて去った。小さな部屋に旅の仲間だけが取り残された。雰囲気が重い。吉祥は露骨にふんっと鼻を鳴らして軽蔑の感情を表した。照司も悲しげにうつむいて香久夜に声をかけようとはしない。山王丸が重々しく口を開いた。
「香久夜。お前が良くない」
「なんで、私が言うたことが間違ぉてるの?」
「間違えている」
山王丸はそう断言した。香久夜は憎々しげに山王丸を睨んで口ごもった。他人からこれほどはっきりと否定されたのは初めてだ。しかし、山王丸は香久夜の肩を優しく抱いた。
「よいか、香久夜。次に激しい言葉がこみ上げたら、私のここに吐け」
ぽんっぽんっと胸の辺りを叩く音が鎧の中に響いて、山王丸は言葉を継いだ。
「どうせ、ここは心もない虚な体ゆえにな」
いくらでも受け入れてやるという。香久夜は反論の矛先を転じるしかない。
「みんな嫌いや。誰も、私のことなんか分かってくれへん」
香久夜は叫ぶように言った。この言葉で自分の思いが分かってもらえるとは感じていない。自分が悪いのだとも感じている。しかし、自分の胸のうちを表現するすべも知らない。照司も言葉も持たず、姉と山王丸のやり取りを聞き入るしかない。
「お姉ちゃん。自分のこと、嫌いになったらあかんで」
吉祥は、照司が小さくそう呟く声を聞いた。
出立の朝、香久夜は村人たちに後ろめたい。山王丸の陰に隠れるように位置して人目を避けた。この村でも、人々の様子や行為は変わりなかった。村人たちはおにぎりと、酢漬けの山菜、干し芋などの携行食、瓢箪に入れた水を準備してくれている。サギリやムタケルは香久夜たちの健康を気遣って、村々に携行食の内容まで指示しているらしい。香久夜と照司の味や食べ物の好みまで伝えている。ただ、くそマジメなムタケルのこと、同じものばかり続けば食べ飽きるだろうと言うことにまで思いよらないらしい。どの村でも同じものを、同じ包みで持たせてくれる。違うものといえば、おにぎりの塩加減や山菜の味のふくよかさに村の個性が出ていることぐらいか。
この時、村長の妻が進み出た。
「多少、荷物にはなりましょうが、疲れが取れますゆえに」
村長の妻は竹筒を2本、香久夜に差し出した。この竹筒は食料を指示したムタケルに思い至らないもので、村人たちの心づくしに違いない。栓を開けると、ぷんっと心地良い香りがし、香久夜はおもわず微笑んで照司にも嗅がせた。その香久夜と照司の笑顔を村人たちも、ほっと息をついて喜んだ、この少年と少女が自分達の心づくしを楽しんでくれることを知ったのである。
(でも、)と香久夜は思った。
村人達は何も言わないが、竹筒の中身は体力回復に薬効のある香草を蜂蜜の入った酒につけたものだが、かなり高価なもののはずだ。この村は決して裕福な村ではない。これを香久夜たちに与えるのにかなり無理をしたに違いない。竹筒から村人たちの思いやりが伝わってくるようだった。
香久夜は開けた竹筒に再び封をし、口ごもった。山王丸はやや眉をひそめるような心持で香久夜を見守った。この少女は人に借りを作ると言うことを嫌う。香久夜は何か理由をつけて村人に受け取った竹筒を押し返すだろうと思ったのである。
ところが、香久夜は意外な行動をした。竹筒を胸に大事に抱きながら、村人達に向き直って、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとう。それから、昨日は、ごめんなさいっ」
香久夜にとって謝罪の言葉かもしれないが、村人にとっては謝罪の言葉ですらない。村長の妻は孫のわがままや気まぐれを受け入れるように自然に微笑んだ。まるで、身内の旅立ちを見送るように香久夜たちに手を振る村人の姿が背後に見えなくなっても、香久夜は黙り続けて口を開かなかった。
(でも、あの人たちは、わがままを言って困らせた私に、これをくれた)
香久夜は後悔と疑問で再び自分の心に問うた。
(でも、でも、私がもらうには、これはあの人たちにとって、負担が大きすぎるわ)
香久夜は心に問い続けた。
(でも、でも、でも、これを受け取ったから、あの人たちとつながりが出来た)
香久夜はなにやらうれしい。香久夜は眩しそうに空を振り仰いだ。日の光が香久夜たちを包む大気をほんのり暖めていた。吉祥はそんな香久夜の姿が微笑ましい。傍らにいる照司も心地よいらしく山王丸に同意を求めるように手を伸ばしたが、仲間には山王丸が示す進むべき方向のイメージが伝わってきた。彼は距離を置くように、照司が伸ばした手をふりほどいた。
(どうして?)
山王丸から照司を拒絶したことに寂しさが伝わってきて、吉祥に首を傾げさせた。君主と臣下という身分で距離を置くわけではない、友人のように平等な関係だが、この鎧は何故か、香久夜や照司と距離を置くことがある。知られたくない秘密を抱えているように、頑固に孤高を保っている。