吉祥、新たな仲間
そこに住む者の気性によって町の雰囲気が醸成されるのだろう。中心部にスエラギ様を奉る弥緑社を頂くこの世界の都は、平穏を保っているように見えた。ただ、その中から緊張感がにじみ出す事がある。都の人々は自制心と言う殻で、この世界が滅びるかも知れぬという現実的な不安を覆い隠している。
そんな都の中、ぶつぶつ文句を言いながら歩き回っている若い女が居る。そう言う噂が広まりかけていた。女に姿を変えた龍だった。何か思い悩んでいる風もあるのだが、女は怒りの感情を発していて、何かをきっかけに爆発しそうな危うさを秘めていた。自分がそのきっかけになって、火傷をするのを恐れて、人々は彼女に声をかけるのを躊躇っている。吉祥はそうやって妙な注目を浴びながら弥緑社を取り囲む生け垣の辺りまでやって来た。
「どうしてよ?」
吉祥は呟いた。照司が香久夜と旅に出る。数日前から、そういう噂が人々の期待を込めて広がって、彼女もその噂を聞き知っていた。得体の知れない鎧を連れていくという話ではないか。何故、自分にも声をかけないのかと腹立たしく考えている。照司に渡した珠に言葉を掛けるだけで済むはずだった。
あの可愛い照司を助けてやりたいとは思うのだが、のこのこと彼等の所に出向いて行って、仲間にして下さいと頭を下げて頼むのは、龍としてのプライドが許さない。ただ、もしも、彼等、特にあの生意気な少女が頭を下げて頼むのなら、ついていってやっても良い。復讐を果たす相手は森に溶け込んだように姿を消して見つからない。吉祥にとって面白くないことばかりだった。吉祥は垣根越しに見える月香殿を腹立たしく睨んだ。
同じ頃、月香殿の中で出発の準備をしている香久夜は、弥緑社の人々の壮大な見送りと衛士の護衛を静かに断っていた。危険があるとすれば、この世界の縁を囲む山岳地帯を越えた裏側、迷いの森ウナサカに入ってからだ。人々がウナサカに漂う瘴気に阻まれて入れないのなら、ついてきて貰っても仕方がない。そういういう理由だった。ムタケルも同意せざるを得ない。確かに、衛士を集めて千人、二千人という護衛をつけることは可能だろうが、その兵士たちに食料を提供し武具を運搬する馬車と御者が加わり、更に馬や御者の食料を運搬する馬車が加わるという具合に、飛躍的に人馬の数が膨れ上がる。そして、その大部隊は街道を糸のように長く連なって移動するしかない。前衛や後衛の部隊とばらばらにならないよう、野営は前衛が日暮れを前に停止し本隊を待たなくてはならず、出立は、前衛部隊が進むのを待ってようやく本隊が動く。部隊が大きくなるほど、その時間の損失は大きくなる。しかも、兵士は毒気のあるウナサカには入れず、肝心の地域で香久夜たちの護衛をする事が出来ない。ムタケルは街道沿いの集落に触れを回して、宿と食料の手配をすることで妥協した。
出発の朝、旅の荷は山王丸が背負った。その山王丸に香久夜と照司が寄り添って、この三人だけが旅の仲間だった。落ち着いて出かけたいという香久夜の意図を尊重して、門前で見送る者はムタケルとスセリだけという信じられないほど簡素な光景だった。
「じゃあ、行ってくるわ」
香久夜は遠足にでも出かけるように明るく言った。明るさと裏腹に、香久夜は後ろめたい。昨夜、イセポは何も言わずに照司にお守りを渡していたし、香久夜が身につけている上着の背には、サギリ達の手になる刺繍で、魔除けの紋が入っていた。旅立つ一行は、人々の様々な思いを背負っている。
照司は首からかけて肌に付けていたお守りを取り出して眺めた。イセポにもらったお守り袋だが、龍の吉祥がくれた珠も入っていた。守ってあげると言う義務感が凍り付いて固く封じられ、見ていると元気づけられる気がした。香久夜は自分の着物の襟元から内側を指さして、照司にお守りをしまって置けと指示した。あの得体の知れない女を呼び出されるのは嫌だ。
夜が明けているとはいえ、街がひっそり静まり返っていた。豆腐屋や花売りなど、この早朝に仕事を始める人々も多いはずだ。静かに出発したいという香久夜の気持ちを伝え聞いて、人々がそっと見送ってくれている様子がうかがえた。
山王丸がぺこりとお辞儀をするような動作をした先に、半ば開いた入り口から、老女がひざまずいて手を合わせる姿が見えた。
「たっ、たまらんなぁ」
香久夜は呟いて、老女にお辞儀を返した。人々を救うために、命を懸けた危険な旅に出る。その冒険者たちへの感謝と、無事を祈って、人々はみな家々の中でひっそりと手を合わせているのだろう。鐘や太鼓の賑やかな声援を受けながら出発するより、人々の期待を重く背負うようだった。三人はそんな願いを感じ、背負いつつ、ようやく都の中心部の街道を抜けた。家並みがまばらになって人の気配が途絶え、街道に黙って歩く三人の足音だけが聞こえるようになった。風が街道沿いに続く竹林の葉を揺らす音が混じり始め、竹林を抜けてくる心地よい風に竹や土の香りが乗って届いた。
照司は何故か鬱ぎ込んでいる姉の姿に気づいた。香久夜は照司にさえ打ち明けられない悩みを抱て考え込むようだった。
先日、弥緑社の本殿の席上で、香久夜は人々に言った。
「私らに別の運命を歩かせて欲しいねん」
別な運命には、旅が危険だと判断すれば、照司だけを連れてどこかに逃げてしまう選択肢もある。彼女はその選択肢を心に秘めていた。
都を出歩いていた香久夜はこの辺りの地形を飲み込んでいた。この先の街道沿いに、竹林抜けて続く目立たない小道がある。その先はぐるりと巡って幾つにも枝分かれをして、別の方向に向かう。逃げて姿をくらませるとしたら、そこ。動きの鈍い山王丸など直ぐに騙して撒いてしまえるだろう。
その竹林が近づいた。照司は姉と繋ぐ手に指先の震えを感じ取って首を傾げた。香久夜は何かの意図を込めて弟に目配せし、鎧を振り返って優しく語りかけた。
「山王丸さん……」
(ちょっと忘れ物がある。照司を連れて取りに戻る。直ぐに戻るからここで待っていて)
笑顔を加えてそういう言葉を綴れば、この単純な鎧はここで待ち続けるだろう。香久夜は戻るふりをして竹林の中に続く道を、アシカタとも都とも違う方向へたどれば良い。
この時、香久夜の言葉に間合いを計ったかのように、一人の細身の女が姿を現した。その女の姿に香久夜は記憶がある。吉祥と名乗った龍だ。密な竹の間をするりと抜け出して来たような出現の仕方だった。吉祥は腕を組んでやや小首を傾げ、独り言でも言うようにたずねた。吉祥は、ついて行くとは素直に言えず、回りくどい質問を投げかけた。
「何処へ行くつもりだい?」
香久夜は驚いた。逃げようとした香久夜の心の底まで見抜いたような、恐ろしい言葉だった。
「どっ、何処でもええやん」
「私は、ちゃんと知ってるんだよ」
(この女は私の心を読んでるんか?)
香久夜はどきりと鳴る胸を押さえた。
「なっ、何を知ってるねん」
「ちゃんと知ってるよ。危ない旅をするんだろ。しょうがないねぇ。ついて行ってやるよ」
香久夜は胸を撫で下ろしたが、吉祥の申し出は都合が悪い。仲間が増えれば、照司を連れて逃げるチャンスが減る。
「来んでも、ええでっ」
香久夜にかまわず、吉祥は続けた。
「あんたの為じゃないよ。そのおチビさんに恩を返すためについて行くって言ってるのさ」
「ボクは……」
照司は事の成り行きに自分が関係していることを悟ったのだが、意志を現すことが出来ないでいた。
「まったく、受けた恩を返さないなんて、蓬莱島の連中みたいな事は出来ないよ」
そんな吉祥の言葉に照司と香久夜は顔を見合わせた。『蓬莱島の連中』という言葉は、この世界では余り印象が良くない。この場合は恩知らずで自分勝手な連中という意味で使われている。香久夜は吉祥の言葉に反論する体験を持っていなかった。香久夜は趣旨をすり替えて反論した。
「ついて行くって言うたかて、私らは魔物が出るような、めちゃくちゃ危ないところへ行くんやで」
「そうよ。だから、ウナサカをよく知っている私が、貴方たちを守ってあげるって言ってるのよ」
「ふぅーん」
香久夜は疑わしそうに、吉祥の頭から足元まで眺めた。細身の女で、外見を見る限り冒険の役に立つように見えない。
「守るっていうたかて、何が出来るねん」
「あんた、龍の私を疑うのかい?」
「ほら、悔しかったら、口から火ぃ吐いてみ。竜って口から火ぃ吐くんとちゃうのん」
「火を吐く? そんな野蛮な事が出来る分けないでしょ。その代わりにね」
吉祥の言葉が終わると同時に、香久夜は小さく悲鳴を上げた。吉祥の表皮がぱりぱり青白く放電している。香久夜の髪が、栗のいがのように逆立った。セーターで擦ったプラスチックの下敷きを、髪に近づけたときのようだ。痛みは無いが、気色が悪い。
「何すんねん。気色悪い」
「龍を甘く見ないことね。雷を操れるんだから。生意気言ったら、今度はびしょ濡れにしてやるよ。私は雷と雨を操る偉大な聖獣なんだからね」
そう言った吉祥の余裕のある笑顔に、手加減をしている様子が見てとれた。逆立った髪の毛から伝わってくる振動がもう少し強まれば、びりびり痺れるだろう。もう、香久夜に断る理由はなかった。旅の仲間は吉祥が加わって四人になった。
しかし、吉祥が旅に加わって三日もすると、彼女は女性の性癖を象徴するように、優しい母性の反面、気まぐれで、わがままな面も持っていると分かった。疲れたわけではない。歩くのに飽きて、ぶつぶつ文句を言う。香久夜だって好きで歩いているわけではない。そんな吉祥に、香久夜が嫌みを言った。
「キビ団子、あげよか?」
「キビ団子?」
「私らの世界にな、桃太郎っていう昔話があって、犬と猿と雉が家来になるねん」
「それが?」
「みぃんな、キビ団子を1つ貰っただけで、文句も言わんとついて行って鬼退治するんやで、偉いやっちゃ」
(吉祥、あんたも見習ろうたらどうや?)と言うのだった。
吉祥は鋭い目つきで応じた。
「生意気言ってると、キビ団子の代わりに、雷を喰わせてやるよ」
そんな会話をする二人に、傍らの照司が困った表情を向けた。
「吉祥さん、お姉ちゃん」
吉祥はそんな照司の表情が気に入った。新たにわき上がった感情で心を整理するように、じっと照司の顔を眺めた。照司が困っていると言うことではなく、この子が自分に頼っている、自分はこの子に頼られているという心地よい感情だった。
山王丸は大袖の辺りを震わせていた。笑っているのだろう。男には真似の出来ない、女同士特有の皮肉を感じさせる会話だが、当事者達は単調な旅に飽きて気晴らしをしているようにも見える。旅は単調だが、裏返せば順調に進んでいた。
(この雰囲気に染まっていたい)
ふと、山王丸はそう考え、経験したことのない感覚に、旅が順調に進んでいるせいだろう理由を付けた。自分が仲間の一員だということが、何やら嬉しい。