旅立ちの宣言
いつしか、香久夜は旅の日程を計算して、六ヶ月と大まかに見込んでいた。聖域までの距離から算出した日程ではない。妖がこの都近くにまで出没するほど急速に、この世界の瘴気が濃くなっている。瘴気の濃度の高まりと共に妖が跋扈する機会も増え、やがて人々は呼吸をするのにさえ辛さを感じるようになるだろう。それまでに目的を果たさなくてはならない。
(目的?)
目的すら分かっていないことに気づいて、香久夜は首をかしげた。この世界の人々を救うために何をすべきか、自分がなぜここにいるのか、未だに理解できていない。
香久夜は棚の中から薄く丸い木の板を取り出して手にした。これがこの世界の地図だと知っていた。香久夜が居るこの都は、平らな円の中心にあり、この円に人々の生活圏がある。中心の都から四方に街道が延びて、主要な街道に複雑に分岐や合流をする小道が交わり、町や村が点在している様子がうかがえた。更に、その板を目の前に水平にかざしてみると、どういう理屈だろうか、山や丘の起伏を眺めることが出来る。人が住む世界はほぼ平坦で、香久夜がこの世界にやってきた御矢樹山が唯一目立つ隆起と言えた。ただ、四方に延びる街道は円の縁を取り巻く山岳地帯に溶けて消えていた。その山岳地帯を越えれば、円盤が裏返って、緑一色の面になる。濃緑色の円の中央に直径一センチばかりの黄緑の円がある。ウナサカの樹海と、その中央にあるアシカタの野を表していた。黄緑の円の中心にスエラギ様の神殿を象徴する白銀の欠片がはめ込まれて居るのみで、そこへ至る道がない。
彼女はふと小さな驚きで、地図のウナサカ側の面を眺めた。その瞬間、この世界のカグヤとのごく細い通信回線が開かれた。まるで無線機を持った二人が、通話を求めて周波数ダイヤルを回し続けている。たまたま両者の周波数が一致したときに回線が開かれるのだが、その気まぐれな回線はすぐに閉じてしまう。そんな儚い通話だった。日常の生活をする上での、思考のずっと奥底にある驚きや感動など濁りのない感情に触れたときに、二人の思考の周波数が一致している。
この時のきっかけは、蓬莱島がもたらした素直な驚きだった。
(蓬莱島って、星やったん?)
地図でウナサカの樹海を目の前に水平にかざしてみると、中央の白銀の印の真上に、星を象徴する小さな輝きが見え、その「蓬莱島」という星の名が香久夜の記憶にわき上がってきた。その星と円の中央を結ぶ糸のような輝きが見えた。アシカタの野のスエラギ様の神殿と蓬莱島が目に見えない回廊で繋がっている。回廊、それは二つの星の意識が手をつないでいるというイメージだった。
(あほっ、板の裏表とちゃうやん)
香久夜は心に浮かぶ平面のイメージを否定した。円形の平面の世界を端まで旅をすると、裏側の世界に反転するわけではない。今の香久夜がいるこの世界は、蓬莱島という星に姉妹のように寄り添って宇宙に浮かぶ星だった。香久夜たちがいるのは、蓬莱島が見えるこの星の半球とは反対側だ。この都からずっと歩いてゆけば、赤道をぐるり取り囲む山岳地帯がある。それを越える辺りで蓬莱島が見え始める。歩き続ければ蓬莱島が真上に見える極地に到達する。
香久夜が心に描いた球形というイメージが、不安と不快さ、緩やかな侮蔑を伴って塗りつぶされた。この世界の何処かで香久夜を操っているカグヤの感情に違いない。
【この世界が鞠のような形なら、みんな滑って落ちてしまうわよ】と、平面の世界を否定する香久夜の愚かさを笑うのである。
「腹立つやっちゃな」
香久夜は何処にいるのか分からない分身に文句を言った。しかし、星は球形が普通で、中心部に向いた重力がある、そういう理屈を分身に説明するだけの知識も経験もなかった。なにより、星の形だの、重力などは、大人が言ったことだから信用できない。目に見えるもの、体に感じる状況を信じるなら、カグヤの言うとおりの世界かもしれない。ただ、勝ち気な性格がぶつかって、香久夜は分身の矛盾を指摘した。
(この地図の通りやったら、ウナサカの樹海に入ったとたん、人の世界はひっくり返って落ちてしまうやん)
事実、円盤のウナサカの面を上にしていると、人が住む世界は下向きになる。人は地面を離れて真っ逆さまに落ちてしまうはずだ。香久夜はもう一人のカグヤが今まで考えもしなかった矛盾に混乱する様子が伝わってくるのを、優越感を込めて楽しんだ。
【裏表なんか、関係ないわ】
そんな言葉で、地面に足がついているのが、この世の理というものよという意志が感じられたが、香久夜は同時に伝わってきたイメージに話題を向けた。この世界のカグヤから伝わってきたのは、豊かな自然と生き物を育むウナサカの樹海、その中央に広がるアシカタの野、そしてその中心の聖地ミウの丘にある神殿のイメージだった。
(以前、あんたが行った時とちゃうんやで、今は瘴気が濃うなって、この裏側は空気は濁ってどろどろや。残ってるのは妖に変わった生き物だけやで)
香久夜の言葉の露骨さに、この世界のカグヤの怒りが湧いたが、その怒りは言葉になる前にため息をつく失望感にかき消された。
【どうして蓬莱島との回廊の扉を閉じるよう命じて下さらなかったんだろう】
二人が会話を交わす細い回線は儚い反面、時にぴたりと強力に重なりあう。この時は、自分の手で神殿の扉を閉じたという経験を伴っていて、共有する胸を締め付ける寂しさに、香久夜は詫びた。
(ごめん。言い過ぎたわ)
ただ、この世界のカグヤが言った通りだった。蓬莱島から邪気に満ちた瘴気が流れ込んでくるのが不都合なら、二つの世界をつなぐ回廊の扉を閉じればいいはずだ。もっと派手にやるなら、二つの星をつなぐ回廊をぶちこわしても良い。
香久夜は照司の存在でカグヤと違う視点を持っていた。スエラギ様にとって蓬莱島は、香久夜と照司のような関係で、いわば姉に当たる。きっとスエラギ様の思慕の念が、繋がりを絶つのを避けて、神殿の奥深くに自らを封じさせ、邪気が浄化されるのを待つ判断をしたに違いない。思いも駆けなかった考えにカグヤは賛同した。
【そうよ。貴女、たまには良い事を言うわね】
(そやけど、スエラギさんは眠ってへんやん)
香久夜が心の中にそう言い、心を読まれたカグヤの驚きと畏怖の感情が沸いた。その地図の蓬莱島の真下に位置する神殿について考えるなら、スエラギ様はその瘴気が最も濃い場所に位置する。スエラギ様から注がれ続けた慈愛は感じられず、時折、漏れ伝わるのは侮蔑や憎しみの情だった。二人の封印が解けたか、香久夜の想像を付け加えれば、流れ込む邪気に犯されてスエラギ様が狂ってしまったという状況であるまいか。
この世界に来て以来、香久夜は腕力に恵まれて自信を付けている。しかし、過信であったのではないかと、旅を安請け合いしたことを後悔する気持ちが湧いた。何をしなければならないかを具体的に考えるなら、魔物がうろつくウナサカという巨大な樹海やアシカタの野を突破してミウの丘に辿り着かなくてはならない。そこで、何が起きているのかを調べるのである。
(最悪やん)
香久夜がそう考えた最も運の悪い結末は、狂ってしまった造物主と戦い、もう一度封印し、障気が流れ込む回廊は閉じることだった。この世界のカグヤからは失望感と後悔の念ばかりが伝わってきて言葉がない。
「まぁ、元気だしいな」
香久夜は分身にそう声をかけるしかなかった。
いつの間にやら、香久夜はスエラギ様のもとへ旅をするという、彼女自身が望みもしないことを人々に告げなくてはならない状況に追い込まれていた。
照司はスエラギ様の元へ旅立つのだと信じ切っていて、その期日を姉に確認する。弥緑社の人々は優しく何も言わないが、そう言う期待を持っていることは感じ取れる。せっつく弟と、積み重なる人々の期待で、行かざるを得ないと言うところに追いつめられて、精神的にも逃げ場がない。
やがて、その日が来た。弥緑社の本殿の評定の席上で、大勢の人を前にして香久夜は緊張した。本殿の大広間にはこの弥緑社の人々が全て集まっているようで、人々がみな香久夜一人の言葉を待ってシンと静まり返っている。香久夜はこんな大勢の人の前で自分の気持ちを語るのは初めてだった。
「あのな、別の世界の神様の話しやけど」
話をどう切り出して良いのか分からず、彼女は知っている神様の話から始めた。
「昔、貧乏で正直モンの樵がおってん。ある日、その樵が湖の畔で木を切ってて、つい斧を湖に投げ入れてしもてん。湖は深くて、鉄の斧は取られへんし、貧乏やから新しい斧を買うこともでけへんやん。樵が嘆いてたら、湖の中から綺麗な女神様が親切そうな笑顔で出てくんねん。樵に事情を尋ねた女神様は湖に潜って、金の斧と銀の斧をもってきて聞くねんで。どっちがお前の斧や? 樵は阿呆やろ。どっちも自分のやて言うといたらよかっんやけど小心モンやってん」
香久夜は一呼吸おいた。館の人々は香久夜の話に釣られているようだ。香久夜は話を続けた。
「自分の斧は鉄の斧ですって言いよってん。そのとたん、女神様の顔が恐ろしい顔になってな、『それじゃあ、コレがお前の斧に間違いないんだね』って振り向いて後頭部を見せたら、そこに樵の斧が刺さっててん。ここやで、ここ」
香久夜は自分の後頭部を指さして、女神様に刺さった斧の位置を具体的に示した。確かにあんな位置に斧が刺さったら温厚な女神様でも怒り出すに違いない。
「そやけど、樵は最初に斧を落としたことと、金の斧も銀の斧も自分のと違うって言うてしもてるから、刺さってるのが自分の斧やて認めなしゃあないやん」
話しに引き込まれて、人々は一斉に頷いた。
「明くる日にな、正直モンの樵が、死体になって湖にぷかぷか浮かんでたんや」
マツリが生真面目な顔で感想を述べた。
「恐ろしげな話でございますね」
何か微妙に違うような気もするのだが、香久夜の話の辻褄はあっている。
「女神様もずる賢しこいから、じわじわ人間を追いつめて行きよんねん。騙されへんようにせなあかん。何事も神様任せにせず自分でやるしかないねん。そう、自分でやるんや」
巫女たちは頷いた。
「ほんに、」
自分の話には想像が混じっていると自覚しつつ、元の世界の事を思い出すと、あながち誇張でもなく、許される範囲の嘘だろう。香久夜はスエラギをもう一度封印する必要があると言うことを、一生懸命説明したつもりだが、ちゃんと伝わっただろうか。
ただ、話の内容はともかく、香久夜が危険を冒して聖域へ行きたいという意志を伝えようとしている。その努力は人々に伝わった。その中で、スセリとムタケルだけは何か言いたげな表情を香久夜に向けていた。香久夜はその二人をちらりと眺め、お伽話はこれで終わりとでも言いたげに、もっと現実的な話を始めた。
「スセリさん、ムタケルさん。ヒナトリの事、知ってるやろ」
香久夜にそう言われてスセリとムタケルは返す言葉がなかった。ヒナトリとはあの豊穣を祈る祭りの場所だった。その夜の出来事はよく記憶している。香久夜は言葉を継いだ。
「私と照司。妖の血を浴びても平気やねん。私ら、たぶん、ウナサカの地の障気も大丈夫やわ」
スセリは即座に反論した。
「しかし、カグヤさま。ウナサカはカヤミ様ですら手こずられた地です」
もちろん、スセリもムタケルもカグヤとショウジの変化は知っている。その事実に、スエラギ様が人々に遣わした特別な存在であるが故に、この二人に特別なご加護があったのかも知れぬと理由付けをしていた。ただ、それを口にすれば、二人が危険な旅を言い出すのではと危惧して今まで黙っていたのである。
このとき、意外にも照司が口を開いた。
「そやけど、滅びるかも知れへん。そやから……」
十分に意志を伝えることが出来ない弟を優しく制して、香久夜は話し続けた。
「なんでこうなったんかは分かれへん。でも、この世界が滅びそうになったときに、こうなったんは、何かの運命やと思う」
今度はムタケルが反論の口を開いた。
「しかし、カグヤさま。カグヤの名を持つ者はこの世界でたったお一人の大切な御身。運命といわれるなら。御言葉様として生まれたことこそ、カグヤ様の運命。その運命に従ってこの弥緑社で安寧にお過ごし下さいませ」
カグヤはただ一人。そう言うムタケルに、香久夜は自分が本物ではないと言い出しにくい。彼女は表現を変えた。
「名前は一つ。でも、いろんな運命があると思うねん。この弥緑社にいて最後を眺める運命は嫌や。私らに別の運命を歩かせて欲しいねん」
その言葉には別の人生を経験してきたかのような重みがあり、スセリとムタケルは顔を見合わせて考えた。
(これも、スエラギ様の思し召し?)
そう考えれば、この時期にカグヤとショウジがアシカタの野を旅する力を得たというのは、説明が付く。スエラギ様にとっても、この二人はその両腕にも等しい存在で、アシカタの野に眠るというスエラギ様が、この二人を必要としているのかも知れない。
この世界の人々にとって、小規模な家族という概念はなかったが、ここまで育て上げたカグヤとショウジは、香久夜の言う家族のように愛おしい。ただ、二人はスセリやムタケルの所有物ではなかった。スエラギ様という造物主が、人々に遣わした存在だった。ムタケルとスセリは、この二人が自分の責務を果たせるように状況を整えるのも、苦しいながら、自分の責任だろうと結論づけた。




