吉祥の約束
香久夜は隣り合わせの寝所で、襖一枚向こうの照司の声に目を覚ますことがある。照司が時々、夜中にうなされるように、悲鳴に近い声を上げる。この世界の生活になじんでも、夢の中で元の世界の記憶が蘇っているに違いない。
今、すやすや眠る照司と襖一つ隔てられた部屋で、香久夜が冷や汗をかいて目覚めたのも、そんな夢を見たからだった。彼女は辺りを見回して自分の居場所を確認して、ほっと肩の力を抜いた。耳を澄ませると寝息が聞こえ、照司を起こさずに澄んだらしい。ほっとしたが頭が冴えてしまって眠れない。
「いつ、行こか」
ふと、聖域アシカタの野のことを思い起こして、その日程を考えた。さっきまで、襖越しに聞こえていた弟の言葉を思いだした。
「スエラギ様の所へ、いつ行くのん?」
弟は眠りにつくまで、ふすま越しに姉に訊ねていた。照司は二人でスエラギ様の所へ行くと信じ切っている。照司は姉が決めるその日程が知りたいのだろう。照司の声は、細く途絶えてしまっていた。ぐっすりと眠り込んでいるに違いない。さもなければ、まだ、その言葉を繰り返しているはずだ。
襖越しに弟の姿を思い浮かべて、香久夜は弟の信頼を果たせる姉でありたいと思った。彼女はもう一度、呟いた。
「いつ、行こかな」
人々のために役に立ちたい。香久夜にもそう言う思いはある。しかし、香久夜は気を引き締めるように、思い直した。
(あの子は、まだ子供や)
責任を果たして得られる賞賛や満足を考えることは心地よいが、成功だけを考えてはいけない。大人なら得られる賞賛と、失うかも知れない家族の価値に、成功する可能性を掛け合わせて計算しなくてはならない。
(やっぱり、止めとこ)
失う物が大きすぎる。最大の問題を結論づけて緩んだ香久夜の心に、異変が忍び込んできた。
(何か、変?)
月香殿の南の庭園の片隅から、しゃりしゃりと玉砂利を踏む音が伝わってきた。足音に違いない。危険を避けるために、香久夜は足音を聞き分ける癖を身につけていた。足音の大きさから推測すれば女の足音だった。隠れ忍んでくる足音ではない、ぶらぶらと庭園を散策するようで、足音を消そうと意図する気配はない。その足音が耳をついて離れないのは、聞き覚えのあるイセポやサギリたち巫女の足音ではなくて、見ず知らずの女の存在を示唆しているから。
香久夜は危険を感じとった。その人物は目的地を定めているように、ゆるゆると照司の寝所に接近してくる。
やがて、足音は中庭を経て廊下に移った、履き物を脱ぐ様子はなく、廊下に素足の足音が響いていた。ずっと素足だったのかも知れない。香久夜は床から抜け出して、音を立てないように四つん這いで移動し、照司との寝所を仕切る襖にそっと隙間を作った。
見知らぬ女が照司の枕元に立って、眠っている照司を見下ろしていた。髪は帯に届くほど長い。細身の素肌に薄物の柔らかな素材の着物を一枚羽織っている。重ね着をした巫女や、町の女の着る質素な木綿の着物でもない。その服装を見れば、この月香殿の者ではないことが一目瞭然だった。香久夜は勢いよく襖を開け放って叫んだ。
「照司に手ぇ出したら、殺すで」
十四歳の少女にしてはひどく物騒な物言いだった。香久夜の声音は、子供を奪われかけた母犬のうなり声のように殺気立っていて、冗談ではないことを察することができた。しかし、若い女は香久夜が放つ殺気を気に掛ける様子がなかった。
「お礼を言いに来たのさ。このおチビさんに世話になってね」
女は顎を押さえた。そこには、まだ鳳輔の爪に捕らわれたときの痛みが残っていた。急所を傷つけられて、ずっと臥せていたが、ようやく、歩くことが出来る程度に回復した。あのフクロウに復讐する前に、命を救ってくれた少年にお礼が言いたいと考えていた。
「お姉ちゃん、どうしたん?」
照司が眠い目をこすって、香久夜に尋ねつつ、姉と向き合っている女に気付いた。照司は首を傾げて訊ねた。
「だれ?」
ほっそりした若い女で、闇の中で全身から淡い光を放っていた。細身の体に水色の着物を身につけて、自然体で立っているが、その顔に記憶がない。女は身分を明かすように、照司に優しく微笑みながら姿を変えた。
「あっ。あの蛇」
照司はこの細長い姿には記憶がある。フクロウの鳳輔に狙われていた蛇だった。蛇は姿を揺らがせ女の姿に戻った。その表情は多少険しく、女は照司の勘違いを訂正した。
「ちがう、ちがう。龍よ、龍。ちゃんと見てた? 手も足もついてたでしょう?」
龍としての誇りがあって、蛇と間違われることには我慢が出来ないらしい。誇りを気にする女の姿には、照司に害意が無いという雰囲気が滲み出していて、香久夜は肩の荷を下ろすようにため息をついて女への警戒を解いた。
「よかったぁ。ちゃんと生きてたんや」
照司は女が機嫌を損じている事を気にするより、女が無事だったことを喜んでいた。女はその素直な思いやりに思わず照司を優しく包み込むように抱いた。それが今の彼女に僅かに残された愛の本能だった。女はしばらく照司の生命感を腕の中で楽しむように抱きしめていたが、やがて、不思議そうに照司を体から放して、距離を置いて眺めた。そして、照司の両頬左右の手で摘んで両側に引っ張った。照司は妙な悲鳴を上げた。
「むにっ」
「こらっ、私の照司に何すんねん」
香久夜が怒りの声を上げた。照司の頬をつまんで、彼の顔に笑顔を作ろうとした女が、大切な弟を苛めたと思ったのである。香久夜の怒りを気にする気配もなく、女は不思議そうに照司の柔らかな言葉と固い表情のギャップを尋ねた。
「あんたは笑わないのかい?」
女の質問に、香久夜が代わって答えた。
「照司は笑うのが苦手やねん」
「普通、子供は笑ったり泣いたりで忙しいものよ」
「そんなん。温いとこで喰うモン喰わしてもらってた子供の話や」
「うそっ? 子供が凍えたり、お腹を空かせるの?」
「そうや」
「闇の世界より酷いじゃない」
「私らの責任ちゃうで」
女は黙って照司の顔を眺めた。そして、袖の中に手を入れ、手品師がコインやトランプを出すような仕草で、不思議な光を放つ珠をとりだした。彼女が龍の姿をしている時に、小さな手で握っているもので、ビー玉ほどの大きさがある。人間の姿の彼女は、手の平で、キラキラ、ころころと転がして見せた。時に白い鋼のように重みを感じさせたかと思うと、時には透明でしゃぼん玉のように儚く見える。照司はその不思議な珠と女を、見比べるように眺めた。
女は照司の手を取ってその珠を握らせた。珠から照司に伝わってくるものは、命を救われた感謝の念、そして、照司に恩返しをしようという義務感だった。
(固くて、冷たい)
珠は彼女の意志が揺るぎないかのように固い。しかしどこか情愛のない凍り付いた冷たさを持って照司の心に届いた。感謝することは知っていても、誰かを愛した経験のない女の人格を象徴するようだった。女は照司に語り始めた。
「凍えたり、お腹が空いたり」
彼女は香久夜にちらりと視線を注いで、言葉を継いだ。
「この娘に苛められそうになったら、珠に念じなさい。助けに来てあげる」
「助けてくれるん?」
照司の問いに女は微笑んで頷き、注意を与えた。
「でも、願い事は一度だけ。願った後にはこの珠は消えてしまうわ」
女は少し振り返って、香久夜にふんっと鼻を鳴らした。悪い少女ではないとは思うのだが、互いに勝ち気な性格で、上手く噛み合えば仲良くなれるかも知れないが、今はそりが合わない気がする。とりあえず、用件は済ませて、この生意気な香久夜には用はない。香久夜は疑うように訊ねた。
「また来るって、あんた誰? まだ、名前も聞いてへんで」
「吉祥。きっ・しょ・う」
龍はその名を最後に、消え入るように姿を消した。淡い光を放つ女は消えて闇の中に香久夜と照司だけが残された。突然に喧嘩相手が居なくなった部屋で、香久夜はつぶやいた。
「まあええわ。幽霊や妖怪にずっと取り付かれてるよりマシや」
香久夜にとって龍も幽霊も区別がない。訳の分からない不意の客だったが、邪悪な存在ではないらしく弟は無事だ。香久夜を見つめる照司の目は、姉を信頼しきっていて、不安は感じていない。
その照司がぽつりと呟くように訊ねた。
「お姉ちゃん。スエラギ様の所へは、いつ行くのん?」
香久夜は答えることが出来ない。