旅立ちへの転機
(何か、変わった)
あの事件の後、香久夜はそう感じることがある。一つは自分の人々に対する気持ちについて。もう一つは、大切に愛されるばかりだった香久夜と照司が、その力強さによって、人々の信頼や期待を背負う存在として見られるようになったこと。ただ、元の世界で心に負った傷は大きかった。人々の敬愛をうけ、暖かな親切に身を任せながらも、どこかで人々を拒絶する意識が残っていた。
(この人たちのために何ができるのか)という義務感。そんな感情の後、最後にわき上がる疑問がある。
(自分たちはカグヤとショウジの偽物で親切を受ける資格はない。彼らの親切には何か裏があるのでは)と
考え込み、うつむきながら歩いていた香久夜は、誰かに背後から肩に手をかけられて引き留められた。振り返った香久夜は、その人物に眉を顰めた。
「あっ、あんたは」
ぎょろりと目を剥く髭面の大男と、彼に付き従う男たちの顔に、香久夜は記憶があった。多少間が抜けた顔に間違いはない。香久夜がこの世界で初めて出会った人物で、山賊の頭目のタロウザとその仲間だった。
タロウザは、挨拶をしている自分に気づかないで通り過ぎた香久夜を引き留めた。その事すら、酷く無礼を働いたように恐れおののいて、仲間にも指示して、町の喧噪の中で揃って地面にひれ伏した。
(こいつら、私の身分に、気ぃついたんか?)
自分たちが売り飛ばそうとした娘が、この世界の最高神官だったと気付いて、許しを請うているのかと考えたのだった。香久夜は周りの目を気にして、小さく呟いた。
「ちょっと、立ってや」
大男が自分の前で、半ば怯えながらひれ伏しているという光景は、人々の間に悪い噂を生み出すに違いない。しかし、香久夜はタロウザ達に興味を持った。
「あのな、あんたらに色々と教えて欲しいことがあんねんけど」
香久夜はそう言って、タロウザを目立たない場所に連れ込んだ。深い草むらの中なら、周囲を気にせず話ができるだろう。草むらに姿を隠すようにしゃがみ込んだ香久夜の前に、男たちは再び伏せて、その顔を上げて香久夜と相対する者がいなかった。彼らが罪の重さに気づき、その罪に応じて課せられる罰の過酷さを恐れ、香久夜に許しを請うているのかと考えたがそうではなかった。タロウザたちがひれ伏したのは、身分制度とも犯罪とも関係がない。もっと生真面目で根元的なものだ。彼は口ごもりながら言った。
「噂を耳にしました。わしらはそんな気高い方々に乱暴狼藉を働いたのかと思うと、心苦しゅうて」
香久夜が彼らに脅されたことは事実だが、怪我をするような乱暴を受けた記憶はなかった。ただ、男たちは自分たちの行為を悔いて、人間として彼女に詫びなければならないと言う。香久夜は彼らの生真面目さに好感を抱いたが、首をかしげたくなる点もあった。
「そのへん、もうちょっと詳しぃに教えてえな」
「我らのために、カヤミ様でさえお亡くなりになった危険なウナサカに旅立たれるとか」
「なにそれ?」
香久夜の言葉に、多少、怒りが籠もっていた。その怒りが自分に向けられたものかと、タロウザは再びひれ伏した。
「ちゃうで。あんたらの事と違うねん」
香久夜はあわてて否定した。この男は本音を語ってくれてありがたい。ただ、今まで人々が自分たちに親切にしてくれる理由が、香久夜にも朧気に見えてきた。タロウザたちは、狂ってしまったスエラギ様を封じ、自分たち民衆を救うために、香久夜と照司が危険な旅に赴くことに礼を言う。タロウザたちは元犯罪者だが、根は純朴で心に濁りがない。その男のすがりつくような願いは、この世界の民衆を代表して、香久夜と照司にかけられた期待に違いない。純朴な山賊たちは、幼い神官の意図を知って、そんな健気な二人に無礼を働いてしまったことを、地にひれ伏して詫びていた。
この点、民衆の表現は率直で的を得ている。弥緑社の巫女連中なら間違っても『スエラギ様が狂った』などという表現はするまい。しかし、人々の身の回りの出来事が、常に意思を持ったかのように悪い方向に揺らぎ続けている。
どうやら、囁かれる噂と期待は人々の間で密かに広まっているらしい。もちろん、香久夜は気まぐれにこの世界の人々を助けたいと思うことはあっても、それを打ち消す意識がある。スエラギ様といえば、この世を作り、滅ぼすほどの力を持った造物主だった。抗うには強大すぎる相手だろう。
(ひょっとして、弥緑社の大人たちは、私と照司を人身御供にするつもりか。私の油断を狙ってたんや。このままやったら、私と照司は……)
香久夜は飛び上がるほどの驚きで思った。人々が彼女たちに親切だったのは、そういう期待の現れか。その思いが大人は信用でけへんという香久夜の思想と重なって、被害者意識に転じた。
香久夜は心の疑念を口にした。
「やっぱり思てた通りや。あいつらを信用しかけた私がアホやった」
しかし、一方で、目の前で本音を語る純朴な男の性根は信じてもいい。
「あんたら、こんな酷い所は離れて、家に帰ってまっとうな仕事しぃや」
言葉は荒っぽいが、タロウザには香久夜が自分を気遣う優しい本音が伝わった。香久夜は身を翻すように駆け去った。香久夜は小声で呟いて舌打ちをした。
(やっぱり、大人は信用でけへんわ)
やっと、この世界の人々が彼女に優しく接していた理由が分かったと考えた。振り返ってみれば、スセリを始め、ムタケルも巫女たちも、香久夜と照司がスエラギ様の元へ旅立つことを押しとどめてきた。しかし、今の香久夜には、そのことすら、スセリたちが香久夜と照司を油断させ、頭ごなしに制止することを繰り返して、香久夜の反発を誘って、ウナサカ行きの意識を煽り、危険な場所へ送り込む機会をうかがっていたに違いないと被害者意識に変わった。
月香殿に戻って来た姉が、部屋でごそごそと物音を立てていた。それが照司の興味をそそった。香久夜は自分の部屋で、小袋にかんざしや小さな宝玉など、かさばらない金目の物を選んで詰め込んでいた。もちろん、これは全て香久夜の持ち物だから問題はない。が、心の中に何か盗みをするような後ろめたさもある。宝物蔵にはもっと高価な物があることも知ってはいるが、蔵の物に手を付ける気にはなれない。そう言うところは、彼女が良心的なのか、小心なのか、良く分からなかった。
照司は首を傾げた。
「お姉ちゃん」
この短い呼びかけは、姉に向かって、何をしているのかと問うている。
「照司。あんたも、さっさと荷物をまとめ」
照司は姉の言葉に黙って、もう一度、首を傾げた。姉はここを立ち去ると主張しているらしい。この世界に来てから、温かいところで美味しいものを食べているばかりではなく、殴られたり蹴られたりすることがない。安全という点では、ここほど居心地の良いところはないはずだった。照司は姉の意図がよく理解できないでいた。
「聞こえへんかったんか? こんな危ない所、さっさと、トンづらするで」
より高価な髪飾りを物色しながら、香久夜は弟に理由を説明した。
「みんな、私らをスエラギさんと戦わす気ぃや」
「お姉ちゃん」
心の中に声を感じるのは、香久夜ばかりではない。照司も心の底に、救って欲しいと呼びかける声を感じている。それを上手く説明することが出来ない。
「スセリさんも、みんな優しいねん。ボクをどついたりせぇへんもん」
弟のそんな言葉は事実だ。香久夜は手を止めた。照司は言葉を続けた。
「マツリさんやサギリさんも、みんな、美味しいモン食べさしてくれるねん」
照司がとつとつと語る言葉の一言毎に、香久夜も心当たりがあった。香久夜には言葉の裏を察するという癖があるだけに、人々の好意が偽物ではないことも、分かってはいる。香久夜は弟に同意するように、弟の肩を優しく撫でた。照司は困ったように姉の顔を見上げた。
「ボク、なんにもでけへんかってん」
舌っ足らずな言葉だが、香久夜には照司の言葉が分かる。みんな自分に優しくしてくれる。恩返しできることがあるのなら、してあげたいというのだろう。そういう思いはあるのに、あの祭りの場で大勢の人を死から救う事が出来なかった。そんな照司の後悔を察することが出来る程度、姉の香久夜も同じ気持ちは持っている。
ただ、自分は照司を守るのに精一杯だ。一番大事なことは、二人っきりの家族を無事に維持していくことだろう。そのためには、今、この瞬間、照司から信頼される姉でなくてはならない。
「ちぇっ」
香久夜は舌打ちをして、袋に詰めた物を元の場所に整理し直した。弥緑社を捨てて逃げ出すということが、この弟の前で恥ずべき行為のように思える。