豊穣の祭りと妖(あやかし)
このところ、この世界にやってきたと言うことを、香久夜は忘れがちになる。古い記憶がこの世界の体験で塗り潰されて消えてゆく。ただ、時折、本当は自分が他の世界の住人だったということを思い起こす。
この世界は田植えという作業で、香久夜の世界と共通点がある。育てた苗を水を張った田に植え替える。既に九割がたを植え終わって、きらきらと陽を照り返して輝く水面に、苗の緑を目で追うと、苗の緑の点が線になって連なる。その几帳面な雰囲気は、香久夜が生まれた世界の農村の風景と変わりがない。二つの世界の共通点を比較すると言う行為を通じて、香久夜は自分がよそ者に違いないことを侘びしく思い出した。
香久夜と照司はその水田の一角、約一メートル四方に御幣の印で仕切られた区画に、慣れない手つきで苗を植えた。香久夜にも照司にも初めての経験だった。慣れないために植えたつもりの苗が、ぷかりと水面に浮いてくるものがある。傍らで見守る農民がそっと手を添えて根付かせてくれていた。
照司の新鮮な驚きは、この田に小さな生き物がいるということだ。おたまじゃくしを見るなど初めての経験だった。一足ごとに、ぬるりと二人の素足を受け入れる田の土は、二人にくすぐったい笑みを浮かべさせる。豊かな実りをもたらす土だった。額に浮いた汗を、思わず手でぬぐうと、指先の泥が額や鼻の頭にくっついた。そういうことすら、汚れると言う不快感ではなく、この大地に染まり一体になる心地よさがあった。むろん、香久夜たちの田植えは儀式としてのものだ。二人は農民に手を添えてもらいながら数十本の苗を植え終えて、畦に上がった。サギリやマツリが、手際よく香久夜と照司の足を洗って、足袋と草履をつけさせた。スセリが手にする手桶に清めの水が入っている。香久夜と照司は代わる代わる苗を植えたばかりの田に柄杓で水を注いだ。
(今年も豊かな実りがありますように)
二人がつぶやいた祈りは、難しい教典の文句ではなく、素朴な願いの言葉だった。二人は背後の人々を振り返ったかと思うと、手杓の水を青い空高く投げ上げるように振りまいた。水は細かく散って淡い虹を作りながら人々に降り注いでスエラギ様の祝福を与えた。
都の中心から約一日の距離にあるヒナトリの地がこの儀式の場になる。スセリらは無事に儀式を終えてほっとしている様子だが、胸をときめかせる期待感が若い巫女たちの表情からあふれ出している。彼女たちと農民たちの本当の楽しみは、この夜にある。素直なタマエなどは、館から重い荷を手間隙かけて運ぶ苦労も、この夜の祭りを楽しむためだと公言してはばからない。豊穣を祈る祭りだった。
日が落ちて、雲ひとつない空に星が輝いていた。この世界は香久夜と照司がとけ込むように受け入れていた。二人もこの美しい夜空に、もはや驚きはなかった。ただ、この夜ばかりは、明るく輝く星々が明るく焚き上げられた広場の四方の篝火にかき消されていた。
その光と闇の狭間で香久夜は一人考えた。姿を見たことは無いが、この世界にも自分たち姉弟にそっくりなカグヤとショウジがいる。いま、それを推測ではなく、弟の姿に実感して声をかけた。
「あんた、いつ?」
いつ横笛の演奏など覚えたのかと問うたのだった。照司が朗らかなメロディを奏で、人々はその笛の音に合わせて太鼓を打ち、踊る。町の広場の中央に組んだ祭壇に鎮座する二人は、性別や職業や身分の差も無く、様々な人々の屈託の無い笑顔に包まれていた。豊作を祈る祭りに香久夜と照司を加えて盛り上がっている。この夜ばかりは、踊りの主役は巫女の神楽舞ではなく、村人たちの踊りの輪だった。
その踊りの躍動感を、照司が慣れた指使いで奏でる横笛が生み出す。むろん、照司は生まれてこの方、横笛など習ったことは無いはずだ。なのに、本能に操られるように、うっとりと目を閉じて上半身でリズムを取りながら笛を吹く。それは、どこかにこの世界のショウジが存在し、香久夜の照司を操っているという証拠に違いない。
人々に向けた愛想笑いの口元を少し歪めて、香久夜は心の底からわき上がる衝動に耐えた。左手に鈴を手にしているのだが、しゃりしゃり、澄んだ音を立てるほど、鈴が香久夜の意思に反して揺れている。香久夜が衝動を抑えなければ、照司の笛の音に合わせて、鈴を鳴らし、この祭壇の上で豊作を祈る舞を自在に舞っているだろう。香久夜は右手で鈴を持つ左の手の甲をぴしゃりと叩いた。
(私の意思に反して勝手なことをしないで)
香久夜はこうやって、この世界のカグヤの存在と意思を感じ取っている。カグヤはこの世界のどこかにいて、常に香久夜の行動をモニターして遠隔操作でもしているらしい。しかし、香久夜は他人の操り人形にされるのは真っ平だった。
「御詞様」と呼びかける村娘がいる。
『スエラギの言葉を伝える者』と言う意味で、香久夜と照司を対にした呼び名である。二人は大勢の笑顔に囲まれていて、人々は自らも声を上げて女に唱和した。
「ミコトバサマ」
「ミコトバサマ」
「ミコトバサマ」
一人は笛を奏でてくれるのに、もう一人はどうして舞ってくれないのかと、香久夜の舞を催促する声だった。
「しゃあないな」
周囲から期待されると言うことは、悪い気持ちではない。香久夜は立ち上がった。カグヤに操られてではなく自分の意思で立った。自分が人々のために、人々と共に踊る、そういう期待感に満たされた。
この瞬間だった。突然、広場の端から悲鳴に似た声が上がった。
「妖か?」
信じられないと言った口ぶりで、恐怖が広場に広がった。確かに信じられないだろう。ウナサカの樹海に、得体の知れないものが出没するという噂は聞いてはいても、都から僅か離れたこの土地に出没する存在ではない。しかし、事実いる。
妖の青黒い姿は闇に溶けているが、無数の星の光を遮るために、その輪郭が見えていた。異様に輝く目は瞬きをすることがなく、ぎょろぎょろと獲物を探すように動き続けていた。
妖は様々な姿形を取るらしい。人々が指差す先にいるものには蝙蝠のような翼がある。しかし、その胴には人のような手足が付いていて鳥ではない。空には対比をするものが無く、大きさが判断しにくいが、そういうものが既に十数匹、広場の上空を漂うように飛び交っていた。
(じゅういち)と、香久夜は言葉に出さずに妖の数を数えた。
一直線に飛んでいるかと思うと、鋭角的な方向転換をしたり、ふわふわと空に漂うように動きを止めたり、闇の中にその姿が重なり合って数えにくい。
「放てっ」
そういう短い命令を、香久夜はしまったと内から湧き出した後悔の念とともに聞いた。声を発したのは警護の任についているの衛士に違いなかった。熟練した衛士たちは、妖の姿を見かけるや否や、弓に矢をつがえたのだろう。その妖が射程内に入った。そう判断し発せられた命令だった。その射撃は見事と言うほか無い。もともと祭りに生じた僅かな喧噪を収拾するのが目的だったため、配備されていた衛士は僅か八人に過ぎない。
衛士が放った八本の矢に的を外れたものが無く、妖の頭部や首筋を射抜いていた。ただ、その矢が妖に何らダメージを与えてはいないらしい。ふわふわ飛び交う様子に変化は見られない。
「妖には矢が効果がない」
それは、遠征に出たカヤミが語り伝えた。
(先に人々を逃がすべきではなかったか)
香久夜自身も混乱して的確な指示を出すことが出来なかった。しかし、妖は明確に攻撃対象を絞ったようで、衛士に向けて降下を開始した。垂直に落下するほどすさまじい速さと勢いだった。わずか十数匹とはいえ、妖がいっせいに降り注いでくる様は豪雨のようで避けきれない。二の矢をつがえるのに間に合わないことを悟った将は、弓を捨て太刀をぬきつつ、部下にも命じた。
「抜けっ」
闇の中に白刃が閃いた、衛士たちは妖に臆する様子はない。激突するという凄まじさで妖と交錯した。二人の衛士が倒れたが、六匹の妖が地に転がった。僅か八人の兵力でよくやったと言える戦果かもしれない。しかし、残された衛士の様子がおかしい。傷らしい傷を負っていないにもかかわらず、地に転がった。胸を押さえ苦しげに血を吐く。
(またしても)
香久夜の後悔が膨れ上がった。妖の呼気や血には強い毒気があるということも、カヤミは語り伝えていた。衛士もそれを聞き知ってはいるはずだが、突然の戦闘で避けるすべがなかったに違いない。
「人々を家の中に」
香久夜が叫ぶように広場の中心から最も近い建物を指し示した。香久夜が生き残った二人の衛士にこういう指示を出した点、香久夜の心に変化が現れている。以前の香久夜なら、民衆の危険など捨て置いて、自身が照司を連れてさっさと避難していたはずだ。
いま、香久夜は片腕で照司をかき抱いて、照司を保護して離そうとはしないが、彼女の注意は周囲全てに配られていた。見晴らしは利くが、その身を危険にも晒さなければならない。彼女はその祭壇を動こうともせず、人々の安全を見守っている。
十メートルばかりのところに倒れた衛士の太刀が、抜き身のまま転がっていた。香久夜はそれを目ざとく見つけた。香久夜は祭壇から太刀の所へ飛ぶように跳ねた。人々を逃がす時間を稼がねばならない。太刀の刀身や束は妖の血でぬるりと穢れている。先ほど妖の血を浴びた衛士が倒れるのを見たばかりではないか。
(貴女なら大丈夫)
そんな確信が湧いてでて、恐れが打ち消された。香久夜は妖の血で濡れた太刀の束をしっかり握り締め、降り降りてきた妖を切り捨てた。
ちらりと照司に目をやると、無駄のない動きで守り刀の小さな刀身を振るい、その切っ先が正確に妖の首筋を捉えている。
(よくやっている)
ただ、二人が時間を稼ぐ間にも、あちらこちらで人々の悲鳴や怒号が響き、祭りの広場は混乱の極致にあった。妖が荒く吐く毒気を含んだ息や、血飛沫が空気に溶けた瘴気を吸って倒れる人々も続出した。
生き残った二匹の妖が逃げ去り、村が混乱を収拾するのに、夜明けまでの時を要した。昇る朝日が広場を照らし出した。妖の死体は解け去るように崩れ去り、重い霧となって漂った。その霧も風に流されて薄れ、陽に照らされて消滅した。
しかし、生き残った人々は、残された光景のすさまじさに息を呑んだ。逃げ遅れた数十人の民衆が犠牲になり、冷たく変わり果てていた。無残なことに、その死体が妖に引き裂かれているばかりではなく、瘴気や血の毒気を浴びてもがき苦しんだ様子が見て取れることだった。過去の遠征で唯一生還し、その後亡くなったカヤミが語り伝える状況と一致する。カヤミの遠征と同様、大勢の人々が亡くなり、この大地も妖の瘴気で穢れた。
ふと、香久夜の目に付いたのは、昨夜、笑顔で香久夜の舞を乞うた娘だった。香久夜は苦しげに目を開いた死体の顔を撫でて目を閉じさせた。指先に感じる女の肌が既に冷たかった。照司が立ち尽くしているのは、田植えのときに手を添えてくれた農夫の死体の傍らだった。
「触らんといて」
香久夜は彼女を気遣うにサギリに自分に触れるなと命じた。周囲の瘴気は薄れたが、彼女と照司は毒気の強い妖の血を全身に浴びていた。サギリらが彼女に触れれば、無事ではすまないだろう。
「マカドの岸に」
代えの衣服を届けるようにと指示を出した香久夜は、黙ったままの照司の手を引いて歩き始めた。自分達を慈しんでくれた人々の死を目前にして、余りにも無力だと言う失望感が、二人の姿をいっそう小さく見せていた。その姿が幼い。しかし、生き残った人々は、妖が放つ瘴気や血の毒気に動じない二人の後姿に、信頼と期待を込めて見送った。
都の北部の一辺を横切るナテワギ川の一部に浅瀬になったマカドの岸があり、水に関わる祭祀を執り行う場所になっている他、精神を清めるという目的で人々が水浴びをする場所だった。香久夜は弟の手を引いて、腰のやや上まで水につかって、妖の血で穢れた体を洗った。
「私ら、なんもでけへんかったな」
「うんっ」
照司が顔を盛んに洗うのは涙を隠しているためかもしれない。スセリは水から上がった二人の冷えた体を、白布で優しく覆った。彼女の目に香久夜の首筋の赤い痣が目に留まった。御矢樹山の社から戻ったカグヤの首筋に見つけた物だが、未だ消えてはいなかった。
スエラギの言葉を人々に伝える神聖な役割を持っているとはいえ、カグヤもショウジも特別な肉体を持っているわけではないはずだ。むしろ幼い分、体力は弱いと言えるかもしれない。それが、今のこの二人の強靭さはどうだろうと驚いている。
(まさか、御矢樹山の社で、この二人は)
スセリは首を振って自身の疑問を振り払った。たとえどうあれ、カヤミ亡き今、カヤミの分も含めてカグヤ様とショウジ様の二人を大切に守り育てることが自分の責務に違いないと信じることにした。