鳳輔(ほうほ)
照司は外出の目的を忘れて、その美しい姿にため息をついた。蛇も照司の姿に気付いたのかもしれない。照司の心の中に、ふと首を傾げるような興味が伝わってきた。照司を見つけた吉祥の感情が伝わっていた。彼女は、二、三度くるくる宙を回った後、音も立てずに空から降りてきた。
照司が、気配を消していた白いフクロウに気付いたのはこの瞬間だった。枝を音もなく離れたと思うと、降りてきた吉祥を背後から襲った。静かだが一瞬の隙をついた攻撃だった。吉祥はフクロウの爪に捕らわれた瞬間にさえ、自分の身に何が起きたか分からなかったに違いない。
吉祥はフクロウの鋭い爪に喉元を捉えられていた。喋ることも出来ずに、体をくねらせながらきぃきぃと哀れな悲鳴を吐きだした。蛙になりかかったオタマジャクシのように、その蛇の胴には小さな手足がついていた。その前足で喉を庇おうとしているようだが、フクロウは爪を蛇の急所にがっしり食い込ませて放さない。
既に勝利を確信するように、フクロウは鋭い嘴を大きく開けて舌なめずりをした。フクロウは蛇を食べるつもりだ。
(これ、ボクの責任や)
照司は生真面目にそう思った。あの蛇は照司に興味を示さなければ、こんな目に遭わないですんだはずだ。照司は腰に付けた兵糧袋を差し出して叫んだ。
「フクロウさん、これあげる」
フクロウは照司の意図を理解しかねて太い首を傾げた。
「蛇がかわいそうや」
照司の言葉に吉祥も頷くように頭を動かした。それでもフクロウが爪を放す様子がないのは、照司の申し出に魅力がないか、意図が理解できないか、そのどちらかだろう。照司は心の中の言葉を一生懸命に繋ぎ合わせた。
「フクロウさん、お腹が空いたら、これをげるから、その蛇を食べないで、放してあげて」
やっと、照司の言葉が繋がって、フクロウは照司の意図を察して、獲物の価値を検分するように眺めた。姉の香久夜が聞けば驚くだろう。照司がこんなに長い言葉に意志を込めて吐いたのは初めてだった。フクロウは少し考える間を置いて、爪を弛め、羽ばたいて側の木の枝に移った。照司は自分の言葉が通じたことを知った。
吉祥に目を移せば、小さな前足で傷ついた顎の辺りを庇いながら、きぃきぃと意味不明な声を上げていた。傷ついて、ちゃんと声を出すこともできないらしい。しかし、その目は照司に対する感謝に溢れているように見える。お礼の意思を表した後、吉祥はフクロウを怒りの目で睨み付けたかとおもうと、よろよろと森の奥へ飛び去った。心配そうに吉祥を見送る照司に、フクロウは一声鳴いて自分に注意を向けた。
フクロウと照司が残されていた。フクロウは大きな目をぎょろぎょろ動かして、照司を眺め回し、じろりと照司の腰を睨んで視線を止めた。そこには照司の守り刀がある。
フクロウは地に舞い降りて姿を変えた。照司は目の前の老人を眺めて思った。
(ああ、この人が鳳輔か)
照司の判断は、害意があるかどうかと言う点で二つに分けられて、この老人には危険な匂いはなかった。だから、フクロウが人間の姿に変わったことに、好奇心は湧いても恐怖はない。
僧侶の袈裟のような衣装だが、その衣装は白い。髪も眉も髭も衣装に合わせたように真っ白で、老人らしい年齢を感じさせたる。ただ、手にした錫杖と同じく、背筋はピンと伸びている。足どりはゆっくりだが、地面を踏みしめる足に迷いがない。何より、照司に注ぐ視線に力があり、威圧するというわけではないが存在感を感じる。ただし、ことさら賢者ぶる態度の隙間から、どこか間の抜けた雰囲気を漂わせていた。イセポやサヨリが教えてくれた鳳輔の姿だった。
鳳輔も照司に興味を持っていた。照司の衣装や腰の守り刀の紋章を見れば、この少年がスエラギ様の意志を伝える神官だと分かる。少年と話すために、鳳輔は人間の姿になった。普通の人間なら驚いて逃げ去ってしまうかもしれない。しかし、少年は驚くどころか、無表情ともいえるほど感情の起伏に乏しい。
「お前は?」
鳳輔は錫杖を打ち鳴らして少年に返答を促した。照司がぴくりと反応して口を開いた。
「ボク、照司。あなたは、ほうほさん?」
「左様」
二人は黙りこくった。互いに、相手に興味がわく。しかし、話のきっかけが掴めない。全く異なる人生を歩んだ二人だった。照司が約束を思い出し、腰から兵糧袋を外して、中身のものを手の平に取り出した。焼き栗が1つ、蜂蜜付けの小梅が3粒。梅が甘い香りを放って、鳳輔の鼻を刺激した。
「どれがいい?」
照司がそう訊ねたので、鳳輔は少し考え込んだ。普段、鳳輔は野ネズミや蛇やトカゲなどの生き物を捕まえて食べている。こういう植物の実を食べたいと思ったことはなく、むしろ、植物の実を啄む小鳥たちを内心バカにしてもいる。ただ、食べなくては会話が続かない。
それに続く理由を、鳳輔は言葉で説明しづらい。他人の好意を素直に受け取らなくてはならない。この少年の目は、鳳輔の心をそう誘導する。鳳輔にとって、初めて経験する感覚だった。
「栗をもらおう」
そんな鳳輔の言葉に、照司は嬉しそうに、腰の守り刀を抜いた。祭祀に遣う本物は蔵の中で、手にしているのは身分を証明する模造刀である。彼はその尖った先で栗の殻を剥こうとした。鳳輔は半ば呆れて、ため息をつくように注意した。
「こら、こらっ」
栗を剥こうとする刃先が危なっかしいばかりではなく、模造刀とはいえ祭祀に使う神聖な短刀を象徴する品だ。栗を剥くのに使ってはいけない。
「あかんの?」
「よこせ。自分で剥く」
鳳輔は照司から栗を取り上げて、鋭い爪で殻を剥いた。賢者だというプライドがあって他人と距離を置くことが多い。ただ、この時に子供の前で栗の皮を剥き、渋皮まで丁寧に取り去って、栗を頬張る鳳輔の姿は、ただの老人に過ぎない。
「それで、お前と香久夜は、別の世界から来たというのか」
鳳輔は指先に付いた栗のカケラを舐め取った。
「うん。お姉ちゃんが、そう言うてん」
そう言う会話をしながら、鳳輔はもっと気になることがある。照司が囓り終わった梅の種を、大切そうに兵糧袋に戻している。蓬莱島から来たというのも気になるが、一見すると意味のない行為に、自分の知らない大事な真理が含まれているような気がする。
「お前は、それをどうするつもりだ?」
「お日様のあたる所に植えるねん。こんな美味しいモンが木に成ってたら、みんな喜ぶわ」
この少年は、この種を植えれば、甘い蜂蜜漬けの梅の実をつける木が育つと考えている。照司の心根は純粋で、動機は優しいが、その種が芽を吹くことはあり得ない。鳳輔の表情を窺って、照司はうーんと声を挙げて首を傾げた。
「あかんの?」
「その種は、既に、死んでおるわ」
「この種、蒔いても木になれへんの?」
「死んだものに命を授けることが出来るのは、スエラギ様くらいのものだ」
「ボク、アホやねん。そやから、いつもみんなに怒られるねん」
照司の表情に変化はないが、口調の中にうつむき加減で涙ぐんでいる雰囲気が感じ取れた。鳳輔は少年の肩を抱いて語りかけた。
「違う。自分に知恵が足りないことを知っているだけ、お前は他の人々より利口だし、もっと利口にもなれるのだ」
少年と話しつつ、鳳輔は不思議な気分に囚われていた。こうやって、だれかに本音を話すのは何百年ぶりだろう。この少年は人に警戒心を失わせてしまうほどの素直さで、他人に接することが出来るらしい。それにしても、心を開いて話が出来るというのは、何と気分の良いことか。
「気ぃついたら、ここにおってん」
この世界にやってきた理由を、照司はそんな一言で説明しきった。姉弟が他の世界からやってきた状況は、確かにその一点に集約されているようで、疑いを差し挟む余地がない。
「突然にやって来て、人々を治めているというわけか?」
「あのね。お姉ちゃんが言うねん。『この国の支配者になるっていうんは、この国の人がちゃんと食べられるようにすることや』て」
鳳輔は照司の姉にも興味を抱いた。いきなり権力を手に入れれば、普通の人間は権力を振り回す快感にとりつかれるに違いない。その快感より先に、民を養う責任の重圧を考えたというのは評価して良い。
続く照司の言葉に鳳輔げらげら笑った。照司は首を傾げた。何故、鳳輔が笑うのか分からない。しかし、鳳輔にとって、照司の姉の素直な心根も、涙が出るほど面白い。照司の姉は「権力を振り回すのは難しい」と言ったらしい。
「権力さえあったら何でも出来ると思てたけど、権力を振り回すのは、たいがい厚かましなかったらでけへん」
香久夜は、自分には普通の人間の厚かましさが足りないと言う。
「なるほど、その通りだ」
想像がつかないほど厚かましい。鳳輔にとって、それは人間どもを評するのにぴったりの言葉に違いない。これほど心の底から素直に笑うことができたのは何百年ぶりだろう。素直に溢れた笑いで、心の底の澱んでいたものが湧き上がって流れ去るようで、ひどく心地がよい。
照司は話題を変えた。この賢者なら自分が進むべき道を示してくれそうな期待があった。
「そやけど、この世界が滅びかかってるねん。みんな、死ぬかもしれへんねん」
「うむ。確かに世界は滅びるのやも知れぬ。いや、その通りだろう」
鳳輔はこの森で生活していてさえ、滲み出した邪念の霧が濃くなりつつあることを実感している。このまま、この状態が続けば、という不安を抱えてもいた。
「ボク、どうしたらええのん?」
今の鳳輔は照司のすがりつく視線から目を反らさざるを得ない。
「運命から逃げることもできよう」
「逃げたらアカンねん。ボク、何とかしてあげたいねん」」
「それを自分の心に問うてみよ。すべきことが見えてくる」
「ボク、みんなが嫌がることがしたくなるねん」
「何故に?」
「なんで、みんなが優しいのか分かれへんから、腹がたつねん」
鳳輔は自分に向けても良い言葉を照司に言った。
「人を信じることだな」
その表情は思いやりがあって自嘲的な色はなかった。照司が訴えた。
「そやけど、自分にも腹が立つねんで」
「自分のことも信じてみるがよい。お前は優しい子だ」
「そやから、ボクもみんなに優しくしたいねん」
「それでは、そなたの責任を果たすのだ」
「せ、き、に、ん?」
「人々が、お前と香久夜に望むものを成し遂げるのだ。さすれば、お前達も救われよう」
「お姉ちゃんも助かるのん?」
「左様」
鳳輔は照司の言葉にそう頷きつつも、後ろめたい。『責任を果たすのだ』という言葉はある意味で非常に曖昧だ。賢者としての自分の言葉が空しく、この世界にとっても、照司という友人にも、具体的な役には立つまい。それでも、照司は素直に鳳輔の言葉を聞いている。この時に、太鼓の音が響いてきた。人々に時を知らせるもので、招緑の儀の開始の時間でもある。照司は自分の役割を思い出して立ち上がった。照司は駆け出そうとしつつ、ふと、名残惜しそうに立ち止まって聞いた。
「また、来ても良い?」
「おぅ。いつなりと、会ぅてやろう」
鳳輔は少し考えて言葉をゆっくりした口調で本音に言い換えた。
「照司よ、また、会いに来てくれ」
「ありがとう」
鳳輔は照司の最後のお礼の言葉を胸の中で繰り返した。
(ありがとう)
自分が照司に言わなくてはいけないような気がする言葉だった。この世で一番の賢者という評価を得てから久しい。しかし、自分はこの世で何を成し遂げてきたのだろう。夕日を背にして手を振る照司の姿を見送りながら、鳳輔はそんな深い後悔を感じていた。




