カグヤとショウジ
同じ頃、山岳地帯を越えたこの星の反対側、人々が住む地域の一部に、木々の間を縫うように、緩やかな斜面を駆け上がる二人の姿があった。巨木が背景にあって、二人の体の大きさや年齢を推し量ることはしにくいが、性別を判別しがたい体つきが、二人の幼さを感じさせる。二人はやや息を切らしているが、その歩調を弱めようとはしない。密に茂った木の葉に日がさえぎられて、二人の表情は定かではない。しかし、じっと前を見つめる姿勢に、ひたむきな思いがあふれている。二人が足を進めるにつれて、木漏れ日がきらきら地面を刺してきた。
深く茂った木々の密度が薄れるにつれて、柔らかな日差しが差し込むようになると、頂上が近い。二人はそういうことを知っている。やがて、地と空を分かつように、柔らかな曲線が見えると、それがこの御矢樹山の頂上の稜線だった。木々は姿を消し、なだらかに広がる頂上には草原が広がっていた。タンポポの綿毛のような柔らかな若草色の光に覆われていた。草原は二人の姿を腰の辺りまで覆い隠すほど深い。
息を整える二人の面立ちは似ているが、先導する人物の肩から指先にいたる曲線がやわらかく、少女だと分かる。少女に素直に導かれつつも、その少女の指先をきゅっと握るもう一つの手には、しなやかな筋肉の張りがあって、男の子を想像させる腕だった。二人は仲の良い姉と弟を連想させた。
もともと、ウナサカの樹海の裏、この世界の人々が住む領域は起伏に乏しい。ここはその世界の大地に、乳房のような優しい隆起を持った山だった。都から二人の足で三日を要した。今は霧で隠されている地平線の向こうに、その都がある。しかし、夜になれば、都の灯火が地平線の輪郭を美しく彩るに違いない。
やがて、頂上の一角に二本の白木の柱が見えてきた。二本の柱に渡されているしめ縄は、二つの輪があって聖域を象徴し、後方にある社の門になる。社の周囲が塀や堀で囲まれているわけではないが、この二つの柱の間を抜けて社に入る慣わしだった。
(社が見えてきた)
少女は少年を振り返った笑顔でそれを伝えた。
「あっ」
少女が唐突に立ち止まったため、ぶつかりかけた少年が小さな悲鳴を上げた。少年は振り返った彼女の視線の先を眺めて、彼女が見つけたものに微笑んだ。
柔らかな斜面の先に麓の集落の人々の姿が見える。その表情まで判じることは出来ないが、人々が畑で鍬をふるい、川辺で収穫したばかりの農作物を洗う。人々がこの世界と一帯の風景になって違和感が無い。二人を慈しんでくれる人々と自然だった。この世界の万物の調和が愛おしいという思いが、心の底から湧き上がってきて、二人は顔を見合わせて微笑んだ。木々や土の香りで二人の髪がなびいていて、二人の姿もこの世界に染まっている。
再び、二人は新たな旅に出る。その前に、この優しい世界を心に刻んでおきたかった。少女は自分の名前に思いを馳せた。名前をカグヤと言う。人の心をくつろがせて癒やし、人々を柔らかく包む夜の闇を意味する。彼女はそう名付けられた時から、この世でそう言う役割を背負い、人々は彼女にその責任を果たすことを期待している。少年は名をショウジといった。そっと体に優しく浸み入るように、心深く照らして癒やす光を意味する。仲良く手を繋いだ闇と光を象徴する少女と少年は、二人で一対の関係にある。
斜面に沿って視界を転じてゆくと、都と反対側の空は濃い雨雲にさえぎられるように見通しが利かない。二人は不安そうに見つめ合い、互いの心を支えて手を握りあった。
(この辺りまで)
二人は声をそろえて嘆くように、そう思った。この世界をぐるりと巡ってゆくと、人々が住む都のちょうど裏側にアシカタの野がある。人々が崇める聖域で、スエラギ様と呼ばれる造物主の意識と接することが出来る。神という表現は適当ではないだろう。人々がその存在に向けるものは信仰というより敬愛だった。また、その存在自体、人を裁き導くものではない。人々を受け入れ慈しむ、この世界、この星の意識そのもの。むろん、スエラギ様は耳に響く声も、目に見える姿も持たない。ただ、その意識がカグヤとショウジを通して、この世界の人々に語りかける。スエラギ様が放つ真理の輝きの中で、慈愛に満ちた雰囲気と一体になった意思が、二人の心を満たすように響く。この二人は人々からミコトバ様と呼ばれる。スエラギ様の意思を人々に伝えるのが、二人がこの世界で担っている責務だった。
しかし、二人が常に感じることが出来たスエラギ様の気配が途絶えて久しい。二人はきゅんと締め付けられたような心苦しさに胸を押さえた。スエラギ様の意思が絶えたのは、この二人の仕業と言ってよかった。アシカタの野の上空に浮かぶ蓬莱島から、流れ込む瘴気が聖域を侵した。しかし、従来からその周囲を厚く囲むウナサカの森が瘴気を浄化して、スエラギ様を侵す事も人々の生活を脅かすことも無かった。
ただ、ある時から急速に濃度を増した瘴気から、スエラギ様を守らねばならなくなった。カグヤとショウジはスエラギ様の意思を受けて、流れ込む瘴気の濃度が薄れるまで、アシカタの野の中央の神殿にスエラギ様の意識を隔離したのである。
悲劇は、瘴気の濃度の増加が一時的なものではなかったということだった。流れ込む瘴気は濃度と勢いを増し、浄化されるどころか、森の木々を枯らした。今や瘴気はアシカタの野に溢れて、その中央のスエラギ様の神殿を厚く濃く包んでいた。
鳥や獣の声に溢れ、豊かな命をはぐくんでいたアシカタの野だが、今は、腐臭を放つほど重く淀んだ瘴気に支配されて、森の生き物の姿も心も、醜く変じてるという。そして、事態を確認しようにも、今は邪悪な瘴気に阻まれてスエラギ様のもとにたどり着くことは出来ない。
今、二人が居る御矢樹山は、この人が住む領域でスエラギ様の聖域を象徴し、スエラギ様と蓬莱島に関わる神事を行う場所の一つだった。
「さあっ」
どちらが先に声をかけたのかは分からない。ただ、二人から微笑が消えて、きゅっと結ばれた口元に、新たな旅の決意がうかがえる。
カグヤは社の扉を重々しく開いてショウジを引き入れた。やや奥行きのある建物の突き当りが御幣で仕切られていて、こじんまりとした祭殿になる。白木の床と壁は清楚に磨き上げられて心地よい木の香りを放っていた。この社の中で唯一、装飾品じみて変化があるとすれば、祭殿中央の萱で編んだ輪だけか。社に溢れる精気で萱は新鮮な緑色を保っており、直径が一メートルばかりの輪である。カグヤやショウジならするりと潜り抜けられるだろう。この緑の輪は、聖域アシカタの野を巡るウナサカの樹海を象徴している。二人は手をつないで萱の輪に向き合った。
『蓬莱島のカグヤとショウジ』
カグヤは萱で編んだ輪の向こう側に呼びかけるように、別の世界の自分の名を口にした。この世界が滅びかかっているという自覚があり、カグヤが呼びかける声は、力強いが自分達の無力感を感じる余韻を持っている。今や慈愛を持って人々を導いたスエラギ様の気配が絶え、スエラギ様に頼ることも出来ずに、ただ、遙か彼方の分身に救いを求めて声を上げるしかない。