吉祥との出会い
三日後の早朝、再び照司が騒動を起こした。この日、香久夜は外の廊下を行き交う巫女たちの足音に目覚めた。何事かと、そっと障子を開けて窺うと、そこにイセポの顔があった。彼女は意外なものでも見るように、驚いた声を上げた。
「カグヤさまは、ここにおるっ」
当たり前だ。香久夜は目を覚ましたばかりで、昨夜からこの部屋にいる。イセポの話によれば、いつも早起きで、起きれば縁側で庭を機嫌良く眺めているショウジが、今日は姿を見せなかったらしい。ショウジの健康を気遣った巫女の一人が部屋の中を確認してみると、ショウジの姿はない。布団はショウジの体温が抜け去って、よほど以前に部屋を出たことがうかがい知れた。てっきり、カグヤが連れだしたのかと考えたのだが、その常習犯はちゃんと自分の部屋にいた。
「ふぅん、あの子が?」
香久夜は考え込むように呟いた。照司が誰かに頼らず行動を起こしたことは初めてだった。姉として戸惑いもあるが、好ましい兆候かも知れない。館の外でも、人々は優しく親切で、照司が困ることはないはずだ。香久夜自身の経験で、そう断言できる。イセポとマツリが不安を訴えた。
「そうやねん。気ぃついたら、ショウジさまがおれへんねん」
「わたしら、メッチャ心配やわ」
最近は、巫女たちまでカグヤの口振りを真似る。スセリがため息を付くように二人を睨んだ。旅から帰ってきたカグヤが、随分と荒っぽい言葉を覚えてきて、スセリは自分がカグヤの躾を誤ったのかと心を痛めている。香久夜は月香殿の巫女達に心配するなと声を掛けた。
「大丈夫や。あの子、あんまり遠くへは行けへんから」
姉として弟の性格は知っている。ただ、外出も告げずに姿を消すと言うことが、館の中にこれほど大きな混乱を引き起こすのかとも驚いてもいた。
(こんなに心配をかけて)
照司が帰ってきたら、姉としてきつく叱ってやらなくてはならないだろう。
一方、照司が一人で外出しようと考えたのは、姉のように大人を信用していないからではない。周りの人々に気遣ったつもりだった。
照司が外出すると、身の回りの世話をする巫女が六人、警護の衛士が八人、照司の存在を示す旗持ち、牛車を操る御者や、荷物を運搬する人足を加えれば、総勢三十名を越える。乳母のスセリが不安を感じて、自分も同行すると主張すれば、スセリの身辺の人々までが加わって、五十名や百名に達するだろう。照司はこういうお供を連れることに慣れていない。
自分の意志で目的地を決めるのは初めてだが、人々が温かく不安がない。腰に下げた小さな袋に、蜂蜜付けの小梅と焼き栗が少し入っていて、外出中の食料の不安もない。三日前から今日の外出に合わせて、食事の時に出される蜂蜜付けの小梅や焼き栗を貯め込んでいた。
外出したい。
外出の時の食事が必要だ。
小梅や焼き栗は持ち歩けるし保存が利く。
そういう順番の思考経路だった。照司本人は気付いていないが、この世界の人々と接しているうちに、自分で物事を判断する習慣を身につけ始めているらしい。ただ、外出したいという意志を、食事の不安に直結させて考えるのは、元の世界でお腹を空かせていた影響を残している。
しかし、照司は満腹そうにお腹を撫でて立ち上がり、家の中に向かってぺこんとお辞儀をした。お餅を食べさせて貰ったお礼だった。照司は食事の心配をする必要はなかった。物音に惹かれて一軒の家で立ち止まると、楽しげに餅つきをする光景に出会った。家人がこの幼い神官に気付いて、献上するように丸めた餅の一つをくれた。ただ、照司を特別扱いする様子はなく、家人も照司と同じものを食べている。その親切のさりげなさが、照司には心地よい。
ぱたーん。こんっ。こん。
その音に記憶があった。照司は大きく開いた入り口から中をのぞき込み、自分の推測が正しかったことに満足してにこりと微笑んだ。女の人は照司に気付いて軽い会釈をしたが、機織りの手は動かしたままだ。
スエラギ様の言葉を人々に伝え治めるのがカグヤとショウジの責務だが、人々を畏怖せしめる存在ではないようだ。突然に、町に姿を表した照司だが、人々は生活の中に自然に受け入れていた。
照司は響いてきた歌に気を引かれたが、酷いだみ声で、歌詞の意味が良く分からない。
「竹さ編んで、銭こさ稼ぐ、かかあの為に、いっぱい稼ぐ」
注意深く耳を澄ませて、聞き取ってみると、そう言う意味だ。浮ついた理想社会ではなく、生活のためにお金を稼ぐという言葉が、現実的で面白いような気がする。筵の上であぐらをかいたおじさんが、その歌声をあげている人物だった。くるくる竹を丸めて籠を編んでいる。照司に向けた顔は厳ついが、笑顔は優しく、顔に似合わず器用な手つきは見ていて飽きない。
よそ見をしていた照司がぶつかりかけた女性は、頭の上に束ねた柴を乗せている。
「柴、いらんかぇー」
邪険にする様子はないが、女性はするりと身をかわして、よく通る声を町中に響かせた。柴を売り歩いているようだ。もしも、照司に言葉や生活を論じる能力があれば、この世界は様々な地域や時代の文化が入り交じって、学問的に論じることが出来ない事が分かるだろう。もちろん、照司にはどうでも良い。照司を取り巻く人々は、彼を自然に受け入れて、彼はこの調和の一部だった。
時々、照司が立ち止まって考え込んでしまうのは、目的地を自分で決めると言うことが初めてだから。直感的に興味が湧きそうなものを見つけて、それを目的地にして移動するということを繰り返して、町の端まで来た。ここまで来ると、自分が何のために歩き回っているのかと言うことを自問自答せざるを得ない。
この世界の人々は穏やかで、時には、山賊さえ間が抜けていて純朴で優しい。一方、この世界は滅ぶほどの深刻な危機を抱えているはずだ。人々を救う手助けがしたい。照司は、その方法を知るために歩いていたのだと言うことを、じっと突っ立って、思い起こすように考えた。
もちろん、照司はその答えを見つけることが出来ないし、とっくに町を通り過ぎてしまっていた。傍らの石に腰掛けたり、草むらに寝転がって空を見上げてくつろげばいいのだが、照司はたらりと両手を垂らしたまま立ちつくすように静止した。
「どうしたらええのん」
今は、どうしたらいいか教えてくれる人はいないし、弥緑社を振り返ってみたが、まだ、外出の目的を果たせずにいるから、帰る気にはなれない。照司は突然に驚いて片足を上げた。足下に小さな黄色い花を付けた草花があり、よく見るとしおれかけているだけではなく、葉の先が茶色く変わって枯れかけていた。照司はそんな様子に、自分が気付かず踏んづけてしまったのではないかと恐れたのだった。しかし、照司の足下以外の周囲に同様な無数の草花があり、弱った体力を振り絞るように、健気に小さな花を咲かせていた。照司は状況を察した。見渡しても目には見えず、照司の五感には感じられないが、聖域からあふれ出す瘴気は、生き物たちにこんな影響を与え始めていた。
「どうしたらええのん?」
照司はそう繰り返して天を仰いだが、次の瞬間に一転して感動の声をあげた。
「あれっ?」
彼の感情は表情には現れていないが、子供らしい心の躍動感を取り戻し始めていた。
「わぁ、綺麗な蛇」
照司が蛇と呼んだ龍の吉祥が、弥緑社の屋根の高さほどの空をひょろひょろ飛んでいた。蛇が空を飛ぶというのは初めて見る光景だが、いろいろと不思議なことのある世界だから、こんなこともあるのかもしれない。蛇の細長い姿に薄気味悪さを感じないのは、蛇がゆったりと体をうねらせる度に、白銀の鱗に陽の光を反射してピカピカ光って照司の好奇心をそそるから。