脱出のお仕置き
明くる朝、目覚めた香久夜には、密かに村娘の衣装を調達する手順が心の中に用意されていた。そう言う夢を見たのか、眠っているときに誰かに指示されたのかどちらかだが、香久夜にはどちらにも興味がない。香久夜にとって、弥禄社から抜け出して町をぶらついて情報収集をはかるためには、目立たない衣装が便利に違いない。そういう準備をする臆病な慎重さを、香久夜は元の世界で身につけていた。
彼女は心に刻まれた手順に変更を加えた。弥禄社に参拝に来た人物に庶民が着る衣類を頼むのは同じ。ただ、香久夜は中年女性ではなく、香久夜と同じ年頃の少女をターゲットに選んだ。詮索好きな人物より、素直に頼めば共感してくれる人物が良い。そして、衣類を2枚重ねて参拝に来てもらって、香久夜が所持する装飾品の一つと交換に、一着を残して帰ってもらう。そうすれば、この少女が参拝に不要な荷物を持ち込んだという不信感を避けることもできるに違いない。
【なるほど。上手い手だわ】
香久夜の賢さを賞賛する声が頭に響いた。香久夜をイラっとさせたが、無視することにした。
こうして、香久夜は一般庶民の衣類を手に入れることに成功し、あとは決行の機会をうかがうのみだった。順調に進む計画を誰かに自慢したくなるのだが、そんな相手は照司だけだった。この時、香久夜は照司が傍らに居ないと言う当然のことを自覚した。今まで香久夜のそばをつかず離れずにいた照司は、最近は巫女たちの傍らにいる。
今も、サヨリとイセポに寄り添って廊下を歩く照司の姿が遠く見えた。もちろん、巫女たちもそれぞれに仕事があり、照司の遊び相手のみを務め続けるわけにはゆかない。遊びを拒絶されると、別の相手を求める。そんな形で、彼は巫女たちの傍らにいる。弟のやや卑屈さとしつこさを感じさせる侍り方に、巫女はともかく香久夜は眉を顰めた。
「でも、まぁ、しゃあないか」
香久夜は、ため息とともに照司の姿をそう評した。人に甘えるという経験が少なく、どうしたら遊んでもらえるのか、戸惑いのみ多いのだろう。
脱出決行の早朝、香久夜は注意深く辺りを見回して、耳を澄ませ、辺りに人の気配がないことを確認した。彼女は軽く飛び跳ねて、生け垣を越えた。よく考えてみれば、香久夜はこの世界で腕力やジャンプ力を身につけていて、古い記憶に頼って生け垣の切れ目から抜け出す必要などなかった。ただ、他の人に心配をかけてはいけないという意識が湧いて、香久夜はこの力を弥緑社の人々には伏せたままでいる。
(わぁ。忍者みたいや)
香久夜は嬉しくなった。こういう能力を身につけているのは気分がいい。自分の運命を自分で決める事が出来ると言うことだ。巫女たちから伝え聞く状況ではなく、自分の目で都の人々の様子を見ておきたかった。こういう行動をする辺り、香久夜はまだ大人を信用しきっていない。彼女は館に残してゆく照司のこともちゃんと考えている。月香殿の人々は照司を過保護といえるほど大切に扱ってくれているから不安はない。香久夜の人々への信用と不安。今は半々といったところだろうか。
香久夜はその照司には黙って来た。照司に話せば、誰かが香久夜の行く先を問うた時、姉の脱走を話してしまうに違いない。口が軽いのではなく、あの子は嘘がつけない良い子なのだと考えていた。香久夜は町の中へと駆けだした。
この世界の人々は愛想が良く接してくれて気持ちがいい。道を歩く香久夜とすれ違う人々が、明るく挨拶を交わして行く。町を見渡す香久夜に、この世界の基準は良く分からない。香久夜が居た世界に当てはめると、平安時代か、それよりもっと昔の文化水準かもしれない。街路は賑やかで、鍛冶屋の賑やかな槌音が耳についた。覗いてみると鍬や鍋の修理をしている。さすがにコンビニは無いが、人々は街路沿いにずらりと露店を開いていて、物売りの声が朗らかに響いている。一人の露天商が笑顔で香久夜に団子を差し出した。
気持ちはありがたい。ただ、彼女は着替えの衣類を手に入れた甲斐がなかった。ちゃんと町娘の衣装を身につけているのに、町の人々は、香久夜の正体をちゃんと見抜いていた。この露天商も彼女の正体に気付いて、売り物を彼女に献上してくれたらしい。人々の明るくのんびりした様子は、ここがよく治められた社会だと言うことだ。
(でも……)
香久夜は月香殿を離れたこの場所でも思った。自分が何者なのかと言うこと。彼女は元の世界の記憶を持っている。母親に殴られた時の痛みははっきり覚えているし、照司が父親に蹴りつけられるときの恐怖感や無力感もハッキリ思い出せる。不安や恐怖に満ちた家の中だけではなく、周囲の大人から汚いものや嫌なものを見るような視線を浴びる時の孤立感など、嫌な想い出は尽きない。
しかし同時に、香久夜も照司もこの世界の習慣を身につけていて、月香殿での生活や優しい人々の記憶もある。
(どっちが、本物の私なんやろ)
ひょっとしたら、いつか目が覚めて、こちらの世界が夢だったと気づかされるのだろうかと不安が湧く。香久夜は首を勢いよく横に振って思った。
(絶対に、嫌や)
ただ、元の世界の記憶を否定しきれない。否定してしまえば、家族という概念がないこの世界で、照司との関係が途絶えてしまうような気がするから。香久夜の思考は誰かの咳に中断された。香久夜の傍らを通りかかった老婆が、咳き込んで道ばたにうずくまっていた。老婆を介抱し、その背中を撫でつつ香久夜は空を振り仰いで思った。空にはまだ透明感があり、香久夜の周囲に異臭は感じられないが、すがすがしい朝の景色にどろりと濁る気配が混じっていて、ウナサカの森から漏れ出す障気はこの都にもうっすら漂い始め、力のない人々は冒されつつある。
【早く行かなければ】
心の中の声が香久夜をせき立てた。
同じ頃、月香館では曙の巫女スセリがカグヤを捜して館をさまよっていた。昼の祭祀の時間に香久夜が姿を見せない。彼女は何かを見つけて疑問の声を上げた。
「イセポ、それは何?」
何かと聞かなくても、はっきり見えている。イセポが捧げ持つ三方に乗っているのは、焼き栗や、干し芋やら、干菓子の類だった。イセポ自身が返答に困って首をかしげた。
「よく分からない」と言う。
先日、カグヤの部屋を掃除していたら、棚の隅にこういうものが隠すように蓄えてあるのを見つけた。カグヤが彼女達に内緒でやっていることらしく、カグヤ本人に理由を尋ねにくい。しかし、カグヤが食べるかもしれないものが古くなると言うことも看過出来ず、香久夜には内緒で、時々、新しいものに差し替えている。
「しまった」と、月香殿に駆け戻る香久夜は、背中に冷や汗を感じながらつぶやいた。
彼女を暖かく受け入れる町の人々が心地よく、長居をしすぎた。気付いてみると太陽は既に中天に近く、月香殿を抜け出したことがばれているばかりではなく、巫女としての職務をサボったことにスセリの小言を聞かされるに違いない。祭殿の床をぴかぴかになるまで磨き上げるなどは、香久夜にとって避けたいお仕置きだった。
人気を避けてぐるりと神殿の周囲を巡って、中の物音に聞き耳を立て、軽く飛び跳ねて生け垣を越えた。辺りをうかがって、物音を立てないように、つま先や膝のクッションを充分に利かせて、そっと音を立てないように飛び降り、あとは自分の部屋に向けて一気に中庭を突っ切った。香久夜は姿を見られないよう充分に配慮したつもりだ。
障子をやや持ち上げ加減にずらすと音をさせずに開けることが出来る。香久夜は気配を消しつつそっと部屋に舞い戻った。衣類を着替えねばならない。しかし、その前に確認しておきたいことがある。
棚の隅、蓄えてあったものはちゃんとある。香久夜は胸を撫で下ろした。几帳面に清掃してくれるイセポや勘のよいサギリに見つけられてしまうのではと心配している。この保存食があれば、香久夜と照司は数日は食いつなぐことが出来るだろう。気まぐれな大人たちが彼女に飽きて、捨てられたときのための非常用食料だった。香久夜はまだ他人を信用していない。
(それにしても)と、香久夜は首を傾げた。
この世界の食べ物は、長く保存しても、ちっとも色艶が変わらず日持ちが良い。
「カグヤ様」
このとき、障子を開けて入ってきたのは曙の巫女、厳しい教師としてのスセリだった。祭祀をサボった香久夜への怒りを露わにしている。この館で人目を避けて出入りをするとなれば、そのルートは限られている。そのルートに網を張って、香久夜を他に逃げ場のない場所で捕らえたということだった。
「手に心がこもっておりませんよ」
香久夜はスセリの口調ばかりではなく、冷静沈着な目つきまで真似た。祭祀をサボったお仕置きに、宝物庫の奥の鏡やら、器やら、鈴やらを磨かされた。その様子を弟に語って聞かせているのだった。しかし、照司が聞きたがったのは、外の様子である。
(興味を持つのは、ええことやわ)
無感動で、この世にぽっかり明いた虚無の穴。以前はそんな雰囲気を漂わせた弟の変化を、香久夜は姉として好ましいと思った。香久夜は町の様子を細かく語って聞かせた。人々の様子を思い出すことが心地よい。
姉の話の最後に、照司はねだるように言った。
「ボクも、外に行ってみたいなぁ」
この弟が、生まれて初めて、自分の意志を口に現した。照司の立場で言えば、姉にお願いをしたのだが、姉はそんな照司のお願いにも変化にも気づいてくれた様子はない。とすれば、一人で行くしかないが、今まで誰かに従うのみで、自分の意志で行動したことがなかった。姉に対する小さな不満と、自分の無力さに対する腹立たしさが照司の心を乱した。その乱れは晴れないまま、心に重く沈殿した。




