幼い神官の最初の一日
この弥緑社で最初の一日が終わろうとしていた。西の空が夕焼けで赤く染まり、生け垣越しに見える町の空に、白く細く、煙が幾本も立ち上り始めているのは、人々が夕餉の支度を始めている兆しである。今日も人々にとって平穏な一日が過ぎた。
どんっ、どんっ、どんっ
ゆっくりと三回鳴らされる太鼓の音は、一日最後の仕事の合図だった。招青の儀と呼ばれている。香久夜も照司もこの社会の生活に馴染んだようで、心のままに神殿に向かった。早朝と同じく、新鮮な香りの菖蒲の葉の先を水に浸して振り回し、その細かな滴を浴びて身を清めて神殿に入った。二人はスエラギ様の依代たる白木の柱を背にして並んで神殿の中の人々を眺めた。
スセリが人々の間から進み出た。
(あっ)
香久夜は声を上げかけて、口元を押さえて思いとどまった。スセリの傍らにもう一人の巫女を見たような気がしたのである。遠い昔、確かにもう一人、曙の巫女スセリと並んで宵の巫女カヤミがおり、それぞれが照司と香久夜に相対した。今はスセリが一人で儀式を取り仕切っているのである。彼女は目を閉じたまま、香久夜と照司に向かって、二人の姿を通してスエラギ様に感謝の言葉を述べ始めた。
あまつちの、かみわざに、たがはしめず、
ひらげよに、おくれしめず
くさぐさの、わざわひなく、つづがなく、あらしめたまひ
よのまもりに、まもりめぐみ、さちわへたまへと
みそらはるかに、おろがみ、まつらくをもおす
スセリは香久夜にとって聞き慣れなれず意味も解らない呪文を三分ばかり唱え、うやうやしくカグヤとショウジの宝物を頭より上に掲げて、スエラギ様の精神に一礼するとこの儀式は終わりを告げた。人々が見守る中、香久夜と照司は宝物を捧げ持つサギリに先導されて渡り廊下を歩いた。拝殿西側の出入り口から、廊下を右に折れて北の突き当たりの宝物庫に向かう。香久夜と照司は宝物庫の手前でサギリに一礼して、この二人は一日の仕事から解放される。廊下を東に歩めば月香殿。二人はそこで入浴後に夕食を摂る。
食事の当番に当たるタマエとサギリは心配そうに言葉を交わしていた。
「カグヤ様もショウジ様も旅の疲れが抜けぬ様子」
「ほんに、今日一日、いつものお二人とはご様子が違いました」
「ご飯は少し柔らかめに。汁の塩気は淡く、食後は梅を浸した白湯に蜂蜜を。きっとそれでご気分が晴れましょう」
「そうしましょう」
カグヤとショウジの世話をする巫女たちは二人の変化を感じ取っていた。
香久夜と照司は昨夜と同じく、提供される物を黙々と食べた。巫女たちにとってショウジは元々無口で温和しい。しかし、カグヤに明るさが失せていて落ち着きがないようにも見えた。
食事の後、気分が晴れぬように言葉が途絶えている香久夜に、サギリが提案をした。
「手毬遊びなど致しましょうか」
食後の軽い運動を兼ねた遊びをしようというのである。サギリが手にする手鞠は、見た目は何かの芯に幾種類もの糸を巻いて、美しい模様を紡ぎ出した古風な鞠だが、サギリの手の中で柔らかく、彼女がついてみせるとよく跳ねる。ただし室内はわずかな灯明で照らされて居るのみで薄暗い。夜半に遊ぶとすれば、その場所はかがり火がたかれて明るい月香殿の玄関先になる。
タマエが手鞠歌を歌いながら手鞠をつき始めた。
「空に小鳥が舞うように、私の手鞠は良く跳ねて、跳ねた手鞠は何処へやら」
跳ねた鞠を受け取ったサギリが、鞠をつきながら歌い継ぐ。
「ひとつ、ふたつ、みっつ、今日の私は鞠のよう。跳ねて機織りいたします。一反、二反、三反と」
鞠をつきながら、今日の出来事を数で歌詞に織り込む遊びらしい。
「ちょっと待ちいな」
香久夜は鞠つきをやめさせた。タマエやサギリが口ずさみかけた手鞠歌より、月香殿の軒先に吊された2つの茅の輪に好奇心を引かれたのである。緑の茅の輪はこの世界を意味し、二つ並んだ輪はカグヤとショウジの二人の住人を示す印だった。この時の香久夜は象徴としての輪ではなく、手頃な高さと大きさの輪として注目をした。上手く鞠を投げれば、あの輪を通過させることができるだろう。
「ええか、私がこの毬をあの輪を通すから、あんた等はブロックするんやで」
「ぶろっくとは、何でございますか?」
「要するに、私の邪魔をすんねん。手鞠が輪を通ったら、私の勝ち。輪から外れたら、あんたらの勝ちや」
「面白そうでございますね」
好奇心をあらわにしたタマエとサギリが、香久夜の提案に乗ってきた。香久夜はサギリから鞠を受け取って、二人をその位置にとどまらせ、香久夜自身は茅の輪から二十メートルばかり離れた位置に移動し、つま先で一人分の大きさの円をスタートラインに描いた。
「さぁ、始めるで。ちゃんとブロックしいや」
二人に見事なドリブルを見せながら傍らをすり抜けて手鞠をシュートして見せた。鞠は見事に輪を通過した。タマエとサギリは拍手で香久夜を称えた。香久夜は鞠をイセポに渡して言った。
「さあ、交替やで。今度はあんたがやってみ」
サギリは鞠を抱えて、先ほどの香久夜がスタートした円の位置に立った。
「始めますぅ」
そんな声を合図にサギリが駆け始めた。
「ちゃう、ちゃう。止まって」
香久夜は走り始めたサギリを制止させた。サギリは鞠を大事に胸の前で抱えて走ったのである。香久夜は理由を説明した。
「ちゃうねん。走るときは、ドリブルせなあかんねん」
「どりぶるでございますか?」
首をかしげるタマエに香久夜は手本を見せた。
「ほらっ、鞠をつきながら走るねんで」
「鞠をつきながら? こんな感じでございますか?」
「そうや。上手いやん」
香久夜が褒め、タマエは動きやすいように袴の裾をからげ、サギリはタスキをして袖口から腕を露出させた。二人はもうこの新しい遊びに本気だった。しかも、香久夜の予想に反して二人の動きはいい。鞠突きに関しては香久夜より遙かに経験が長く、手鞠の扱いに長けている。
弥緑社の単調な生活の中で、巫女たちもこの刺激的な遊びが気に入ったらしい。歓声に釣られてサヨリとイセポが姿を見せて遊びに加わった。
「なるほど、面白い物でございますな」
笑顔でそういったのはムタケルだった。いつになく賑やかな月香殿に、なにやら不審な様子を嗅ぎ取ったのかやってきて、そのまま遊びに加わった。
「ムタケル様、ふぇいんとが肝要でございます」
タマエが鞠を奪おうとするムタケルをするりと交わして、彼の動きの単純さを笑った。
「いやさっ」
そんなかけ声と共に、ムタケルは腕をなぎ払うように、ドリブルするタマエから手鞠を奪った。
「これを、どりぶるすればよいのですな」
ムタケルが香久夜が教えたルールを思い出して呟いた時に、月香殿につながる回廊から声が響いて、香久夜は首をすくめた。
「貴女たちは、何をしているか分かっているの?」
腹によく響くスセリの声である。そう言われると心当たりがある。本来静かで荘厳な雰囲気を保つべき弥緑社で人をはばからず騒いだだけではない。手鞠を通している茅の輪は神聖な物で、軽々しく遊びに使う物ではない。
香久夜はムタケルに同情した。彼は遊びに興じていた巫女たちの中で手鞠を持ったまま立ちつくしていた。
「ムタケル殿……。後ほど、話がございます」
スセリは感情を込めずにそう言った。次に香久夜を眺めて、やや怒りを込めて命じた。
「カグヤ様、一緒においでなさいませ」
カグヤは逆らうこともできず、スセリに襟首をつかまれるように引き立てられていった。二人が向かったのは湯殿の方向で、スセリはカグヤをもう一度風呂に入れて汗を流させるつもりだろう。巫女たちは叱られることもなく終わったようだ。
「ああよかった」
タマエがカグヤとスセリの後ろ姿を眺めて、ほっとため息をつくようにそう言った。ムタケルは眉をひそめ、未だ手にしたままの鞠を眺めて言った。
「何が良いものか、儂はスセリ殿のお小言をちょうだいせねばならぬのに」
「いいえ、違うのです。帰って来たカグヤ様が、いつもと違って別人のように元気のない様子。心配していたのです」
サギリが言葉を継いだ。
「でも、新しい遊びに興じたカグヤ様は、いつもと同じ元気なカグヤ様」
「なるほど」
ムタケルもまた納得した。言われてみれば、連れ帰ってきたカグヤ様の様子に落ち着きが無く、警戒心を露わに周囲をうかがう様子があった。やはり、あれはカグヤ様が旅で神経が高ぶっていたせいか。緊張が解ければいつものカグヤ様だと考えたのである。
香久夜と照司の弥緑社の最初の一日が無事に過ぎた。今までにない環境は、香久夜と照司を戸惑わせた。優しくされることに戸惑い、自分がこの世界で役割を持っていることに戸惑い、自分が人々の役に立っていることに戸惑う。なにより、自分たち二人はこの世界のカグヤとショウジではない。
言い訳をするように香久夜は照司に呟いた。
「私らが騙してるんとちゃうで、勘違いしてる方が悪いんや」
そんな香久夜の思いを打ち消すように、心に声が響いた。
【違うわよ! 私は貴女。だから、これで良いのよ】
私は貴女。そんな言葉の意味が香久夜にはよく分からない。