招緑の儀
招緑の儀。参拝者を前に祝福を与えると同時に、この世界に生きる全ての命の安寧を祈る。二人は何かに導かれ、操られるように体の動きに身を任せて舞った。照司が小太刀を抜いて左右に振って人々に降りかかる邪を切り払った。香久夜は右手の鈴を高く掲げて人々に降りかかる邪を清めた。香久夜は何故か、元はこの鈴ではなく、スエラギ様の精神を象徴する清らかに輝く剣を振っていたことを思い出した。
(ホンマ、アホみたいな儀式やんか)
分厚く難解な教典があるわけでもなく、複雑な手順があるわけでもなく、人々を縛る細かなルールはない。香久夜が考える宗教に比べれば、なんと質素で単純なことか。
しかし、鋭い怒りが湧いて、その簡素さを笑う香久夜の頬を彼女の左手がつねった。どこかで彼女を操っているこの世界のカグヤの仕業だと見当がついた。
【質素だからこそ、一切の邪心のない真心で執り行うのよ】
そんな声が聞こえて、初めて儀式に臨むという不安や戸惑いがぬぐい去られるのだが、声の主は姿を見せない。
招緑の儀が終わると、この弥緑社でスエラギ様の精神の依代となる白木の柱を磨き上げるのが、香久夜と照司の仕事だった。この二人以外の人物がご神体に触れるのは恐れ多いということらしい。ご神体を拭くために香久夜と照司に渡されたのはハンカチほどの大きさの柔らかな木綿の布だった。この布で表面をなでるように拭き清める。香久夜はまじまじと木肌を眺めた。表面がつるりと光沢があり、よほど長い年月にわたって大切に磨き上げられたようだった。ご神体は香久夜と照司が向かい合わせになって手を回すと、互いの指先が触れる太さがあり、香久夜の背の高さの倍の高さはがある。
「単純なもんやな、ただの丸太やんか」
香久夜は神体の向こうで姿の見えない弟に語りかけた。何かの幾何学模様が刻んであるわけでもなく、教典の文字が書かれているわけでもない、ご神体の無垢な白木の肌を評したのである。直後、神体の向こう側から照司がちらりと顔をのぞかせて、黙って何かを注意するように眉をひそめた。香久夜は理解した。ご神体に息がかかるのは構わないが、唾が飛ぶのは厳禁だった。この作業をする間、おしゃべりをしてはいけない。照司がそう言う決まりを知っているということで、香久夜は照司もまたこの世界のショウジに操られているのだと確信した。
ご神体を拭き終わって、布を回収に来たタマエが捧げ持つ三方に乗せると、二人の仕事は終わり。香久夜は大切そうに布を捧げ持つタマエの後ろ姿を見送った。ご神体に触れた布で、巫女たちは神具を磨く。スエラギ様の意識が感じられた頃ならともかく、今は本来の意味を失って習慣として行われているに過ぎない。
本殿の外に出て空を見上げれば、太陽は既に中天にある。香久夜は空腹には慣れているが、その空腹も感じてはいない。人々もまた勤勉に働きづけていて昼食を摂る様子がない。そういう習慣なのだろうと香久夜は思った。
弥緑社の西の建物は作業場である。本殿に次ぐ大きさがある。照司が興味を持ったのか、この世界のショウジが招き入れたものか、香久夜は弟に手を引かれるように作業場に入ってみた。糸を紡ぐ者、機を織る者、古くなった神具の修繕をする者など、この弥緑社をささえる様々な人々と作業だった。人々の息づかいと作業の物音が賑やかに明るくあふれていた。二人の姿を見つけた人々も会釈したのみで、作業の手を休めることがない。
器用に作業を進める動作は、好奇心を誘って見ていて飽きない。何より邪魔者扱いされることがない。その場にいるというだけで人々の一員として溶け込む雰囲気が心地よい。
しかし、香久夜の心の底に、作業場の北にある宝物庫の近くの生け垣に番人の居ない小さな勝手口があるという記憶が湧いてきた。あそこからなら見つからずに外出できるかもしれない。夕刻の招青の儀まで二人の弥緑社でのお勤めはない。そっと外出して、夕方のお勤めに間に合うよう戻れば良いだけである。香久夜は照司の手を引いて作業場を抜け出した。
回廊に人の気配が絶える瞬間をねらって注意深く移動して、香久夜は照司と共に目的の場所に到達した。香久夜の想像通り、勝手口に番人はおらず、あとはそっと抜け出すだけである。
「カグヤ様。お暇ならお手伝いいただいても良いですか」
背後から突然に声が響いて、香久夜を驚かせた。振り返ると籠を手にしたマツリが居た。香久夜の行為に意図を察していたのかどうか、彼女ののほほんとした笑顔から読み取ることはできない。香久夜は出かけるから忙しいとは言えず、マツリの申し出を受けた。
「タマエたちが夕食の野菜の買い出しに行ったのですが」
マツリは笑顔でそう言った。普段は一緒にこの作業をする同僚が、まだ町から帰ってこない。それが最高神官の二人に籠を運ばせる理由であるらしかった。ただ、上位の身分の者をこき使うことを気にする様子もない。香久夜も文句を言う気にはなれなかった。昨日、この世界に来るまで、自分と照司のことなど気にかける者など一人もいないと心を閉ざしていた。しかし、ここではどうだろう。外出しようとする度に注意を受けるのは迷惑だが、香久夜が気づかないほど自然に見守られているというのは心地よい。
香久夜が下げる籠には干菓子、照司の籠には干し芋に干し柿、マツリは塩漬けの桜の葉で香りをつけた蜂蜜入りの飲料水の水瓶を抱えていた。人々が朝食と夕食の合間の休憩に摂る軽食のメニューの一つ。気がついてみれば、香久夜も照司も軽食を摂る巫女たちの輪の中にいた。
(なんで、私はこんなこと、してるのん?)
香久夜は心の中でそう呟いた。元の世界でなら、彼女は人と交わろうとはしなかったろう。この世界は彼女を素直にさせる。傍らを見ると、照司は表情こそ固いものの、その目には周囲に対する好奇心がにじみ出していた。
太鼓の音を合図に、巫女たちは囓りかけの干菓子を口に押し込み、飲料水で喉に流し込んでから、作業場の片隅の手桶に向かった。休憩は終わって再び元の作業に就く。その前に聖水に浸した菖蒲の葉でその飛沫を浴びて身を清める。マツリは香久夜と照司に声をかけようとして思いとどまった。香久夜は機を織るサヨリの手つきを興味深く見守っていて、照司がその香久夜を見守るように寄り添っていた。いつの間にか、香久夜はサヨリに代わって機の前に座り込み、サヨリの手ほどきを受けながら機を織っていた。照司は香久夜とサヨリのやりとりを見守るように聞いていた。姉と弟はそうやって、夕刻までの時を過ごした。