弥緑社(やろくやしろ)の朝
障子の向こうから、朝の気配が太鼓の音とともに鳴り響いて、香久夜の目を覚まさせた。
【開門の太鼓】
香久夜はそう言う声を聞いたような気がして、太鼓の意味を理解した。昨日、香久夜と照司の乗せた牛車がくぐった壮麗な大門を解放する合図だった。門とはいえ、人の行き来を制限する物は、大人が一人で運べるほどの柵に過ぎない。その柵を門から取り払って参拝者を迎え入れると言うことだ。
香久夜は何故か、彼女たちの起床時間がもう少し後だと言うことを知っていた。しかし、彼女は多少の好奇心が混じった不安で目が冴えて眠れず、ぬくぬくと暖かい寝床を離れた。隣の部屋との境の襖をそっと開けてみた。
照司がすやすやと心地よく眠っている。唯一の肉親がちゃんと側にいるという安心感が湧いたが、安らかな表情を見ると弟を起こす気にはなれず、香久夜はそっと襖を閉じた。
廊下に面する障子を開けて外を眺めてみると、昨夜から見覚えのある館の中である。今この瞬間に、この世界にいることは確かで、夢かどうかは考えなくても良い。大人の気分や態度はうつろいやすいものだが、香久夜たちに接する人々の態度は、昨日と変わらず優しいだろうという意識も湧いた。香久夜は足音を忍ばせたまま縁側から庭先に降りた。素足に白い玉砂利の冷たく滑らかな感触を感じながら、小さな池の畔で深呼吸してみた。
ややあって、香久夜は首を傾げて弟にも確認しておきたいことができた。彼女は弟の部屋の障子を開けて、声をかけて手招きをした。
「照司、照司。ちょっと庭に出といで」
照司はぐずることもなく目覚めて、素直に姉の指示に従った。そして、未だ慣れない、しかし、どこか懐かしい雰囲気のある景色を眺め回した。
「なあ、照司。ちょっと飛び跳ねてみ。マジで」
香久夜が何かを確かめるようにそんな指示をした。
「こう?」
試しに跳ねた照司は、目を見開いて驚いた。縄跳びをする程度のつもりだが、視界は月香殿の軒先ほどの高さに達した。
「ほらっ、すごいやろ」
香久夜は弟の跳躍を評して、自分も試しに飛び跳ねて見せた。その高さは館を取り囲む生け垣を軽々と飛び越えることが出来るだろう。
「それにな、ほらっ」
香久夜は手近な岩を持ち上げて、照司にそっとほうり投げて見せた。岩はサッカーボールほどの大きさがある。照司はびっくりしながらも、その岩を受け止めた。照司は受け止めた岩をしげしげと眺めていたが、やがて、軽々扱って、頭より高く持ち上げたり、少し放り上げて受け止めてみたりした。
手の平にはちゃんと岩の質感と表面の苔の生命観が感じられ、地面に落とした岩は、重みがあって地面を凹ませた。決して、軽石や張りぼての岩ではない。香久夜は痩せた細い腕で弟を支えて抱き上げた。何故か、姉弟は信じられないほど強靱な体力を身につけている。
「お姉ちゃん、すごい」
「これ、異世界に転生したら無双って、ライトノベルにありがちなパターンやんか」
香久夜は胸を張って威張りながら、山賊を蹴散らしたことを思い出した。これだけの腕力があれば、あの男たちを蹴散らしたのは当然だった。その発見と同時に、朧気な意志がずっと心の底にわだかまって香久夜にささやきかける。
【この力は、……成し遂げるためにある。貴女はそのためにここに居る】と。
この時に中庭にスセリの声が響いた。
「カグヤさま」
その声に滲む厳しさで、香久夜は朝食前に身を清め、世界の平安をスエラギ様に祈る役割を思い出した。頭の片隅に浮かんだ記憶が、日々の習慣として体に広がった。香久夜は、はるか昔からこの月香殿で過ごしていた経験を持っていた。一方、狭いアパートの部屋に充満したかび臭い香りと不安や恐怖の感情、そんな生活の記憶が浮かんで入り乱れた。香久夜は混乱した。
「カグヤさま」
繰り返されるスセリの声が、香久夜の混乱する記憶をこの世界の記憶で統一した。カグヤさま。その一言に込められた優しさと厳しさが、揺るぎのない信頼感を持っていた。香久夜は混乱から回復したものの、顔をしかめた。スセリの厳格さは信頼して良いが、さっさと役割を果たさなければ、ねちっこいお小言が待っている。
「カァグゥヤァさまぁ!」
「はぁーい」
スセリの忍耐が限界を迎える前に、香久夜は良い子の返事を叫んでかけ始めた。洗面所で顔を洗い、口の中をゆすいで、衣服を改めた。夕食はこの月香殿で摂るのだが、朝食は神殿の傍らの食堂で、他の巫女たちと共に摂る習わしだった。
朝食の後、やや休憩を置いて、太鼓の合図とともに、朝のお勤めの時間になる。香久夜が神職として祈りを上げる場は、回廊をぐるりと巡って本殿の中にある。
(アホみたいな儀式)
馬鹿にするような香久夜の思いに、心の底から腹立たしさが沸いた。香久夜はその怒りが自分に向けられたものだと理解した。
【余計なこと、考えないで!】
アホみたいではなくて、心の純粋さを保つために一切の無駄を取り去った素直な行為なのだと、香久夜の心の一部がそう言った。
この世界で身を清めるという行為も、香久夜が想像した水垢離のような重々しい所作ではなく、今朝刈り取ったばかりの菖蒲を束ねて葉先を清水に漬けて、それを頭の上で振り回して飛沫を浴びるだけ。香久夜は心の底から自分に語りかける別の意識に身を任せることにした。
拝殿で本殿に向かってぺこりと一礼して一段床の高い本殿に入り、本殿の中央にある白木の柱にも一礼をした。その柱がご神体だと分かった。
(こんな柱に、どんな御利益があるって言うねん)
蹴飛ばしてみようかという好奇心を抱いた香久夜の頬に、怒りと共につねるような痛みが沸き、スエラギ様の大切な依代だとわかった。依代を取り囲むように床に敷かれた茅の輪は聖域アシカタの野の象徴だった。それを照司は左から、香久夜は右から回って正面に戻って、二人は再び柱に向きあった。照司は手にした小刀を捧げるように掲げた。この世界を汚す邪を払う事を象徴する動きだった。香久夜は手にした鈴を振りながら掲げた。その動作は清らかな音色で汚れを浄化する事を象徴する。その後、二人は台座に祭司の道具を置いて神柱に向きあった。神社で祈りを捧げる記憶が、香久夜に柏手を打たせかけたが、別の意識がそれを押しとどめて、そっと手を合わせただけ。誰かの意識が香久夜を操って体を動かしていた。
香久夜の心の中に強い寂しさが沸いた。こうやって手を合わせて祈ってもスエラギ様の声が聞こえない。照司が戸惑う様子を見せる。香久夜と同じく別の意識と対話しているのかもしれない。そんな照司が姉の顔を見上げて小さくぽつりと言った。
「お姉ちゃん、ボク、ショウジやねん」
弟の言いたいことは分かった。この世界にもカグヤという少女と、ショウジという少年が存在する。自分たちは別の香久夜と照司だが、この世界のカグヤとショウジとして振る舞って差し支えない、姉と弟はそんな意識と一体になっていた。
二人はご神体の前に敷かれた二枚の敷物に並んで座って、本殿の末席に集まった人々にスエラギ様の言葉を伝える習わしだった。二人は悲しみと共に首を横に振って、スエラギ様の声が途絶えたままだと伝えた。
この儀式が終わると、スエラギ様の代理人としての二人は、自由時間になる。広い神殿とその敷地を掃き清める者やら、書物や神具の整理をする者やら、機織りをする者がいる。そんな中で、日が中天に上る頃まで、二人は敷地内を散策したり、駆け回って遊ぶのが日課だった。神殿の敷地は正門の壮麗さに似合わず、取り囲む生け垣は簡素だった。香久夜の胸の高さほどの生け垣の上には、町の様子が見える、生け垣の枝や葉の隙間から賑やかに行き交う人々が香久夜と照司を眺めて微笑むのが見えた。
人々は生け垣を透して、カグヤとショウジの姿を眺め、心の平穏を得るようにも見える。二人はその無邪気な姿を見せることによって、人々に心の平穏を与えるよう奉仕しているとも言えた。
「カグヤさま」
カグヤの背後から声が響いた。振り返ってみると、敷地の隅で巫女イセポが落ち葉を掃き清める手を止めて、香久夜に微笑みかけていた。
生け垣に見つけた隙間から外に出ようとしていた瞬間にかけられた声だった。イセポが自分に注意を与えたのだと気づいて、香久夜は肩をすくめて反省の意を表した。勝手に外を出歩いてはいけないという。ましてや、ショウジ様まで連れ出すなど言語道断な行為だった。イセポはそれ以上、香久夜を叱ることもなく仕事を続け、香久夜は照司の手を引いてその場を立ち去った。
照司が門の前を通り過ぎようとした香久夜に言った。
「お姉ちゃん、どこ行くん?」
姉がこの社の敷地の外に出たがっていることには気づいており、どうして門から出ないのだと首を傾げていた。香久夜は説明せざるを得ない。
「あほっ。あんなとこ通ってみ、ムタケルが飛んで来よるわ」
大門には警護の衛士が居るに違いなく、出て行こうとすれば制止され、運が悪ければ報告を受けたムタケルのお小言が待っている。香久夜は更に弟の手を引いて歩いた。門から伸びる生け垣に沿って五十メートルばかり歩けば、良く茂った葉で隠されているが、幹の間には彼女が屈めばすり抜けることが出来る隙間がある。彼女はなぜかそれを知っていた。
「ここやねん」
彼女は見つけた隙間を弟に指さして教えて、先に隙間をくぐろうと身をかがめた瞬間、回廊を神具を捧げて運んでいた巫女サヨリやヤガミと視線が合った。
「カグヤ様、何をなさっているのですか」
サヨリは興味深そうに香久夜の意図を問うたが、その傍らのヤガミは勘が良く、香久夜が押し広げている葉を眺め、香久夜の意図を察して手招きをした。
「カグヤ様。間もなく招緑の儀が始まりましょう。私たちと共に本殿へ」
ヤガミはそんな誘いで香久夜の脱走を封じた。この世界では時計を見かけないが、体感時間で言うと、先の儀式から約一時間が経過していて、太鼓の合図と共に、本殿でヤガミが言う招緑の儀が始まる。そう言えば、開門の時にはちらほらと数えることが出来た参拝者の数が数十人にまで増えていた。