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胡蝶の夢

 牛車の中の眠りから覚めた香久夜が最初に聞いたのは、生活に密着した親しげな言葉だった。

「さあ、湯浴みの支度が出来ておりますよ」

 女がそう声を掛けて、照司の肩を撫でるように揺すった。自分に寄り添う照司が動く気配に、香久夜もつられて目を覚ました。いつもの現実を逃避する薄ぼんやりした目覚めではなく、ぐっすり眠った後の爽快感を伴う明瞭な目覚めだった。しかし、目の前の光景は信じがたい。

 牛車の御簾が大きく開けられて、外の景色が見えていた。池の畔の庭園を囲んで白木造りの神社の社殿のような館があり。その前に巫女姿をした人々がずらりと並んでいた。何故か、自分と照司の帰還を出迎える人々だという確信があった。二人を乗せた牛車は大門をくぐった後、回廊の外を回って、奥の館の入り口に停止している。

 ため息をつくように安堵する者や、素直に喜びの表情を現す者がいて、二人の帰還が歓迎されていることが分かった。巫女の一人が、牛車の中に腕を伸ばして照司の体を抱き上げた。香久夜はサギリという名を思い起こした。サギリは照司を香久夜から引き離してしまう様子はない。どちらかと言えば、大事なショウジを汚れたままにしておくカグヤを非難するようで、香久夜に向ける視線がやや冷たい。その視線によって彼女たちの照司に対する情の深さが伝わってきた。香久夜はゆっくり牛車を降りたが、地面に落とした影が長く伸びて、陽が落ちかかっているのがわかった。随分長く牛車に乗っていたようだ。

 香久夜は不思議な感覚に襲われた。巨大な館を観ていると月香殿げっかでんという名が浮かび、この建築物に関する知識が記憶のように沸き上がってきた。月香殿げっかでんに繋がる回廊を目で追ってゆくと、左の方にこの月香殿げっかでんと比較にならないほど壮麗な社殿があった。

弥緑社やろくやしろ

 言葉に含まれる緑は、この世界の造物主たるスエラギ様を象徴する色だった。ここはスエラギ様を奉る神殿の一画だという記憶が沸いて、香久夜を混乱させた。

 二人は暖かな牛車の中で一昼夜を眠ったまま過ごしていた。この世界では、規則正しい生活という条件を別にすれば、長く深い眠りや、食事を抜くことなど珍しいことではなく、護衛のムタケルは心地よく眠る二人を起こして食事をさせるより、食事時間を惜しんで二人を都に送り届けるほうを選んだのだった。その判断に誤りが無いと言うことは、ムタケルをはじめ衛士たちが巫女達からねぎらいの言葉をかけられているのを見ても分かる。

(それにしても)

 こんなに、安心しきってぐっすり眠ったのは初めてだと香久夜は思った。目の前に見える景色が信じられずに、少し現実逃避していたのかもしれない。

「さあ、カグヤ様も」

 スセリが香久夜に別の方向を指さした。香久夜はその方向にもう一つの湯殿があるという記憶を呼び起こした。スセリは照司を館から勝手に連れだした罰に、貴女は一人で風呂に入ってきなさいと言うのだろう。その表情には逆らいがたい。

(なんで?)

 心の底に問いただしたが、心の奥底にはお転婆のカグヤが、幼い頃から、乳母代わりのスセリに叱られてきた記憶がある。

(サギリ)

 香久夜は自分に目配せをして手を取って導く女性の名を思い出した。気の利く女性で香久夜をスセリのお説教から救ったという意図が読み取れた。サギリは香久夜を湯殿に導いた。こんな見ず知らずの場所で、どうして風呂に入らなくてはならないのか、そんな当然の疑問が、今の香久夜には湧いてこない。不思議な感覚で人々や出来事を受け入れていた。

 湯船に浸かった香久夜は、記憶を整理しようと努力した。

  家を連れ出されて、

  随分長く車に乗っていて、

  どこかの施設に着いて、

  そこを逃げ出して、

  町の中を、暗闇の中を、山の中を、彷徨って、

  朝、目が覚めたら

  あっ、その前に、

  眠る前に誰かの声を聞いたような、気が、する。

 香久夜の中で昨日の世界と今の世界の記憶が繋がらない。

  ちゃぷん。

 香久夜はそんな音を立てて頭までお湯に浸かってみた。この時に、湯殿の扉が開いて、白い浴衣姿の女が入ってくるのが見えた。湯浴みを命じたスセリだった。二人を育ててきた乳母であり教師だという点で、カグヤはこの巫女に頭が上がらない。

 着物のたもとをたくし上げたスセリは、口元には微笑を浮かべているが、目つきは笑ってない。香久夜は慌てて逃げ道を探したが、この湯殿は建物の一番奥で、扉の所にスセリが立ちふさがっていると、他に逃げ道がない。香久夜は観念した。彼女の経験から言えば、この後、延々とスセリのお小言を聞かされなければならないのである。

「ご存じですか? 巷では『放浪カグヤ』とか『家無しカグヤ』とかいう、無茶苦茶な噂が流布されておりますよ」

 香久夜は笑うしかなかった。

「へへへへっ」

「へへへじゃ、ございません」

 スセリは香久夜に湯船から出るように促し、その背を優しく流しながら叱った。

「あらっ?」

 香久夜の体についた痣に気付いて眉をひそめたのである。古いものから新しいもの、重なり合ったものを含めれば、その数は十数カ所に達する。スセリは香久夜を気遣って、ため息をついた。両親の虐待による傷だとは理解できない。カグヤがよほど荒っぽい旅をしたのかと考えたのである。大きな心配は無い。治癒力の高いこの世界では、数日で消えてしまうだろう。再び、スセリは驚きの声を上げたかと思うと、香久夜の背をこする腕に力を込めた。思いの外、垢が厚く積もっている。香久夜にもその理由に覚えがある。濡れタオルで顔や首筋を拭ってはいたが、長いこと風呂に入ってない。その不潔さを恥じる反面、垢を落として生まれ変わるみたいに清潔になることと、人に優しく接してもらっていることが嬉しい。ふと涙がこぼれるほどだ。香久夜は慌てて顔を洗った。

 スセリはふと手を止めた。香久夜の後ろ髪に隠れた首筋に新たな痣を見つけたのである。スセリの親指の半分ほどの長さの赤い痣で、打ち身の跡ならこんなくっきりした菱形にはならないだろう。大切に守り育てたカグヤのことは知り尽くしているはずだか、今までこんな痣には記憶に無かった。

 香久夜がスセリに洗い上げてもらって湯殿を出ると、隣の部屋には洗い立ての衣類がたたんで置かれていた。今までの汚れた服に替えて、身につけなさいと言うことに違いないのだが、着物の着付けなどしたことがないという記憶が香久夜を戸惑わせた。

「あれっ?」

 しかし、着物を手に取ってみると、体や指先が着物の着付けの手順を覚えてでもいるように自然に身につけることが出来た。香久夜は白衣を纏い、袴を穿き、帯を締めて、慣れた手つきで襟足をゆったり整えた。

 最も奥まった板の間の部屋に、対になるように二つの敷物がある。この部屋で姉弟は再会した。

(こんなに可愛い男の子やったんか)

 香久夜はしみじみと弟を眺めた。決して服装ばかりではない。綺麗に垢を洗い落としてもらって、洗い上げた髪を首筋の辺りで結って整えてもらった照司は、表情がないと言うことを除けば本来の子供の姿で、見違えるように愛らしい。同じ事を、照司も戸惑うように小声で言った。

「お姉ちゃん、綺麗」

 清潔だと言ったのか、美人だと言ったのか良く分からない。嬉しさや、楽しさの感情を出さない弟は、言葉まで貧困だった。香久夜たちはされるがままに素直に座って待った。他に選択肢は無い。二人の風呂上りの体の火照りが、心地よい温みに収まるタイミングを計っていたかのように食事が運ばれてきた。

「お姉ちゃん、美味しい」

 照司がしみじみと呟くように言った。それ意外の表現の言葉がない。こんなに温かく美味しいものを食べたのは生まれて初めてだというのだろう。人は美味しいものを食べていると、『こってりしてコクがある』だの『後味がさわやかでキレがある』とかいう微妙な美味しさを表現する言葉を覚える。照司は表情が乏しいのと同様に、味覚を表現する言葉が少なくて、その思いをちゃんと表現できない。

 小振りな膳に、小豆の粒の入った玄米ご飯、貝の潮汁、山菜の和え物、豆腐と漬け物が添えられていた。質素だが粗末だという印象はない。

 膳や椀は、触れれば指紋がつくのではないかと思うほどぴかぴかだし、材料は厳選されていて、心のこもった手が加えられている。和え物の酢の加減がふくよかで、ワラビやゼンマイや木の芽の食材ごとに、本来の素材の味わいを残しているばかりではなく、和え物全体の味の調和もとれている。じんわり唾液が湧いてきて食欲をそそる。一口すすった貝の汁は、熱すぎず、ぬるすぎもしない。香久夜が食べるその一瞬に、料理が丁度良い温度になっているという事は、調理人がこの食事に心血を注いでいると言うことだ。その気遣いが、汁の温かさとなって二人の腹に染みわたっている。

 食事の膳が下げられると、蜂蜜に漬けた小梅が三粒入った小皿と、緑茶が運ばれてきた。その甘酸っぱい梅の香りが、熱めに入れた緑茶と一緒になって、体の中に広がった。

 全てを味わい尽くしてみると、手の平でお腹を撫で回したくなるほど、ぽっこり膨らんで、姉弟は二人とも顔を見合わせて幸福感に浸っている。食事の分量まで、ちゃんと姉弟の体に合わせてあったようだ。

 香久夜には、まだ、この人々と自分たちの関係は良く分からなかった。しかし、人々は二人に心から親切で、何かこの親切に甘えても良いような気がする。香久夜は少し確かめるように拗ねて心の中で呟いた。

(お金、取られへんか心配やわ)

 暖かな食事でお腹が一杯になると、少しだけ、この食事を食べさせてくれた人を信用しても良いような気になる。しかし、香久夜の口調は少し皮肉じみたものになった。

「それで、なんぼやのん」

 私たち貧乏な姉弟から、いくらむしり取るつもりかというのである。もちろん払えるほどのお金は持ってない。香久夜の言葉の意味を解しかねて、侍女が首をかしげた。

「えっ?」

「そやから、この食事のお礼になんぼ払ろたらええん?」

「カグヤ様、お戯れを」

 食事の世話をした巫女の一人が困り果てた顔をした。

「さあ、ショウジ様とカグヤ様を寝所に」

 スセリはそんな表現で、カグヤのつまらない冗談に耳を貸さず聞き流せと、巫女たちに指示をした。夕暮れの太陽は既に姿を消し、外はほの暗い。二人は長旅で疲れているに違いないから、早めに休ませるようにと言うのだった。香久夜はまだ眠くないと反論しかけたが、スセリの表情に逆らいがたい。ショウジとカグヤの養育という点で、この女性はこの月香殿げっかでんの絶対権力者だった。

 手燭の明かりで足元を照らしてくれるサギリたち巫女に導かれながら、香久夜は不思議な感覚にとらわれていた。衣類を身につけた時もそうだったが、この廊下を歩きながら、この大きな館の間取りの記憶を感じ取っていた。夜の闇にあってもその巨大さが実感できる建築物はスエラギ様を奉る本殿である。その周囲に社務所や神楽殿、宝物殿、巫女が寝起きする館に、カグヤとショウジの生活を取り仕切る女官たちの館が取り囲み、庭園を置いて、神殿の北東に月香殿げっかでんと呼ばれるカグヤとショウジの住まいがあった。いま、カグヤたちが歩いているのはそんないくつもの建築物を繋ぐ渡り廊下の一つだった。

 香久夜は巫女たちを置いて駆け出した。柔らかく体を包み込む白衣と袴は、体裁はお淑やかかもしれないが、動きを制限して走りにくい。走りつつ、この袴で走る時には、裾を踏んづけないよう持ち上げておかなくてはならないという経験を、体の奥から湧き上がってくるように思い出した。以前、こうやって駆けた記憶が残っている。渡り廊下の幾つかの分岐の角を間違いなく折れて、香久夜は寝所にたどり着いた。間違いがない。奇妙なことに、香久夜はこの月香殿げっかでんで育った記憶があった。遅れてやってきた巫女は、香久夜の衝動的な行動には慣れっこになっているようで、気にする様子はなく、文句を言う者もいない。

「胡蝶の夢」

 読書家の香久夜は古い中国の故事を呟いて自分の境遇を表した。蝶になった夢を見た男が目覚めて、蝶と人間の自分、どちらが本当の自分かと迷うという話だった様な気がする。いま、香久夜は家で両親に殴られる自分と、この館で大切にされる自分と、どちらが本当の自分か迷っていた。しかし、その疑問に答える人物がいない。

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