ムタケル
露天商が街道に沿って店を並べていた。露天を覗く客たちや天秤棒で商品を運ぶ物売り。人で視界が遮られるほど賑やかだった。物売りの声に耳を傾けていると、突然に、勢いよく駆ける馬の蹄の音が混じりだし、二人に接近してきた。乗馬の男が二人の姿を見つけたかと思うと、二人に馬を寄せて降り、両手を広げて二人の行く手を遮った。腰に太刀を下げているが、山賊と違って身なりはしゃんとしていて、態度も礼儀正しい。昨夜まで香久夜たちが居た大阪の町では、馬という乗り物は珍しいが、今の景色の中にとけ込んでいて違和感がない。馬は荒々しい息づかいながらも、優しい目を二人に向けていた。男は苦笑いするように言った。
「御矢樹山の社で騒ぎがあったと聞きました故、馬をとばして参りましたが、さては、あれはカグヤ様の仕業か?」
(あんた、誰?)
そんな初対面の者にする質問を、香久夜は喉の奥に飲み込んだ。頭の中が混乱しているが、じっくり頭の中を整理すると、聞かないでも知っている気がする。名前の代わりに、香久夜は男の言葉を尋ねた。
「御矢樹山の社で騒ぎって、何?」
「何やら、流れ星が御矢樹山に落ちたという者やら、不可思議な光が天を横切ったと言う者やら」
男の言葉に、香久夜も思い当たることがある。
(そういえば、山の上の男たちもそういう話を)
「それにしても、なんと、面妖な」
男は眉をひそめて、ため息をつくように二人の服装を評した。別人になりすまし、庶民の中に紛れ込むつもりなら、もっと目立たない格好というものがあるだろうというニュアンスが感じ取れた。男のため息と迷惑そうな顔は、こんな事が今回だけではなく、過去に何度か繰り返されていることを思わせる。男は香久夜に、そんな呆れたような怒りを向けていた。
香久夜は大人の本音を読むのに機敏だった。その事が、彼女や照司を生き延びさせた。この人物は腹を立てている。しかし、こういう怒り方をする大人は心根に表裏が無く、彼女たちに害意はない。
「今度は、ショウジ様まで連れ出されたか? 巫女どもが驚き、慌てふためいておりますよ。カグヤ様にも困ったものでございますな」
男は人々の好奇の目から二人を守り隠すように、腕を広げて背後から包み込んだ。男の腕が温かくて優しい。ただ、その指先では、やっと見つけた二人を逃がさないよう、二人の服をしっかり握っていて、この誠実な人物の責任感の現れのようにも思われた。
「ムタケル」
照司が小さく呟くのを香久夜は聞いた。不思議なことに、香久夜もこの男の名前を記憶の奥底で知っている。照司がムタケルと呼んだこの男は、都の衛士を束ねる責任者で、昨日までの世界に当てはめれば、警視総監といった重要な役職の人物だし、政治の一部を執り行うという面では大臣にも相当する。そんな重要な人物自ら彼女たちを捜していたという事だった。
「先ほど、町の役人どもに使いを出しました故、間もなく迎えの車が参りましょう」
ムタケルはそう言ったが、香久夜の感覚ではその迎えがやってくる気配がない。香久夜と照司は、いかにも補導された家出人の格好で、道の端でムタケルの温かな腕に抱かれていた。行き交う人々も何事もなかったかのように平穏を取り戻しているが、行き交う人々の視線が優しく二人に注がれていた。
ムタケルは強い責任感と同時にのんびりした性格の人物のようだ。二人をひとまとめに抱くムタケルに、二人を引き離す意志は無いことは見て取れる。身を任せても安心できる人物らしいと香久夜は判断した。
この役人のような男は、香久夜と照司を他の誰かと間違えているようだが、それはこの男のミスで香久夜たちに責任はない。安全が確保されるなら、しばし、運命をこの男に委ねてもいい。しかし、なぜか、心の底から、この男をもっと信用して甘えていいのだという意識もわいて出た。
もし、彼女が元の世界で心に余裕を持っていれば、ムタケルの姿や雰囲気に、あの保護施設で電話をかけていた男性を思い起こしたかもしれない。
「げっ」
香久夜の驚きの声の下品さに、ムタケルがたしなめるように彼女を睨んだ。ムタケルの視線も気にせず、香久夜は指さした。
「あれ、何やのん?」
「むろん、迎えの車でございますよ」
迎えが来ると聞いて、当然、香久夜はエンジンで走る自動車が来るのだと信じていた。大通りをガラガラと音を立てて引かれてきた派手な車は牛が曳いていた。二人を保護した誠実な警視総監が言うとおり、車には間違いはない。御者は急いているらしいが、牛の歩みはゆったりして、交通事故とは無縁な安全な乗り物だという感じがした。
ムタケルは二人を牛車に押し込んだ。本来は一人乗りだが、普通の牛車より一回り大きい上に、香久夜も照司も小柄だから、窮屈な感じはない。
牛車の御簾を下ろして、香久夜と照司を緩やかに監禁したムタケルは、満足げに言った。
「これでいい」
緊急だったために、牛車は一台しか手配できなかったが、一台であるが故に、ムタケルにとって警護しやすい。外部からこの二人を襲う者はない。カグヤが勝手気ままに出歩かないように監禁して、都の巫女たちのもとへ二人を無事に送り返すためだった。
「ええか、照司。『牛』の『車』って書いて『ぎっしゃ』っていうねん。昔から高貴な人の乗り物や」
香久夜はどうでも良いことを、照司に言いきかせた。頭の中が混乱している。馬や牛車がこの世界の主要な交通機関だが、彼女たちは馬という速度の面で危険な交通手段ではなくて、牛車を利用するのが普通だ。それが神官の決まりのようなものだ。そういう記憶が、心の底から湧き上がってきた。昨日までの世界の記憶と入り交じっていて、何が常識なのか決められない。照司が香久夜のスカートの裾を引いて、何か言いたげに姉の顔を眺めた。
(そうか)
香久夜は察した。きっと、大事なことは姉弟が仲良く一緒にいることで、世界なんかどうでも良い。香久夜は弟を抱きしめた。
「そうや。二人っきりの家族やもんな」
二人はここが何処か分からないけれど、この世界に順応してしまった。酷い境遇にいたから、今まで以上に状況が悪くなる心配はしなくて良い。
牛車の中は何か心地よい香りが漂っていた。香が炊き込められていたのかも知れない。香りの心地よさと同時に、二人を牛車に押し込んだときに、ムタケルが脱いで二人にかけてくれた毛皮の上着が温かい。大きな車輪がぎいぎい回転する単調な音さえ心地よく、二人の眠気を誘った。昨夜、眠ったはずだが、日々の眠りは浅い。二人の睡眠不足が重なっている。
都の表通りに入って、牛車の周りは随分と賑やかになっていた。淡い紫の房で彩られた牛車に誰が乗っているのか、人々は温かく察しているだろう。牛車の周りを固める衛士は自分たちが警護する事を誇るように辺りを睥睨した。御簾から透かして見えるはずのそんな光景に気付かないまま、姉弟はぐっすり眠り込んでいた。




