非日常なビリヤード
青年は明るい部屋の中で目を覚ました。
「うぅ……」
固い床に直接横になってたせいなのか体のあちこちが鈍く痛んだ。
『ここはどこだ?』
青年は広い部屋を見渡した。
部屋の中央には綺麗に手入れされたビリヤードテーブル。それに壁際に小さな椅子が一つ。
家具らしきものはそれだけだった。
その部屋には窓が無く、今が昼か夜か青年には分からなかった。
部屋にある扉は一つだけ。
ある意味シンプルと言う意味で調和の取れたその部屋にあって、その扉は異彩を放っていた。
厚い鉄製の様で例えるなら潜水艦のハッチ(防水扉)。
更に異様なのは扉の周囲には無数のロックがガッチリと掛かっている事だった。
『閉じ込められた?俺がなぜ?』
この部屋で気が付く直前の青年の記憶は行き付けのビリヤード場のものだった。
(そう言えば俺は……)
いつもの様に店に預けてあるキューを取り出し、いつもの様に仲間達とビリヤードを楽しんでいた。
青年はプロを目指すほど上手い訳では無かったが、その日は妙に調子が良く、いつもは勝てない上級者ともそれなりの対戦成績で気分が良かった。
ひとしきりビリヤードを楽しんで、いつもの様に店にあるカウンターバーでいつもの酒をオーダーした。
隣には人の良さそうな中年の男が座って居て青年に話し掛けて来た。
「ずいぶんビリヤードがお上手なんですね」
「いや、今日はたまたま調子が良いだけですよ」
「いやいや、見ているだけで楽しかったですよ。私も昔はずいぶんビリヤードに熱中したものです。良かったらお近づきのしるしに一杯ご馳走させて下さい」
青年は多少の違和感を感じながらも中年の男の人懐っこい笑顔と、それよりも寂しい懐を考えて遠慮なくご馳走になる事にした。
中年の男は話が上手かった。酒の力も手伝って青年は知らず知らずに自分の事をあれこれ喋った気がする。
気が付くと目の前の酒は満たされていて青年は久しぶりに美味い酒を飲んでいた……。
そして気が付くと、この部屋の中だった訳だ。『あのオッサンが……?』
青年はビリヤードテーブルに近付くと綺麗な菱形に組まれた9つのボールの先頭の一つを手に取った。
『ナインボールのラック…』
9つのボールは青年のよくやるビリヤードゲームの最初の配置になっていた。
カコン……。
青年は何気無くボールをビリヤードテーブルのポケットに投げ込んだ。
カチッ……。
部屋に一つしかない扉から小さな金属音が聞こえた……。
青年は扉に駆け寄ると扉のロックを調べた。
「一つだけ外れてる……。そう言う事か……」
青年はテーブルの上のボールを手に取り番号順にポケットに投げ入れた。だが扉からは二度と金属音は聞こえて来なかった。
「おかしいな……」
青年は初めてビリヤードテーブルの真上の天井を見上げた。良く見ると小さな丸い穴が開いていた。
『観察してやがる……』
青年はテーブルに元あった様にボールを菱形に並べた。
壁際にある椅子に立て掛けてあった青年の愛用のキューケースからブレイクに使うキューを取り出し、いつもの位置から思い切りブレイクをしてみた。
菱形に組まれたボールは勢い良く弾け飛び、コーナーポケットとサイドポケットに一個ずつ飛び込んだ。
カチッ、カチッ……。
扉から乾いた金属音が2つ響いて来た。
『やっぱりそう言う事か……』
青年は今自分が要求されている事を悟った。
『どう言うつもりで何のゲームか知らんが、どうやらここを出るにはボールを入れろって事らしい』
幸いボールは適度に散らばって取り切りが狙える配置になっていた。
青年は慎重に一つ一つのボールを沈めていき9番ボールをポケットした。
ガチャリ……。
これまでにない重い金属音が扉から響いて来た。青年が扉を確認するとロックはまだまだ数多く掛かったままだった。
『マスワリ(ブレイクランアウト)程度じゃダメって事か?』
青年は改めてボールをラックすると再び思い切りブレイクをした。だが勢いがつきすぎて青年の撞いた手球がテーブルの外に飛び出した。
カチッ、カチッ、カチッ……。
青年が扉を調べるとさっきまで外れていたロックが再び元の状態になっていた。
『振り出しに戻る。って事か……。ふざけんな!!』
意味不明の監禁。
言葉の無い指令。
青年は混乱し変になりそうだった。
だが、ここを出るには自分には到達不可能とも思える高いハードルを越える以外にはなさそうだ。
青年はラックを組み。いつもの位置から思い切りブレイクをした。
青年は必死でボールを入れ続けた。
三連マスをしたところで突然照明が暗くなった。
「あっ!」
急にコンディションが変わったので、青年は次の球を外してしまった……。
しかし扉からは金属音は聞こえて来なかった。ロックは元には戻らなかった様だ……。
『第二ステージ突入って訳か……』
青年は無我夢中でラックとブレイクを何度も繰り返した。
このステージでもミスすればロックはステージの最初まで戻っている様だった。
もう青年はいちいち扉を確認するのを止めた。
目が覚めて何時間経ったか分からないが食事はおろか水さえ口にしていない。
ハードルとの勝負だけでなく、時間とも戦う必要がある様だった。
青年は、ふと浮かんだ不吉な考えを首を強く振って振り払った。
温度が上がり、湿度が上がり、コンディションはますます悪化していった。そして何とか一つ一つハードルを乗り越えステージは進んでいった……。
いくつめのステージだったろう。集中力が極限に達した頃、扉からこれまでに無い大きな金属音が聞こえ、薄暗い部屋に扉から光が射し込んだ……。
『全ステージクリア……』
青年は立って居られずに、その場に座り込んだ。
扉から人が入って来るのが見えた。
「オッサン……。てめぇ……」
しかし青年は空腹と極限に達した緊張がほどけた安堵感からその場で気を失ってしまった……。
気が付くと青年は柔らかいベッドの上に居た。
「また振り出しって訳じゃ……」
青年がつぶやくと近くに居た若い女性が近付いて来た。
「まだ起きちゃダメ。ずいぶん衰弱してるから」
『好き好んで衰弱してる訳じゃない!』
青年はさすがに声には出さなかった。
「ここは?」
青年は女性に訊ねてみた。
その声は自分でも驚くほど弱々しかった。
「少しお休みして。あなたの体力が戻るまで」
「冗談じゃない!」
青年はベッドから飛び降りた。
突然、部屋の扉が開いて、青年が忘れもしない中年の紳士が入って来た。
「オッサン!てめぇ何のつもりだ!」
青年は掴みかかろうとしたが中年紳士の後ろに居る屈強な男達を見て自重した。
「手荒な真似をして申し訳ない。君には危害を加えるつもりは無い。」
「危害も何も……!」
青年は怒りのあまり絶句した。
「あの部屋で俺は死にそうになったんだぞ!」
「だが死にはしなかった……」
紳士はビリヤード場の時とは違った深い声で言った。
「あんな課題は俺なんかじゃなくビリヤードのプロなら易々とクリア出来るだろう!」
「その通りだが、ビリヤードのプロや名の知れたトップアマチュアは、急に居なくなると目立つんでね」
「その点、俺なんかだと目立たないって言う訳か?!ふざけんな!」
「まぁまぁ、怒らないでくれたまえ」
紳士は続けた。
「ビリヤードに限らずスポーツは一定の技術レベルを超えるとメンタルの比重が大きくなる。君は死の恐怖に耐え、過酷なコンディションを乗り越えた。以前の君とは比べ物にならないくらいメンタルは強靭なものになった筈だ」
「そんなこと俺は望んで居なかったぞ!」
青年は叫んだ。
「いや、望んで居たさ」
「毎日の暮らしに飽き飽きしてなかったかい?何か刺激を求めて居なかったかな?」
「ぐっ……」
青年は言葉に詰まった。
「君はこれ以上ないスリルを味わい、我々は極限の君を見て楽しませて貰った。お互い様って事じゃないかな?」
「ふざけんな」
青年の声は力を失っていた。
「ゆっくり休んだら自宅へ戻ると良い。ありがとう。」
青年は体力を回復して自宅へ戻って行った。
「帰しちゃって良かったの?警察に訴えられたりしたら……」
女性は不安げに言った。
「大丈夫。あれだけの経験をしたら普通の生活には戻れない。きっとここへ舞い戻るさ。それからが本当の始まりと言える」
紳士はこれまで見せた事の無い顔つきで笑って見せた……。