啓蒙について(至極個人的な考察)
心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の濕地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(mental sketch modified)
私はしがないサラリーマンである。だがもし、名乗ることが許されるなら、人文主義者である。
私の人生の目標は、人間を知ることだ。なぜ、人間を知りたいのか。知ってどうするのか。最初は子供のような動機から始まった。なぜ、人は簡単に他人を傷つけることができるのか。一体何がそうさせるのか。立場が違うから?年齢が違うから?たったそれだけの違いで人は他人への愛を失うことができるのか。
人はみな、自らが正しいと思っている。疑うことを知ってか知らずか、それら正義の信念をもって生きている。信念を持つこと自体はいい。人が生きるうえで、信念の有無は重要だ。厳密には、信念を持たない人間などいない。しかし、多くの場合それらは模造品である。自ら考え、自ら生み出した信念ではない。ソレは幾人、幾万の人々から与えられ、混ざり合い生まれる絵具のようなもので、個体は、そのパレットであり、外界はキャンバスであり、外向的手段は絵を描くことに他ならない。
何にも増して重要なのは、信念の在り方だ。その信念は、どのような形をしているのか。それは、周りの人にどう映るのか。何を得、何を失うのか。その信念は、何を取捨選択しているのか。
疑え。その信念の正体を知り、どれが刃で、どれが愛なのか。
人間の本質とは多様性そのものであると考えている。人間の持つ心というものは非常に不可解極まる。我々が一般に思考を呼んでいるものが、誰かと話すたびにそれぞれ違うことに気づく。故に私は考えた。可能な限り、人間の一般普遍性のある思考と、個性的思考を収集し、人々がその広大な心の可能性を知り、互いに許容しうるために、その心の在り方の多様性を知らせようと。私にとって、啓蒙とは、互いを知り、許し合える土壌をつくることだ。肥大化した社会性が、人々の目を曇らせているのだとしたら、私はその霧を払いたい。
だが、それ以前に
私が持つ筆は、あまりにも貧弱で
キャンバスは、あまりにも大きすぎる。
いかりのにがさまた青さ
四月の氣層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
宮沢賢治 【春と修羅】
例によって好き勝手書いてます。
正しさなんてどこにも無いんだって、ハッキリ分かんだね。
あと、頑張って書きかけの小説完成させます。