初恋の夏は、今も遠く
お久しぶりの短編小説です。お楽しみください。
初恋なんて覚えてない。
記憶力は割とあるほうだ。小学1年生のときに好きだった女の子の名前は、今も覚えている。それが初恋じゃないことも。
初恋の子の顔も、声も、全部思い出せない。ただ、その子が初恋の人であるということだけ、覚えている。だから、今街中でばったり会ったとしても、向こうが覚えていなければ、運命の再会なんて起こりはしない。そもそも向こうが俺のことをどう思ってたのかでさえ知らない。
そんな何も覚えてない人との思い出は当然ほとんどないわけだが、1つだけ、記憶の中に今も生きている思い出がある。というか、その子との思い出はそれしかない。少し曖昧だが多分5歳の夏のことだったと思う。
とにかく暑かった。セミの声がうるさくて、風鈴の音が心地のいい、そんな夏だった。
「篤史、早く準備しなさい。」
「はぁい。」
その日は、田舎の父方の祖父の家に行くことになっていた。1週間ほど祖父の家に泊まるのだ。これは、この年の昨年から行っていて、今も夏になれば行っている。
「ねぇお母さん。」
「なに?」
「去年みたいにまたおじいちゃんのおうちに行くんだよね。」
「そうよ。」
「また虫取りできるの?」
「ええ。」
俺は「やったー」と言ってガッツポーズをした。当時の俺は虫取りが大好きで、近くの公園の虫を一種公園から絶滅させたのではないかというほどだった。自分の机の中から、バッタのミイラが出てきたこともある。祖父の家はかなり田舎だから、虫なんてそこら中にいた。当時の俺からしたら、おそらく楽園だろう。今の俺からすれば、まっぴらごめんだ。
一通り準備ができて、あとは、フランスから帰ってくる父を待つだけだった。
父は当時、フランスでパンを作る修行をしていた。後に聞いた話だが、母も俺もフランスに行くつもりだったらしいが、父が、それを拒否したらしい。「篤史は、フランスじゃなくて、日本で育ってほしい。」と父が懇願したそうだ。
当時の俺にはよくわからなかったが、父は、夏の間だけ帰ってくる。その帰ってくる1週間で祖父の家に行くらしい。昨日の昼にフランスを出て、今日の朝、日本の空港に着くのだという。そして、昼頃に駅で待ち合わせをするらしい。こんなことも、後に聞いた話だ。
「もうそろそろ出ようかしら…」
母が時計をちらりと見た。母は、おっとりしていて、少し遅刻癖がある。当時の俺はそんなことはわからないから、「早く行こう」とは言えないが、今なら間違いなく言っている。時計は、11時前頃を指していた。
うちから目的の駅まで、1時間ほどかかる。結局あの時間には出ず、30分ほど遅れて待ち合わせ場所に着いた。そこには父がいた。
「遅いぞ。親父たちが待ちくたびれてる。早く行くぞ。」
父に少し怒られたが、慣れているのか母は何も気にしていない様子だった。
目的の電車に急いで乗り込み、祖父の家に向かった。父はフランス帰りで疲れていたのか、すぐに眠ってしまった。一方俺は、うきうきした気持ちで窓の外を眺めていた。寝られるか!と、思っていたが、あまり記憶がない。多分眠ってしまったのだろう。
気が付くと祖父の車に乗っていた。いつ目が覚めたのかは覚えていない。さすがに十数年も前になるとそこまで鮮明には覚えていない。ましてや寝起きだ。
「お、あっちゃん起きたか。」
祖父がそう言った。俺はそこで何か言った記憶はあるが、これも覚えていない。
「もうすぐ着くからな。」
と、祖父は続けた。そこから俺は外の景色を見た。窓から見えたのは、山、山、畑。今でも同じ景色が見える。とにかく緑が多かった。当時の俺はワクワクしただろう。今ではとてもじゃないが理解できない。流れている景色を見ながら、俺は何をするか考えていた。いや、正直虫取りの事しか考えていなかっただろう。
何をするかというより、どんな虫を取るのかという事を考えていたのだろう。
祖父の家に着いた。我が家と比べてかなり大きい。初めて見たときは仰天したし、今回の2回目でも圧巻だった。庭には祖母が立っていた。毎年立っている。わけではない。4年前に祖母は亡くなった。このことは後でいいだろう。
「いらっしゃい。あっちゃん、大きくなったねぇ~。」
毎年同じことを言われていた気がする。その気持ちが最近になってわかってきた気がする。実際俺は大きくなっていたのだろう。
この辺りはだいぶ暑かった。居間は風が通っていてかなり涼しいが、それでも汗が止まらなかった。祖母が出してくれたラムネを飲むと、かなり生き返ったような気持ちになった。
俺はそわそわしていた。祖父母と両親が話しているのを聞くことはなく、ずっと寝転がりながら、外を見ていた。当時の俺は早く虫取りに行きたくて仕方がなかった。騒がしい蝉の声。当時の俺には美しい音楽にでも聞こえたのだろうか。
そこに叔父が現われた。当時は18歳だ。叔父は俺に気が付くと、
「おっ、あっちゃん。久しぶりだなあ。」
と言い、俺の頭を掻き撫でた。今ではさすがにされないが、俺はこれが好きだった。
叔父は父と歳が9歳離れていて、当時は浪人生だった。後に聞いたが、彼は県内の国立大を目指していて、2浪で合格したらしい。現在は祖父の家で農作業をしている。
「あっちゃんも大きくなったなあ。まだ虫取りしてるか?」
叔父がそういうと、俺は間髪入れずに答えた。
「うん!さとるにいちゃん!またいっしょにいこうよ!!」
多分こんなことを言ったような気がする。
「よし!行くか!!」
叔父のその一言が好きだった。これも当時の話だが。
「おい聡。勉強はどうするんだ。」
祖父が言った。
「いいんだよ。丁度キリが良かったんだ。行くぞあっちゃん!」
叔父はそう言って俺の手を引っ張った。祖父たちは暖かいような、そんな眼差しで俺たちを見ていたんだと、多分思う。何といっても、彼らの顔は見ていない。
叔父はよく俺に話をしてくれた。祖父からよく聞いたのか、この辺りに伝わる化け猫伝説だったり、会えると幸せになるという大きな鳥なんかの話をしてくれた。虫にしか目のなかった俺もちょっとは興味をもったようだった。
俺たちは畦道を歩いていた。目の前は大きな山。今でも大きいと感じるのだから、当時はもっとだろう。
「あっちゃん、この辺はなあ、猫がなぜか多いんだよ。」
叔父が突然言い出した。猫が出てきたのかなと思ったが、どこにもいなかった。
「なんで?」
「さあ。詳しいことはお兄ちゃんも知らないけどな、おじいちゃんが言うにはな、あの化け猫の伝説のせいらしいんだ。」
「へぇー」
当時の俺にはあまり理解のしにくいものだった。おそらくしようともしていなかっただろう。虫を探すのに必死だったはずだ。叔父もそれを察したのか、「おっバッタがいたぞ。」と声をかけた。叔父は気を遣っていたのだと気づいたのは最近だ。そこにバッタはいなかった。
その日は何もなかった。ただ、虫を探して、叔父と話して終わった。あの大きなうちに帰ったのは4時頃だろうか。赤みがかった明るい空を覚えている。
その日はというよりもその日以降も特に何もなかった。いつものように虫を探し、やたらと量の多い祖母の料理を食べ、そして寝る。事が起きたのは4日目か5日目ぐらいだったと思う。
その日は、さすがに叔父も勉強をしていた。それまで俺と遊んでくれていたのだから、少し迷惑なことをしたなと、これも気づいたのは最近だ。当時の俺は叔父さんが遊んでくれないもんだから暇で仕方がなかった。
午前中は何もしなかった。ただ家でごろごろしていただけ。蝉の声を聴きながら涼んでいた。しかし、やはり虫の声を聴いていると無性に外へ出たくなった。居ても立ってもいられないとはこのことだろう。その日は家には叔父と祖母しかいなかった。祖母にばれないように外へ出ようとした。今になると、なぜあんなにこそこそしていたのだろうと思うばかりである。一つ声をかけて出ていけばいいというものを。
外に出るといつも虫をとっていたところへ向かった。おそらく反射的に。道なんか覚えてなかったはずだ。手ぶらで来たものだから、その時はとった虫はとった場所に返していた。虫をとることだけを楽しんでいたんだろう。果たしてそれが楽しいのかはよくわからない。
でも多分、熱中していたから、そこにいた少女に気が付かなかったのだろう。
おそらく当時の俺と同じぐらいの年だろう。その少女は、白いワンピースを着ていたと思う。いかにも夏の少女という格好だったと思う。ただ、顔だけは思い出せない。思い出そうとすると何故か彼女の顔だけが、ぼやけてそれ以上は何も思い出せない。
「何をしているの。」
当然そんな言葉は少女のセリフなのだが、当時の俺はなぜそこに少女がいたのかが、不思議で仕方がなかった。
「あなたこそ、何してるの。」
このとき、彼女が不思議そうな目を俺に向けていたことは覚えている。
「むしとり。きみはだれ?」
この時の俺は名前を聞いたんだと思う。なぜ「だれ?」と言ったのかはあまり記憶にない。
「わたしは××。あなたは?」
「ぼくはあつし。ねえ、いっしょにむしとり、しようよ。」
そういえば俺は彼女の名前も思い出せなかった。忘れていたことも忘れていた。俺は断られるとは思っていなかった。よく思えば当然の事だろう。5歳児が、断られる前提でなにかを誘ったりするのはさすがに行き過ぎている。
「いいわよ。」
少女は静かに言った。今思えばよくOKしてくれた。あのぐらいの年の女の子は、まだ虫に嫌悪を抱いていないのだろうか。
しばらくは2人で虫をとっていた。何か世間話みたいな話をするわけでもなく、一心不乱にというのが正しいのだろうか、何も考えずに虫をとっていたと思う。ただ、どちらかが虫を見つけたときはその虫をじっと2人で観察していた。少々ながら虫に知識のあった俺は、虫が見つかるたびに、彼女にその虫の名前を自慢げに話していた。至極つまらなかっただろうが、何故か少女は俺の話をよく聞いていた。と思う。もしかしたら自分の都合のいい記憶に改ざんされているかもしれない。
「ねえ、川に行かない?」
しばらくして少女がぽつりと俺に言った。俺はなぜ急に川に行くのかよく理解できなかったが、ご存知の通り虫バカだった俺は、川の方が虫が多くいるのかと思い、二つ返事で承諾した。
川に着くと少女はおもむろに川の水を飲み始めた。四足歩行の動物が飲むように。当時の俺は不思議だとは感じていなかったと思う。今の俺からすればそれも不思議なことだ。
「のどかわいてたんだったら、ぼくのおじいちゃんのおうちにラムネがあるよ?」
わざわざ川の水を飲んでいる彼女を気遣って言ったんだと思う。単に俺が飲みたかったのかもしれない。
「らむね…?それはなに?」
少女は水面から口を離し、首をひねって言った。
その仕草がどう俺に映ったのかは覚えていないが、そこで俺は彼女に落ちたんだと思う。早くなった鼓動に変な気持ちを抱いていたことは覚えている。以外とませていたみたいだ。
「え、えっとね、しゅわしゅわしてて、冷たくて、とってもおいしいんだ。」
慌てて俺は説明した。割と的を得ている説明だと今は思う。5歳児にしてはわかりやすい説明だ。まあこれはどうでもいいことだ。
「そうなの。この川の水も、その、しゅわしゅわ…?はしてないけれど冷たくてとってもおいしいわよ。でも、もっと向こうにある、ちょっと深いところのほうがおいしいってお母さんがいってたわ。」
「そうなの?じゃあそっち行こうよ!」
何を考えていたのかは覚えていない。ただ、自分でもよくわからない好奇心だろう。
「ええ、いいわよ。ついてきて。」
少女も以外にあっさりだった。深いところなんだから子供だけで行くのは危ない、と思うのは今だからだろう。多分両方とも危機感なんかもっていない。
ただ、この判断は結果的に言うと危険極まりの無いものだった。
しばらく彼女について川に沿って歩いていた。ふと、彼女が立ち止まり「ここよ」と俺に言った。確かに当時の自分たちからすれば深めな川になっていた。この年から何年か後に再び訪れたが、俺の目分量があっていれば水深はだいたい1メートルほどだった。5歳の俺が溺れるには十分だったというわけだ。
彼女はさっきと同じように水を飲み始めた。俺もさっきと同じように彼女を見ていたわけだが、どういう心境をしていたのか、無性に泳ぎたくなっていたことを覚えている。無意識のまま、気付くと足が水に浸かっていた。彼女は水を飲み終わり口を拭っていた。これも後に行って分かったことなのだが、その川は深いだけじゃなく、流れも結構速くなっていた。もう少しだけ俺が成長していれば、「危ない」と思うような川だった。
足元はかなり不安定だった。ところどころに苔が生え、立つのもやっとだった。
「何をしているの!入っちゃダメ!!」
彼女はそれまでの彼女の声を忘れるような大声で俺に言った。
その声に驚いた俺は足を滑らせてしまった。もう腿のあたりまで浸かるところまで来ていたから、立つのがやっとという状態だった。その状態から足を滑らせたものだから、当然、俺は溺れた。その瞬間、とてつもない恐怖に襲われた。流れのせいで身動きがとれない、「たすけて」という声がうまく出せない。生まれて初めて感じる、「死」への恐怖だった。もがけどもがけど自分の思うように手足が動かず、だんだんと意識が離れていっていたのを覚えてる。意識が切れてしまう直前、確かに覚えているのは、白く細長い、紐のようなものだった。
目が覚めると、青空、ではなく、見慣れた天井だった。
祖父の家だった。
「お、目が覚めたか。あっちゃん、外出るときは誰かに言っていかないとだめだぞ。お兄ちゃん、結構探したんだからな。しかも見つけたときは寝てるもんだから、すっげーひやひやしたよ。」
叔父の声だった。起き上がって外を見ると、もう日も暮れそうというところだった。さっきまでの事を思い出そうとすると頭が痛くなった。これは、今もそうで、もしかするとどこかで頭を打ったのかもしれない。
「ぼくを見つけたとき、女の子はいなかった?」
「ん??なんでだ?いなかったぞ。そもそも、この辺りに女の子なんているもんなのかなあ。小学校もだいぶ離れてるし。」
あとで聞くと、俺ははじめ虫取りをしていた場所で寝ていたらしい。翌日、溺れた川以外は探しに行ったのだが、少女どころか痕跡も何一つなかった。溺れた川へは何年かは行けなかった。今でも行けば少し足がすくむほどだ。
あの少女は何だったのか。なぜ突然俺の前に現れたのか。俺を助けたのは彼女なのか。それとも彼女が助けを呼んだのか。いや、もし彼女が助けを呼んでいれば、叔父が俺が溺れたことを知らないという事はないだろう。なら、そうやって俺を助けたのか。今思い出しても、わからない事ばかりである。
ただ、俺が初めて恋をしたのはその少女にちがいない。これは確かな事だった。
続きありそうな終わり方ですが、続きあります。まだ書けてませんが。時間はかかりそうですが気長にお待ちください。次回もよろしくお願いします。読んでいただき、ありがとうございました。