『絞殺者』
淳一は階段を駆け降り、一階へ着いた時点で失速し、しょぼしょぼと歩き出した。
(俺、ヘタレ……。すっげぇ、ヘタレ……)
激しい自己嫌悪に見舞われながら、丸岡の待つエブリイへと戻って行った。
「すいません、お待たせしました……」
運転席に乗り込んだ淳一は目を丸くした。
助手席に座っているはずの丸岡が車内におらず、そこに座っていたのは、どういうわけか、昨日、交差点で見た"人物"だった。
淳一はわけがわからず辺りを見回した。
「こんにちは」
"その人"は柔らかな笑顔で淳一に挨拶をしてきた。
「あ…、え…?誰……?あれ?丸岡さん……は?」
混乱し、キョロキョロと丸岡の姿を探す淳一に対し、"その人"は依然、不敵な笑顔を向けている。
「あの御老体なら、退席していただいたよ。酷い臭いのする方だ」
「は?」
「あぁ、申し遅れてしまい、申し訳ない。私のことは"ストラングラー"と呼んでくれ」
「え?」
「"絞殺者"という意味だ。よろしく頼むよ、黒木淳一くん」
「あんた、誰?…ですか?」
「だから"絞殺者"だよ」
未だ混乱している淳一と、未だ不敵に微笑む"絞殺者"。
「とりあえず、車を出さないかい?ドライブでもしながら詳しく話そうじゃないか」
そう言って絞殺者は前方を指差した。
淳一はわけがわからない内に、言われるまま、ギアをDに入れ、車を発進させた。
「キミ、"殺人鬼"と言う言葉は知っているよね?」
「……えぇ、まぁ。あなたは何者…」
「ただ、言葉通りのモノではない、本物の…種族としての"殺人鬼"というモノが、この世の中には存在しているんだ」
「……は?」
「『人を殺す鬼』……すなわち"殺人鬼"。基本は"マーダー"という呼称を使うのだがね。わかるかい?"Murder"は"人殺し"の意味だ。"殺人鬼"と漢字で書いて、"マーダー"とルビを振る、"殺人鬼"だ。我々のことだよ」
絞殺者は、これまでの不敵なものではなく、至って友好的で気さくな笑顔を淳一に向けた。
「…………え?我々って俺も?俺のことも入ってます?」
運転しながら横目に絞殺者を見ると、無言だが、とびきりの笑顔を向けてきている。「もちろんだ」ということらしい。
「…馬鹿なのか、あんた?俺…人殺し…なんかしないですよ。ってか、殺人鬼とか、マーダーとかって、それこそなんすか?ちょっとヤバいんじゃないのか、あんた。普通じゃないよ」
淳一は不機嫌そうに反論したが、なぜか目が泳ぐ。
「歯切れが悪いね。本気で馬鹿なことだと思いつつも、心当たりがあるんじゃないのかい?」
淳一は黙り込んだ。絞殺者の言葉を無視しようと、目の前の赤信号を見つめている。
「そもそも、そんな、わけのわからないヤツが車に乗り込んでいるのに、言われるままドライブを始めるキミも普通じゃない。丸岡さんの行方のことも、ろくに聞かず。私に対して何か思うところがあったのではないのかい?」
淳一は黙り込んだまま、生唾を飲んだ。
「キミ、考えたことないかい?何の関わりもない人を突然、殴りたくなったり…」
淳一の頭の中で、あの時、レジ待ちの列に並んでいた中年男性のことが思い浮かぶ。
「プラットホームから線路に人を突き落としたくなったり…」
淳一の頭の中で、あの時、電車が入って来たホームにいたサラリーマンのことが思い浮かぶ。
「顔をぐちゃぐちゃに潰したり、首を絞めたり、へし折ったり、とにかく殺したい、殺したい、殺したい、殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい、と」
淳一の頭の中で、ハルの顔が浮かび続ける。
絞殺者は無言の淳一の横顔を見ながら、再び不敵に微笑んだ。
「…青だよ」
絞殺者に言われて淳一は信号が変わっていることに気付き、アクセルを踏んだ。
「何を想像していた?今まで殺したいと思った人達のことかい?」
絞殺者は、ことごとく淳一の心を読んだような発言をする。
「……あんた、マジで何?」
淳一の心境は今、得体の知れない感覚に襲われていた。恐怖感のようで、高揚感にも似ている。不快感と心地好さが共存したような得体の知れない感覚。
「今、妙な感じじゃないかい?良い気分と悪い気分が腹の奥で混じり合うような、不思議な感覚じゃないかい?」
淳一の額に汗が滲む。
「わかるよ、私も経験したからね。"殺人鬼"として、キミはまだ蛹の状態にある。羽化するためには、想像するだけに留まらず、実行に移せ。キミは選ばれたのさ。人類より高位の存在。キミの魂は"殺人鬼"のそれへと昇華されるべきなんだ」
絞殺者の言葉は静かだが、熱が込もっている。
淳一は聞いている内に自分の中で、何かが、ざわつくのを感じ、次第に呼吸が荒くなる。心臓が痛いほどに弾んでいる。
「どう殺したい?絞め殺す?焼き殺す?斬り殺す?毒を盛る?撲る?圧し潰す?銃で撃つ?キミには無限の可能性がくすぶっている。解き放たねば罪だ。もう、人を殺したくてたまらないだろ?私の話を聞いて、自分が"殺人鬼"である可能性を見出だしただろ?自分が"殺人鬼"だと気付き始めた時点から蛹の殻は開き始める!一度、殺しに手を染めれば、その瞬間から"殺人鬼"だ!殺しによって満たされ、殺しによって癒され、殺しによって快楽を得るようになる!殺人衝動を受け入れろ!殺していいんだ、キミは!むしろ殺すべきだ!溢れる欲求を抑える必要は無い、我慢しなくていい!羽を広げろ!我々と共に飛び立とう!殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せころ…」
直後、淳一は急ハンドルを切り、歩道を突っ切って、近くの建物に突っ込んだ。
激しい破壊音が辺りに響き、周囲に悲鳴が飛び交った。
車体は左側から建物の壁を砕き、鉄骨に激突して、グシャグシャにひしゃげている。
運転席側のドアが開き、淳一が飛び出した。息を切らし、額から血を流している。
淳一は建物の中を見た。工具店だった。客はほとんどおらず、レジの方にいる店員は無傷で、こちらを凝視している。
足下に目をやると、突っ込んだ拍子に棚が倒れたのだろう、瓦礫に混じり、工具が散乱している。
淳一は屈み込んで、瓦礫をどけ、釘抜き付きのハンマーを取り上げ、それを握り締めて車へ向かう。
車のフロントガラスをハンマーで叩き割ると、ひしゃげた助手席で絞殺者が血塗れになっていた。
下半身は座席に挟まれ、左腕はメチャクチャに折れ曲がり、脇腹に鉄骨がメリ込み、全身にガラスの破片が刺さっている。
絞殺者は僅かに顔を動かすと、赤黒い血が垂れ出る口元から、掠れた声を漏らした。
「何をし…てる…?」
苦しそうに息を吸っては、忌々しそうに声を漏らす。
「ぢ…がうだろ…、私じゃな…い…だろぅが…お前が…こ…………じだいの………人間………私じゃ……ない…………マ……ダー……"殺人鬼"を…………殺ざない……キミ…は………なんだ……?」
淳一は血と汗を滴らせながら、ハンマーを振り上げた。
「俺は、あんたを、殺したい」
ハンマーを頭の上でくるりと半回転させると、釘抜きの側を、項垂れる絞殺者の頭部めがけて降り下ろした。
ハンマーが刺さったところから鈍く粘着質な音と共に血が噴き出した。刺さったハンマーを抜き、もう一度振りかぶる。ハンマーの釘抜きには乳白色のドロドロとしたモノがへばりついていた。
淳一は構わずハンマーをもう一度、絞殺者の頭部に叩き付け、また振り上げて、叩き付け、振り上げては、また叩き付けを、一心不乱に何度も繰り返した。
やがて、絞殺者の頭部と呼べる部分を抉り落とした時点で我に返った。
「…………」
呆然としながら周囲を見回す。
瓦礫だらけの店内、通りでざわめく野次馬達、メチャクチャになっている会社の車、グチャグチャになっている絞殺者。
そして手に握ったハンマーに視線を移す。赤黒い血と乳白色の脳髄とが、べったり、こびりついている。
それを見た瞬間、淳一のハンマーを握る手が震え、荒い吐息が漏れ出す口元に歪な笑みが浮かんだ。
(なんだこれ?……気持ちいい、満たされる、気分爽快!最高だ!メチャクチャ良い!)
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!!!!!」
訳もわからず淳一は叫んだ。ただ叫ばずに、いられなかった。
見開いた目から涙が流れ出て、頬にへばり着いた返り血を洗い落とす。
手の震えが徐々に引いて行き、叫び声が止んだ頃には、歪な笑みは、純粋な笑顔に変わっていた。
(すごい!すごいぞ!たった今、産まれたような気分だ!世界が新鮮に見える!)
淳一は通りに視線を移し、騒然とする人だかりを見渡した。
(もっと……、殺したい!)