『小軒田書店』
淳一のバイト先、小軒田書店はホームページにて販売書籍のネット通販と、それに加え配送サービスまでを自社で行っており、淳一はその配達業務を担当していた。
今日も朝8時に出勤してすぐに横浜市の外れから東京都大田区へと配送のためにシルバーのスズキ エブリイを運転している。会社から高速代が出ないので、下道で一時間半、渋滞があれば二時間を超える。
助手席に座るのは丸岡という60過ぎの小男で、聞くところによれば小軒田書店の社長の飲み友達だそうだ。
四年前まで勤めていた出版会社を定年退職して以降、飲み代と競馬代を稼ぎにここでバイトをしているらしいのだが、背が低く愚鈍な上、歳が歳だけに脚立に乗せたり力仕事をさせるのもまずい。さらには彼の放つ異臭は酷いもので、淳一は丸岡の近くに寄る度に…正確には淳一から彼の方へ寄って行くことはほとんど無いが…幼い頃飼っていたビーグル犬のことを思い出す。
父親が結婚前から飼っていたらしく淳一が物心ついた頃にはすでに老犬だった。死期が近付くと身体のことを考え、あまり風呂にも入れなかった。それは酷い臭いがしたものだ。
その爺さんと近距離に二人きりの車内。おまけに丸岡はチェーンスモーカーでやたらとタバコを吸う。非喫煙者の淳一からすればたまったものじゃない。
タバコの煙が及ぼす害は、吸っている本人より周りの方が大きいというのは学の無い淳一でも知っている。
丸岡のような男が吐き出す煙を吸い込んでしまうのは、まるで丸岡と同じ空気を吸っていると言うのを視覚化されているようで、淳一はそれが嫌で仕方無かった。
その上、丸岡のコーヒーを飲んだ後の口臭は、彼の体臭とタバコの臭いとを足しても上回る程の悪臭だった。
丸岡の老犬のような体臭とタバコの煙とさらに酷い口臭が漂う空気をこの狭い車内で三~四時間に渡り体内に取り入れ続ける苦しみを淳一は月曜日から金曜日まで味わうのだ。
「進まないねぇ」
丸岡が煙を吐き出しながら呟いた。
淳一は全開にした窓の外を眺めている…フリをして少しでも車内の空気を吸わないよう努めている。
「…そっすね」
あくまで事務的な相づち。淳一は出来うる限りこの男とは会話を交わしたくもないと思っている。
誰が悪いわけでもないのだろうが、淳一は丸岡を酷く嫌っていた。
移動中の交通渋滞の中にあって丸岡の放つ悪臭や煙は淳一の健康状態と精神状態を著しく害する。それにより渋滞から来る苛立ちは全て丸岡に転嫁される。加えて、丸岡は運転免許を持っていなかった。往復四時間の運転であっても、全て淳一が一人でする。おまけに寝る。丸岡はなんの遠慮も無く平然といびきをかきながら長時間運転する淳一の横で寝る。それらの条件は淳一という人間が丸岡という人間を嫌うのに充分だった。
だからと言って丸岡を自分の"相棒"から外すよう上へ直訴できるほど淳一の肝は据わっていない。
ただただ己の肺と胃が汚されていくのを泣き寝入りするだけの日々を送っていた。
そんな何の面白味も無い淳一の人生において、数少ない楽しみと呼べるのは火曜日と木曜日、バイト先で白沢ハルと会う時だった。
4ヶ月前にここでバイトを始めた一つ年下の音大生。アメリカ人と日本人のハーフで12歳までボストンで育った帰国子女。英語はもちろん、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、中国語、ヒンディー語と8ヵ国語を話す才女だ。運動も得意で趣味はランニングとボルダリング。おまけにかなり美人。ハーフとは総じてビジュアルの良い人間が多い種族だが、それを踏まえてもかなり美人。全世界のハーフ人口が何人かは知らないが、ワールド・ハーフ・ランキングがあれば間違いなくトップ10に入るだろう。
仄かに桜色が差した白い肌、触れれば赤ん坊のそれの如く柔らかであろうセミロングの見事なプラチナヘアー、瞳は薄く緑が混ざった透き通るような青、長く上向きな睫毛は銀色、唇も薄すぎず厚すぎない品のある形と色、加えて身体つきは日本人女性特有の華奢で小柄、細身ではあるが痩せ過ぎず健康的。
まさに才色兼備の完璧超人である。
「あ、淳一くん、お疲れ様です!」
配送から帰った淳一をハルは快い笑顔で迎えてくれた。
アメリカ仕込みのフレンドリー精神を有するハルは誰にでも明るく接する"とても良い娘"だった。
「お疲れ様、ハルちゃん」
ファーストネームで呼んで欲しいとはハルの言葉だった。それのお陰で淳一はハルのことを『ハルちゃん』と呼べている。
ハルの姿を見ているだけで淳一は今日一日丸岡に害された内臓が洗浄されるような気持ちだった。
しかも、歳が近く、(小心者がゆえに)飾りっ気の無い淳一にハルはとても親しく接していた。
淳一は高校時代、ほとんどの勉強は苦手だったが唯一国語だけは得意だった。
漢字に強い淳一にハルは本のタイトルや作家の名前など難しい漢字の読み方をよく教わりに来るし、実は181cmの長身を誇る淳一は小柄なハルにとって書店という場所ではとても頼りになるのだ。
「この作家さんの読み方ってわかります?『ゆうかわ ひろし』さん?」
書店のバックヤードで本のポップを作る作業をしていたハルは一冊の本を淳一に見せてきた。
「あぁ、これ『有川浩』って読むんだよ。女の人」
淳一はハルが作業をする長机の斜め向かいにパイプ椅子を引っ張って来て腰かけた。
「あっ、そうなんですか!女の人」
もっとも、漢字に強い淳一だが、元来作家の名前というのは難しい読み方をするものがある。それはもう漢字に対する知識がある程度有る程度ではどうにもならないものがある。淳一は最初に『万城目学』の読み方を聞かれた時から、難解な読み方をする作家達の名前をせせこましく勉強したのだ。
少しでも人に……否、白沢ハルに頼られたいという、いかにも小さな人間のする努力である。無軌道がゆえ目先のものしか見えていないから、努力の仕方が下手とも言える。
「淳一くん、やっぱり物知りですねぇ」
もはや決まり文句と化した誉め言葉を呟きながらハルはポップ作成作業を再開した。ハルが机に向かうため下を向くと、柔らかなプラチナヘアーがさらさらと流れるように垂れ下がっていく、その様子は神々しいとも言える。
淳一はしばし、その斜め横顔に見蕩れていたが、はっと我に返ったように目を反らした。あまりに美しいがゆえ、直視するのすら気恥ずかしくなったのだ。
目を反らした先はハルの手元で、作成中のポップが目に入った。ハルのポップは色使いや書体などが、いかにもアメリカ仕込みと言った感じの非常にダイナミックな物だった。
「派手なポップだね」
と、言いそうになったがやめた。
何気無い一言ではあるのだろうが、ひょっとしたら気分を害されるかも知れない。
ハルは"とても良い娘"だから機嫌を損ねても露骨に態度には出さないだろう。と言うか絶対我慢してくれるに違いない。なんなら大して気にしないかも知れない。だが、どれだけ小さな要因も溜まり溜まれば"人を嫌う条件"に成り得るのだ。と、言うことを淳一は、なんとなくだが理解していた。
丸岡も何気無くタバコを吸っていただけだし、悪意があって免許を持たないわけでもないし、わざと臭いわけではないのだろうし、渋滞の原因も丸岡じゃない。だが、嫌いだ。道を行く若い女を目で追ったり、おもしろくもないことを呟いてはこっちを見ながら笑ったり、無遠慮に寝たり。それらの言動には悪気は一切無いのだろう。だが、嫌いなものは嫌いだ。
そういうことも有り得るのだから、気を付けなくては。
決して角が立たぬよう、周りに合わせて"形"を変えることで、隙間の中で生きていく。それを淳一は"処世術"と呼んでいるが、世間一般では"泣き寝入り"と呼ぶことに淳一本人は気付いていない。
数十秒経ったが二人の間には沈黙が続いていた。淳一から何か話を振ることはほとんど無いし、ハルは今ポップ作成に夢中だからだ。
淳一はケータイをいじるフリをしながらハルの様子をチラチラと窺っている。
色々なポスターカラーを使いながらポップ作成に入れ込む姿はまるでお絵描き遊びをする子供のようで、表情も心無しかあどけなく見える。それは普段の"美しいハル"とはまた一味違う"愛らしいハル"の姿だった。
そんなハルを盗み見ていた淳一はふと良からぬことを思案し始めた。
それは性的な妄想などの類いではなく、もっと狂暴で凶悪なこと……。
「今この場で突然、彼女の側頭部目掛けて拳を振り抜いたらどうなるだろう?」
性的な欲求を遂行する手段としての暴力ではなく、純粋なただの暴力。
淳一はその妄想自体にさして違和感は覚えなかった。よくあることだからだ。昔から不穏なことを考えるヤツだったのだ。
スーパーでレジ待ちの列、自分の前に並んでいる中年の男性を見た時のこと。
「今この人を殴ったらどうなるだろうな?殴ろうかな」
高校の時、通学のためにホームで電車を待っていた。電車が見えてきた時、目の前に立っていたサラリーマンを見てふと思った。
「この人を今蹴り落としたら大変なことになるな。やってみようかな?」
丸岡のように酷く嫌っている人間ならまだしも、好意的なハルはおろか、自分とは何の関わりも無い中年男やサラリーマン、それ以外にも老若男女、嫌いな者、好きな者、どちらでも無い者、自分とは何の関係も無い者に対し、このような暴力衝動を感じてきた。
思いはするが決して実行に移すような馬鹿なことはしない。どうしようもなくやってみたくはなるのだが、自制は効いてるし理性もある。自分でも危ないヤツだとは思うけど、ヤバいヤツではないと思う。
ハルに対してこの暴力衝動を感じるのも初めてじゃない。別に特別な条件などは無く、こうしてバックヤードに二人きりの時、店内で本を並べるハルを見ている時、ふと感じるのだ。純粋な暴力衝動を……。
夕方5時過ぎ。淳一は中古のZOOMERを走らせて帰路に着いていた。
交差点で信号待ちをしている折り、向かいの歩道にいた、ある人物が目にとまった。見たことは無い人だった。
歳は若い、淳一と変わらないと思う。その見た目は一言で言えば性別不詳。男にも見えるが女にも見える、目鼻立ちの整った顔、眉目秀麗であり容姿端麗だ。体型や服装からも性別はわからない。
"その人"を見た瞬間、淳一はまたあの衝動にかられた。
今、あの人目掛けて原付で突っ込んだらどうなるだろう?
淳一は、ぼーっとそのようなことを考えていた。
ふと、"その人"は淳一のことを見た……ような気がした。否、確かに"その人"は淳一を見ている。確実に目が合っている。淳一はどきりとして目を反らした。"その人"と目が合ったことで自分が思い浮かべたことが見透かされたような気持ちになったからだ。
何とも無しに再び視線を戻してみると、"その人"はまだこちらを見ていた。しかも、気味の悪いことに"その人"は笑っていた。表情からするに微笑んでいたという表現が適切かも知れないが、淳一にはなぜか"その人"の嬉々とした感情が伝わって来た。それがより不気味でならなかった。
その後は、何事も無くコンビニに寄ってから家に帰り、シャワーを浴び、インスタントラーメンを食べ、二時間ほどテレビを観、三時間ほどマンガを読んでから、眠りに就いた。