最終話、【未来】。
それは、朝と呼ぶにはまだまだ早い、深夜二十何時と呼んだ方がしっくりくるような時間帯の出来事であった。
心の重しから完全に解き放たれた香耶と、超健康優良児の佐久夜が、百合ちっくに絡み合ってぐっすりと健やかに眠る中。二人の間に挟まれて声も無くうんうん唸っていたはずの詩乃梨さんが、まるで人の手から抜け出す猫のようにするりと縄抜けして、ベッドの横へ音も無く降り立った。
そして、何の気なしにベッドを振り返った様子の詩乃梨さんは――不意に俺とばっちり目があって、ぎょっとした顔をした。
「……こたろー、起きて、る?」
「……まあね」
人の顔の造詣すら朧気になる暗闇の中、俺の鼻先まで寄ってきて小声で問うてくる詩乃梨さん。俺は彼女に短く返事をしながら、布団から腕だけ伸ばして銀髪をそっと撫でてあげた。
俺が起きていたのは、本当にたまたまだ。ふと眠りの浅くなった瞬間に、すぐ隣で眠ってる三人娘のぬくもりや香りを意識してしまい、どうにも下心と下半身の収まりがつかなくなっちゃって、トイレでソロ活動してくるかどうしようか小一時間くらい迷っていたというね。でももうソロ活動する気無くなっちゃった。だってしのりんが起きてくれたんだもん、こっからはデュオ活動だぜひゃっはー!
とは、ならないような雰囲気だ。詩乃梨さんは、彼女の頭を撫でていた俺の手をそっと握ると、人を観察する猫の眼光で俺の瞳を射貫いてきた。
「こたろー、起きてる?」
「……いや、だから、起きてるってばよ」
「………………もしかして、わたしのこと、待ってた? ……約束、あるから」
おっと、唐突に核心を突かれてしまったぞ。そう、俺はあの約束によってソロ活動することが許されない身でありましたゆえ、この小一時間の間、猛る性欲に煩悶とする傍らで、詩乃梨さんに覚醒を促す怪電波を送っていたのであります。え、あの約束って何かって? 『射精も管理してください』ってやつですはい。
でも、詩乃梨さんはあんまりえっちな空気醸し出してないから、これたぶん別件について話してますね、彼女。
そう判断した俺は、寝てる子達を起こさぬように気を付けながら、そろりとベッドから抜け出して、改めて詩乃梨さんと向き合った。
未だ俺の手を両手で握ったままの詩乃梨さん。未だ、俺の心の裡を知りたいと願うような瞳を向けてくる詩乃梨さん。俺はそんな詩乃梨さんの瞳を真っ直ぐに見つめながら、思い当たる『別件』について口にした。
「一緒に、ご本、読むかい?」
「――うん。読む!」
弾んだ声でお返事してくれた詩乃梨さんに、俺は自由な方の手で『静かに』とジェスチャーした。詩乃梨さんは慌てて唇にぐっと力を込めて息すらも押し殺し、おそるおそるベッドを見下ろす。
佐久夜が一瞬「ん~?」とか寝言漏らしながら眼を開けかけたけれど、そこに香耶が同じく「ん~」とか寝言漏らしながらより一層しっかりと抱き付いていって、二人して「んふ~♡」としあわせそうなため息と共に深い眠りへ落ちていった。
こいつら、ほんと仲良いよな。寝てる時も、それに勿論、起きてる時も。
そんな感想を共有して、俺と詩乃梨さんは見合わせた顔を笑顔へ変えた。
◆◇◆◇◆
寝間着から着替えぬまま、俺と詩乃梨さんは、それぞれ本を一冊ずつ手に持って部屋を出た。
蛍光灯に照らされた共用廊下を、寝ぼけ眼をこしこし擦り、欠伸をふわぁっと漏らし、目的の場所まで二人仲良くだらだら歩く。
用の無い人ならまず来ない、半ば物置と化している最上階の最果て。蛍光灯の加護すら及ばぬ薄暗いその一角、その先にある階段の、更にその向こう側へと、鉄扉を押し退け、歩み出る。
ひゅるりと吹き抜ける、冷たくて静かな夜の風。それを胸一杯に吸い込みながら、俺と彼女は、扉を背にして二人並んで夜空を仰ぐ。
思ったよりも朝に近い時間だったのか、夜の底がほんの僅かに白く煙っている気がする。或いは、あれは都会の光なのだろうか。いずれにせよ、明かりは夜を駆逐するには至ってなくて、空は黒いし、辺りも暗い。
……本、読めねぇじゃん……。
「こたろー」
「おう」
詩乃梨さんに台詞でも仕草でもなく雰囲気で促されて、いつものベンチへ並んで腰を下ろした。
夜露に湿気った木の感触は、お世辞にも心地の良いものとは言えない。けれど、俺と詩乃梨さんの口から出て来たのは、心底落ち着くといったようなゆるゆる緩みきったため息だった。
しばしの後。呆けたツラで夜空を見上げる俺に、詩乃梨さんがそっと何かを差し出して来た。何の気無しにそれを受け取った俺は、ぷしりと音を立てて開封し、くぴりと一口啜る。
「……冷てぇ」
「む。文句有るなら、あっためてくれば?」
「いや、文句無いけど。でもどうせなら、詩乃梨さんが脇とか股とか胸に挟んであっためとくとか、そういうサービスを――あ、ごめん、今の無し。そんなことしたら詩乃梨さんの身体が冷えちゃう」
「………………却下の理由、そこなんだ……」
詩乃梨さんは一瞬ドン引きして見せてきたけど、すぐに心底嬉しそうに微笑んでくれた。微笑んだまま、詩乃梨さんも手にした缶コーヒーをこくんと一口飲み込んで――一転、くしゃりと渋面を浮かべる。
「……むぅ。つめたい……」
「だから言ってんじゃん。これ冷蔵庫から持って来たの? 隣に、常温放置のやつ有ったのに」
「先に言ってよ、ばか……。……でも、常温は常温で、なんかヤじゃない?」
「まぁな。飲むならホットかアイスだよな」
「うん」
どうでもいい雑談を交わしながら、またアイスコーヒーを一口くぴり。そしてまた冷たいつめたい文句言いながら、顔をしかめたり、笑ったり。
気付けば、俺と詩乃梨さんは、冷たくなった互いの身体を温め合うようにぴったりと寄り添っていた。柔らかくて薄い寝間着越しに感じる、詩乃梨さんの温もり、香り、存在、愛情。それは、直接的な性行為とはまた異なる種類の快楽を、俺へと与えてくれた。
同じものを俺によって与えられて、詩乃梨さんもすっかりごきげんさんである。不意にぷひりと吹き出した彼女は、その笑いの理由をわざわざ語ることもせず――語るまでもないといった風情で、俺を肴にコーヒーを楽しむ。或いは、コーヒーを肴に俺を楽しむ。
やがて、中身なんてろくにない会話によって、心にしあわせをめいっぱい充填し終えた頃。空になった缶を脇に置いた俺達は、少し仕切り直すような気持ちで、手にしていた本の表紙を互いに見せ合った。
詩乃梨さんが見せてきたのは、ちょっと高級で分厚い本。俺が見せてるのは、ちょっと安っぽい雑誌。どちらも、俺が今日街で買って来たものだ。タイトルはずばり、
「『おはよう、あかちゃん』。……すごく、直球だね、名前。……すっごく、こたろーらしいかも」
「詩乃梨さんの中の俺が男らしいのかただのアホなのか、追求したい所ではあるけど要らぬ自爆はやめておこうか。ほらほら、こっちも見て見て、『月刊わんにゃんふぇすてぃぼー』! ほらほら、お猫様だぞー、お犬様だぞー! 巻頭特集は何故かフェレットだけど……」
「ふぇれっと? ………………え、それ、イタチじゃないの?」
「あ、フェレット知らないのか? じゃあちょうどいいな、これ読めばちょっとしたフェレット博士になれちゃうぞー。早速読む?」
「……それより先に、こっち読もうよ……というか、なんでフェレットなの? ………………じゃなくて、なんでペット雑誌なの?」
「それは、こう、将来的にそういうのもアリかなって」
単に、動物が好きだからいつか飼いたいなってのはある。でも実の所は、詩乃梨さんをいつだって独りぼっちにしたくないからとか、育児で疲れた心の癒やしにとか、そういう気持ちの方が大きかったり。
詩乃梨さんは「しょうらい……」と小さく反芻すると、見せてきていた本をそっとふとももの上に置き、表紙に描かれている夫婦とあかちゃんのイラストをそっと撫でた。
撫でられた家族は、しあわせそうに微笑んでいる。けれど、詩乃梨さんの横顔は、どこか物憂げで、優れない。
「………………………………」
俺は、詩乃梨さんに倣って雑誌を自らの太股の上に置き、表紙のフェレットをそっと撫でてみた。
白くて、ちっちゃくて、かわいくて、まるで詩乃梨さんみたいだ。しのりん愛してる。大好きだよ。
大好きだから、もっともっと、きみの気持ちが知りたい。きみが何を楽しく思うのかも、きみが何をそんなに憂えているのかも、俺は余すところなく全部ぜんぶ知りたいんだ。
「……何か、不安なのか? 将来について」
もう少し遠回しに探ってみようかとも思ったけど、この上なくストレートな台詞しか出てこなかった。
詩乃梨さんは猫又な銀髪をぶんぶん揺らして首を横に振り、何らかの言葉を紡ごうとした。けれど、彼女の口からは何の音も出てこなくて、すっかり俯いて黙り込んでしまう。
黙り込む……というより、どうも悄気返っている雰囲気だ。彼女の横顔からは、憂いが消えた代わりに、怒られるのを待つ子供のような、恐怖や情けなさがない交ぜになったせつない感情が漏れ出ている。
怒られる。誰に?
「……………………俺か」
ぽそり、と。自問自答の欠片がまろび出てしまい、神経が過敏になっているであろう詩乃梨さんがびくりと肩を跳ねさせた。
俺はフォローを入れる間を惜しんで、しばし考える。
俺と詩乃梨さんの将来。結婚。あかちゃん。ペット。しあわせな家族、家庭。そのどこにも、詩乃梨さんが憂いを覚える必要も、俺に怒られなきゃいけないような要素もない。俺達の将来には、俺が望み、詩乃梨さんが望んだ、しあわせな未来が待っている。
しあわせで。しあわせすぎて――、怖い、とかだろうか? マリッジブルー的なあれ? 過ぎた幸せは不幸の到来を強く予感させるとか、そういうあれ?
「……こたろー、は」
あれこれ考え込む俺を見かねてか、詩乃梨さんは微妙に目を合わせてくれないけれど声をかけてきてくれた。
「……こたろーは、すごいね」
「俺、凄い。…………え、なにが?」
「……………こたろーは、きっと、わたしとの未来、見えてるんだよね。……結婚とか、家買うとか、子供作るとか、ペット飼うとか、そういうの、ぜんぶ、現実的に、想像できてるんだよね。………………わたしみたいな、ただ『こたろーとずっとずっと一緒にいたい』って、ただ『いっぱいしあわせになりたいな』って、そんな子供っぽい気持ちでわーわー言ってるんじゃなくてさ」
そして詩乃梨さんは、「こたろーは、やっぱりおとなだね」と、自嘲の滲む微笑みを浮かべた。
その微笑みは、いつか満月の下で彼女が浮かべたそれと、全く同じで。俺の全く望まぬ方向に、どこまでもどこまでも、ひどく大人びて見えた。
ああ。やっぱり、そうか。詩乃梨さんは――怖がってるんだ。あの時と、同じように。
「………………………………」
俯くことをやめた詩乃梨さんは、けれどやはり俺と目を合わせてはくれず、ただ夜空を視界に映した。
気付けば、だいぶ朝が近付いてきていたようだ。昇り来る朝日の前触れが、街の光とは明らかに異なる質の燐光となって、夜の闇を底の方からじわじわと嬲っている。
もうすぐ朝がくる。――詩乃梨さんの心の闇を拭えぬままに、この夜が終わりを告げることになる。
俺は、今すぐ彼女の不安を打ち払えるような、そんな魔法や奇跡を持ち合わせてはいない。思いつく限りの愛の言葉を囁いても、もう一度結婚を申し込んでも、改めて婚約指輪を贈っても、詩乃梨さんの心を蝕む『将来』という不確定で曖昧な敵の前には、あらゆる抵抗が無意味になる。とんだチート野郎だ。異世界転生してないリーマンと、ただのガワでしかない雷龍さんでは、どう足掻いたって勝ち目などありはしない無い。
今は、勝てない。
ならば、やることは決まっている。
「なあ、詩乃梨」
俺はひょいっと立ち上がり、雑誌で詩乃梨さんの頭をぺふぺふ叩きながら、彼女の名を呼んだ。
詩乃梨さんは、若干鬱陶しそうに――鬱陶しそうな演技をしながら、俺の攻撃を手でぞんざいに払いのける。
そして、久方ぶりに、俺と彼女の視線が真っ直ぐに交わった。
「だから、なんで、いきなり呼び捨て?」
「気分だ。特に意味は無い」
「……きぶんで、異性のふぁーすとねーむを、呼び捨てにする男。……どいむらこたろう、まじうける」
「おーおー、盛大にウケておくんなまし。ま、そのうちほんとに呼び捨てをデフォルトにさせてもらうけどな。勿論、詩乃梨さんが嫌じゃなければだけど」
「……………………い、いやじゃ、な――」
「まあ今はしないけどな! あっはっは!」
俺は再び雑誌でぺふぺふして、詩乃梨さんの台詞を遮った。
詩乃梨さんは、今度は払いのけるのではなくしっかりと両手で雑誌を握り、それに齧り付くような気迫と怨念を滲ませながらじろりと睨み付けてくる。このままだと荒ぶる雷龍さんに手ごと噛み千切られてしまいかねないので、俺はさっさと言いたいことを言ってしまうことにした。
「今は、しない。けれど、いずれ、する。名前を呼び捨てにするのもそうだし、それに結婚も、赤ちゃんも、あとペット飼うとか、家買うとか、そういうの、全部、いつか、絶対にやる」
「…………………………あ、う、うん、はい、うん、はい、うん……。へ、へぇ~?」
詩乃梨さんが思いの外チョロかった。赤くなった顔を雑誌で隠そうと頑張っていらっしゃる、させないけどな、絶対俺はこの手を雑誌から離さずに貴女の真っ赤なお顔を堪能し続けるけどな。いやそうじゃねぇ、実は魔法も奇跡も既に持ち合わせてたみたいな感じになっちゃってるけど、俺が言いたいことはこっから先です。
だから、俺は。詩乃梨さんの揺れる瞳をしっかりと見つめて、想いを告げた。
「積み重ねよう。そういう、『将来や未来の俺達』に、危なげなく至れるまで。一歩ずつ、俺達のペースで、経験値稼いでこうぜ。
――俺と詩乃梨さんが手に入れる幸せが、魔法や奇跡の類じゃ無くて、『手に入れて当然のもの』なんだって思えるようになるまで、俺と一緒に地道にがんばっていきまっしょい!」
言い切って、全力全開で笑顔を見せつける俺。
詩乃梨さんは、返事をせずに、俺を見つめ続ける。
とっても呆けたようなお顔だ。詩乃梨さんはこんな表情もとても愛らしい。詩乃梨さんの、何もかもが、愛らしくて、愛おしい。
羞恥か歓喜かわからないけど、どんどん朱に染まりゆくほっぺた、たまらなく愛おしい。薄い生地に包まれただけの、女の子らしい美味しそうな肢体、たまらなく愛おしい。いつか大人になって、それより更に大人になって、やがて墓に入るその日まで、俺はこの娘を、この女性を、俺が愛した幸峰詩乃梨というひとを、ずっとずっと愛し続ける。
愛してる。
「愛してるよ、詩乃梨」
あ、うっかり本音がぽろり。しかもファーストネーム呼び捨てのフライング付き。
詩乃梨さんは、とうとう羞恥が限界を突破したのか、泣き出す寸前みたいに真っ赤な顔を歪め、目尻にじわりと涙を浮かべる。
そうして、ついに、朝が来た。
夜に覆われていた屋上に、ぼんやりとした白い光が差してくる。
詩乃梨さんの座る木のベンチにも、夜明けの光は降り注ぐ。
詩乃梨さんの寝間着が淡く輝いて、詩乃梨さんの白い肌がやさしく輝いて、詩乃梨さんの銀色の髪が神秘的に輝いて。
詩乃梨さんの目尻から零れた、一筋の涙が。そして、詩乃梨さんの浮かべた、ちょっと情けさの漂うあほっぽい笑顔が、誰よりも、何よりも、どこまでも鮮烈に輝いて。
そして詩乃梨さんは、長い沈黙の果てに、ようやく口を開き――。
◆◇◆◇◆
この日記は、ここまでで終わっている。
けれど、こんな所で終わられてしまっては、彼女の台詞が気になって、彼と彼女の未来が気になって仕方がない。実は知っているけれど、でも好きな物語は何回だって読みたいじゃないか。
だから私は、読み終えた日記をテーブルの端にそっと置いて、次の日記を手に取った。
表紙に指を掛け、彼と彼女の日常の続きを垣間見る、その前に。ふと顔を上げて、テーブルの中央に置いておいた、栞代わりの紙切れに目を向ける。
使い込まれて色あせたそれは、一枚の写真。
長い時を経て尚、未だ色あせることの無い『しあわせ』を写し取ったそれには、ある一組の男女と、二人の腕に抱かれた赤子が映っている。
情けない雰囲気で謝っている、三十歳手前くらいの優しそうな男性。
何事かを怒っている様子だけど、瞳に優しさと愛情を称えている、銀色の髪の若い女性。
そんな二人のことなんて何処吹く風で、ゆるみきっただらしない寝顔を見せている、しあわせ満喫中の赤ちゃん。
この写真に写っているのが誰なのか、明言するのはやめておこう。ここまで言ってしまったら明言してるのと同じかもしれないが、これはネタバレを回避するための、私なりのささやかな抵抗だ。
そして私は、日記をめくる。
未だ確定していない、この日記に描かれた彼と彼女の未来へと、一ページずつ、たいせつに読み進めていく。
彼らの未来に待ち受けているのは、この写真に写るしあわせいっぱいの家族なのか、はたまた、全く別の未来地図なのか。
初夏の風が吹き込む、街角の小さな喫茶店にて。私は、コーヒー片手に、彼と彼女の物語の続きを、ゆるりと読み進めていくのだった。
――つ・づ・く?




