★五月二日(火・8)。飢える心が、人を人たらしめる。
そして、言葉は降り積もる。
ひとつひとつは、放っておけば溶けてしまうような、或いは風に乗って何処かへ消え去ってしまうような、取るに足らない台詞達。けれど俺と三人の少女達は、舞い落ちる粉雪を手のひらでそっと包むように、その儚い冷たさによって引き立てられる確かなあたたかさを慈しむように、たいせつに言葉を交わしていった。
食事の熱が残る室内。いっぱいに満たされたお腹。程良い眠気に、更なる微睡みを誘うかのような弛緩しきった雰囲気。
佐久夜が、普段より穏やかな、素っぽいテンションだったり。香耶が、平素のえもいわれぬ内気さが感じられない、安らぎに満ちた面持ちだったり。詩乃梨さんが、常から考えられないほどに、とっても素直な家猫さんだったり。俺が、いつもみたいに馬鹿臭ぇなんて言わないで、思ったことをそのまま口にできてたり。
そのあまりに居心地の良すぎる空気は、俺達から心の防壁を丸ごと奪い去り、それぞれが身の裡に秘めていた『禁忌の領域』までをもあっさりと引きずり出した。
――『家族』。それに、『友達』。
平たく言えば、人間関係。それは、この人間失格な俺のみならず、俺とは年齢も性別も生まれも異なる三人の少女達にとっても、あまり触れたくも触れられたくもない領域であるらしかった。
その不可侵の領域を、俺達は。綺麗に片付け終わったこたつに、追加のアイスやお茶やコーヒーを並べて、談笑混じりに口にする。
「――わたしは、そんな感じ。……まあ、べつに、要らない子でもいいんだけどね。わたしのこと『ちょー欲しい!』って言ってくれるひと、もういるもん」
俺の両手両足に包まれて体育座りしてる詩乃梨さんは、心なしか晴れやかになった声調で話を締めくくると、缶コーヒーをずずりと啜って喋り疲れたのどを癒した。
詩乃梨さんの話を聞いた佐久夜と香耶は、特に深刻な表情になるでもなく、それぞれお茶とコーヒーをちびちびやりながらだらけきった吐息を漏らす。
「なんや、通しで聞くとやっぱ大変な身の上やね、しのちー。……かやちーの聞いた時も思ったけど、うち、なんか『のほほんと生きてきてえらいすんません』って感じやわぁ~……。うっほ、お茶うめー」
「全然申し訳なさそうな空気無いですよね、佐久夜ちゃん……。まあ、もし佐久夜ちゃんがそんな殊勝な態度を取ったら、まじウケしてやりますけど」
まじウケるの呪い、あまりにも感染力高すぎである。そういえば例の猿のお嬢さんって、この子達にとってどういう立ち位置なんだろう。今のとこ俺とは直接的な絡みが無いけど、いずれは猿のお嬢さんもこの輪に加わったりするのだろうか。とまぁ、それはさておき。
今し方語られた詩乃梨さんの過去は、俺にとっても、それにたぶん佐久夜と香耶にとっても、初めて聞いた内容では無かった。でも今改めて語られたそれは、これまで以上に情報量に溢れていて、俺にとってほぼ未知であった『ロリしのりん』について何となく想像できるレベルであった。
詳細を思い返して咀嚼するのは、またの機会に譲るとして。俺はとりあず、詩乃梨さんのケモミミをぽんぽんと撫でて『おつかれさま』と気持ちを伝えた。
ごろにゃんと鳴きそうな勢いで身体を擦り寄せてくる詩乃梨さんに頬を緩ませつつ、詩乃梨さんに次いでおつかれさまな香耶に話題を振ってみる。
「香耶もけっこう苦労してんだな。佐久夜じゃないけど、ほんと俺も『のほほんと生きててめんご』って感じだわ。お詫びと労いってことで、明日の朝はお前にたこやき焼かせてやるから、美味しいの食わせてね」
「……えっ、た、たこ焼き? …………えっと、あの、それ、お詫びでも労いでもなく、単に労働させてるだけじゃ……?」
「何言ってんだ、たこ焼きを焼かせてもらえるなんてご褒美だろ。綺麗にくりんってひっくり返せた時のあの『どやぁ』みたいな快感は、筆舌に尽くしがたいものがあるね」
「…………はぁ。そうですか……?」
香耶はいまいちわかっていない様子だったけど、佐久夜がすすっと身を乗り出して来てうんうんと同意の首肯を見せてくれた。
「そうそう、あれめっちゃ楽しいよー。外はカリカリ、中はとろとろ、あまりに上手に焼けすぎて『あれっ、うちってもしかしてこれで一生食っていける……?』みたいな、全能感? 高揚感? が、胸の中でぽかぽかしてさー」
「……ねえ佐久夜ちゃん、琥太郎さんが『そこまで言ってねぇよ』みたいな顔でドン引きしてますけど、気付いてますか? それに詩乃梨ちゃんだって……。……………………あれ、詩乃梨ちゃん……?」
俺の位置からは見えないけど、どうやら詩乃梨さんは佐久夜の味方してるような表情であるらしい。戸惑う香耶に、詩乃梨さんは端的に一言。
「一緒に、やろ?」
「……一緒に、ですか? ……………………詩乃梨ちゃんと、私が、初めての共同作業?」
「? うん。……わたしも、たこ焼き、焼いてみたい。さくやの家とか、こたろーの家とか、あと他の『一般的なご家庭』でも、そういうのってふつーにやるものなんでしょ? ……なら、後学のために、一回やってもいいかなって」
後学。おそらく、ここで学んだそれは、後ほど俺と詩乃梨さんが築く家庭で活かされることになるのだろう。おそらくどころではなく、詩乃梨さんの態度も雰囲気も思いっきり『そうだ』って仰ってる。
なんかもう、詩乃梨さんったら、吹っ切れちゃってるレベルで俺とのしあわせな家族生活を信じて疑っていないみたい。そんな詩乃梨さんにあてられて、俺まで『ああ、そっか』なんて妙に納得して、彼女の思い描く未来を共有してます。
ああ、そっか。うん、そうだ。俺、この娘と、一生一緒に生きていくんだ。
「……ああ、そっか」
何度も何度も、心の中で、口の中で、その言葉を繰り返す。
俺は、本当に、手に入れたんだな。ずっと欲しくてたまらなくて、一度はどうせ手に入らないと諦めて人生ごと投げ捨てようとして、けれどなんとか頑張って死にものぐるいで生き抜いてきた果てに、ようやく『それ』を手に入れることができたんだ。
未来。希望。夢。生への欲求。将来への渇望、希求。生きる目的、意思。熱意。決意。生きる意味。生きたい。生きていきたい。詩乃梨さんと一緒に、ずっとずっと、末永くしあわせに生きていきたい。
俺は――生きる。
「――――――――――――――」
かちり、と。音を立てて、俺の中に空いていた欠落が、物の見事にしっかりと埋められた。それは、眼に見えている景色ががらりと一変するほどに劇的でありながら、どこまでも何気なくてどこまでも自然な変化だった。
そんなふうに唐突に覚醒した俺のほっぺを、『こいつさっきから喋ってないけど寝てんじゃね?』とでも言いたげな手付きでぞんざいに叩いてくる、マイスイートハニー有り。
「こたろー、聞いてる? ……………もう、歯磨いて、寝ちゃう? お風呂どうする?」
「一緒に入ろう」
俺、即答であった。ちなみに下心など一ミリもありません。
詩乃梨さんは一瞬呆けたように硬直したけど、ぐむむと悩ましげに唸りながら佐久夜と香耶の方へちろりと視線を送り、ビミョーな表情で半笑いしてる二人を見ながらぽしょぽしょと言葉を返してきた。
「……今日は、ふたりと、一緒に入ろって、やくそく、しちゃってた――」
「問題無い。みんなで一緒に入ろう」
俺、またしても即答であった。重ねて言うが、今の俺には下心など皆無である。
でも、下心が無いってことは『純粋にみんなとマジで混浴したがっている』ってことなので、はい、これには流石にみんな完っ全にビシリと凍り付いてしまいました。あっちゃー、これはちょっと調子に乗り過ぎちゃったかしらぁ? でも俺、ほんと下心なくて、みんなと一緒にお風呂入りたいだけなんだけど、駄目なの? えっちなことしないよ?
「……俺は……」
弁解のためではなく、ただただ真っ直ぐに想いを伝えるためだけに、俺は口を開いた。
「俺は、みんなが嫌じゃないなら、一緒にお風呂、入りたい」
この上なくはっきりと。ただ単純にそうしたいから、素直に『そうしたい』と告げた。
俺がどこまでも本気であることを完全に理解して、佐久夜と香耶が見開いた眼で俺をガン見しながら小さく奇声を上げ始める。なんだその声とツッコミ入れたいけど、今迂闊に刺激すると二人の灼熱のお顔が限界を超えて鼻血ブーになりそうだからやめとこう。
のんびりとコーヒーを啜りだした俺に、詩乃梨さんが後頭部でこつこつとノックしてきながら不思議そうに問うてきた。
「こたろー、それ、ほんきだよね? ……普通、それ、断られるよ? ………………断られちゃったら、こたろー、また傷つくんじゃない? また、『ばかくせぇ』って、泣いちゃう――」
「ま、その時はその時だな。もし泣いちまったら、詩乃梨さんが慰めてくれ」
「……? ……………なぜかこたろーくんが、斜め上とか下の方向に、男らしさ満点です。……かっこいいけど、かっこいいんだけど、なんでいきなり大変身? 今の話の中で、何かあったの? それ、どこ?」
疑問符浮かべまくりな詩乃梨さんに、俺は思わず軽く笑い声を上げながら、優しい抱擁と共に回答する。
「俺には、いつだって、詩乃梨さんがいてくれる。……それさえわかってれば、俺はもう、何も怖くなんかない」
「……………………それ、答えに、なってる?」
「なってるなってる、ちょーなってる。……ははっ」
俺はまた笑いながら、詩乃梨さんの頭をぐりぐりと撫で回した。この胸の内から込み上げてくる強い生命エネルギーが、俺に謎の全能感をもたらしている。俺、最強。たこ焼きを上手に焼く前から既にテンションはクライマックスであった。
詩乃梨さんは、とりあえず俺が底抜けにごきげんさんだってことだけは理解できたみたいで、『じゃ、いっか』みたいな感じで疑問符をポイしてコーヒーを啜った。
ほぅっと一息ついた詩乃梨さんは、いつの間にか身を寄せ合って震えてた佐久夜と香耶に声を放る。
「こたろーも、お風呂一緒でいい?」
『いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや!』
「………………嫌なの?」
首を横にぶんぶん振りまくってた二人は、詩乃梨さんが確認のために発した台詞に対しても、また首を横へぶんぶんぶんぶん。
ひとしきり首を振り終えた二人は、くわんくわんと頭を揺らしながらノックダウン。こたつの向こうへ倒れた香耶はそのまま沈黙し、壁にごちんと頭を打ち付けた佐久夜はひくひく引きつる口をおそるおそる開く。
「………………しのちーは、それで、ええの……? こたちー、おもっきし、浮気やないの?」
「ん。浮気じゃない。よくわかんないけど、今のこたろー、わたししか眼中にない。……いつもそうだけど、でも、今はもっともっとわたしに夢中」
「…………………………なんで、しのちーに夢中なのに、うちやかやちーと混浴したがってはりますの?」
「一緒に入りたいから」
詩乃梨さんが口にした単純明快な答えに、俺は無言でうむうむと首肯した。
土井村夫妻のタッグ攻撃を受け、佐久夜は言葉を失ってひょろりとした奇声を上げるだけの置物と化してしまった。混浴を本気で嫌がっている気配は無いが、承諾してくれるかどうかは五分五分といったところだろうか。つまり五分の確率で一緒にお風呂入ってくれそう。え、それすごくない?
では香耶の方はどうかな、と思って視線を移してみたが、こたつが邪魔でうまく見えない。……ていうか香耶のやつ、俺の視線から逃れるためにわざと身体を縮めてこたつを盾にしてみるみたいだ。
「……香耶ー、俺もみんなと一緒にお風呂入りたいよーぅ」
「…………………………ありえないでーす……」
ありえない言いつつ、香耶もそんなに本気で拒否ってる感じはしない。でも混浴承諾確率は、いいとこ三分ってところかな。つまり三分の確率で一緒にお風呂はいってくれそう。え、それすごくない?
ふむ、どーしよ。いつもの俺だったらここらで『ごめん、嫌ならいいよ』と一旦身を引くか、そもそも女の子達のきゃっきゃうふふの邪魔をしないようにと最初っから混浴だなんて言い出さない、みたいな感じだろう。でも俺今無敵モード入っちゃってるから、本気で嫌がられてるわけじゃないなら、このまま望みを貫かせていただきたいな。
ああうん、こんなの気持ちの勝手な押しつけだよ? わかってるわかってる。
――でもさ。たいせつな人達にまで及び腰で接してたら、俺は誰にも踏み込めないし、それにだーれも俺に踏み込んでなんかくれないぜ? そうした間違った気遣いの成れの果てが、実質的な家族も友達もゼロみたいな現在の俺の状況だろ?
俺はもう、間違えたくない。この子達がたいせつだから、俺は敢えて、『間違わないために』もっともっと踏み込んでいく。それでもしうっかり何かを間違ったとしても、その時はきっと、この子達が俺を正してくれるはず。そうして俺と彼女達は、俺達だけのオンリーワンな『正しい関係』を築き上げていくのだ。
俺は、詩乃梨さんと一緒になってコーヒーをほのぼのと啜りながら、しばし佐久夜と香耶の様子を見守り続けた。
やがて、正気を取り戻した二人は――、ふつーに考えたら絶対正気じゃない答えを口にすることによって、俺と詩乃梨さんに笑顔をくれましたとさ。ちゃんちゃん♪
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この日の日記は、ページの一部が破られている。
探せば、どこかに、その切れ端がありそうだ。




