五月二日(火・3)。きみらの想像より、ケタが一個多い。これがまず一個め。で、次に――。
食材の買い出しのためにスーパー『おがわ』へとやって来た俺達は、ここまでの道中で煮詰めておいた方針に基づいて各々行動を開始した。
まず、詩乃梨さんが普段のお買い物と同じように、人の流れに乗って店内を周遊。で、香耶は詩乃梨さんのサポートとして付き添い、指示がある度にちょこちょこお使い。んで、佐久夜は生鮮コーナーに直行して肉の選別。んでもって俺はというと、三人娘の様子を見て回るだけの簡単なおしごとを仰せつかっている。
もしこれが休日の日中であれば、俺は簡単なおしごとすら遂行できずに終わる所だったが、今日のおがわは殺人的な人混みというほどでもないのでわりと自由に歩き回れる。とは言っても、あと一時間もすれば帰宅ラッシュの余波がここまで押し寄せてくるだろうから、それまでには三人娘を店外へ送り届けたい所だ。
そんなことを思いながら、俺は洗剤のストックを届けがてら詩乃梨さんと香耶の様子を見てきて、その足で生鮮食品コーナーへと向かった。
おっ、刺身だ。やべぇ、マグロとかハマチとか超美味そう。どうしよ、大きなコインで買える程度のパックとか買ってこうかな? いつもなら費用対効果の面から見てセルフ却下せざるを得ない所だけど、今日はみんながいるから、ポケットマネーでちょっと贅沢な一品を提供してあげるってのも悪くないかも。
あ、ちなみに今日のバーベキューの代金はみんなで割り勘ってことになってます。本当は俺が全額負担したいとこなんだけど、詩乃梨さんどころか香耶や佐久夜にまで『それは駄目』って言われちった。俺の嫁とその友人が良い娘達すぎて、ぼくはより一層彼女達におごってあげたくなっちゃったよ! ちょっとお刺身提供するくらいはきっと許されるよね、よし買おう!
「……………ん……?」
お札出さないと買えなさそうなバラエティパックへ手を伸ばしかけた所で、ふと背後に人の気配。
振り向けば、そこには制服を着崩したえろかわいい女子高生。その娘は、萌え袖に包まれた手を股の辺りでもじもじさせ、艶めかしい生足をもぞりと摺り合わせながら、何やら観察するような瞳で俺をじーっと見つめていた。
観察するような……とは、ちょっと違うかもしれない。解読するなら、『言いたいことがあるけど、ちょっと言いにくいから、言いやすいように話しの流れを持っていってほしいな。もちろん、いやならいいんだけど』みたいな、積極的なんだか消極的なんだか複雑なんだか単純なんだかわからない曖昧な意思を感じる。
俺はちょっと考えてから、中空で静止していた手を引っ込めて、敢えて何ら気負わない風情でその娘へ向き直った。
「佐久夜は、お刺身とか好きか?」
とりあえず台詞を放ってみる。すると、佐久夜はちょっとほっとしたように頬を緩めて、顔の前で萌え袖をふりふりと振った。
「うちはお刺身大好きですよー。てかねー、お酒のおつまみになりそうなやつは大抵好きよ。あとお酒も好き-。っていうかね、おとんのお楽しみを横からかっさらうのが大好きっ♪」
「……あ、なんだそういうことか、お酒好きとか言うからちょっとびびったぞ……。……そっか、そういうことなら、ちっさいサイズのやつ一本くらいは買ってくか。酒」
「あー。いっけないんだー。この人、未成年にお酒飲ませようとしてるー。そういえば、この前くれたチョコもけっこうお酒入ってたよね-。あっれぇー、無垢な少女達を酔わせてナニする気ぃー?」
「酔わせねぇよ、ちょこっと舐めさせてあげるだけだ。ちょっとしたパーティーグッズみたいな扱いだよ。……まあ、詩乃梨さんがダメって言ったら舐めさせすらしないし、それに香耶が嫌がるようであれば『本末転倒になっちゃうから』やらないけど」
俺が放った迂遠すぎるパスは、果たして、彼女の元へ正しく届いた。
佐久夜は優しく微笑むと、俺の腰をぽんぽんと叩いてきた。その流れで指先を指先でちょこんと握られ、俺は彼女に手を引かれて――指を引かれてゆっくりと歩き出す。
彼女は、背中越しに穏やかに語る。
「こたちーもやっぱ、かやちー元気無いなーっていうの気付いてたんだね。かやちーとしのちーを一緒に行動させるようにしたのも、それが理由?」
「まあな。詩乃梨さんの隣を貸してあげた甲斐有って、さっき見てきたらちょっとは快復してたぞ。……と言っても、やっぱ本調子には程遠いみたいだけどな」
「そっかぁー……。じゃあやっぱここは、バーベキューで嫌なこと忘れさせてあげるっきゃないね! 大好きなしのちーと一緒にお肉がつがつ食べてお酒がぶがぶ飲めば、ストーカーのことなんてどうでもよくなるよねおっとー口がすべっちゃったぜー今の聞かなかったことにしてねー?」
「――『ストーカー』……?」
佐久夜の望みに反し、俺は思わずその単語を反芻した。お酒がぶがぶは敢えてスルーである。
香耶、ストーカー。この二つから導き出されるものといったら、件の山岡何某だ。まさか、ほんの一日足らずで新たなストーカー野郎が出現するようになったなんてわけでもないだろう。なら、香耶は山岡から再び何らかの精神的苦痛を受けたせいで、あんな状態になっているということなのだろうか?
思わず足を止めて考え込み始めた俺に、佐久夜が常の彼女らしからぬ薄っぺらい笑顔で淡々と告げる。
「かやちーはけっこうぼかしながら言ってたけどね。要約すると、昨日ひとりで家に引き籠もってる間に、嫌な想像がどんどん膨らんじゃったみたいだね」
「……次学校で山岡に会ったら、何か言われるんじゃないか、とか?」
「それもあるだろうし、今も外でずっと監視してるかもしれない、くらいは思ってたんじゃないかな。もしかしたら、もっとすごいのとかも。……けど、それは全部自意識過剰で被害妄想だろうなって自分でわかってて、そのせいで今度は自己嫌悪まで加わっちゃった、みたいな。……実際、今日の山岡くんは何か言ってくるどころか、もうすっごく逃げたそうな顔で縮こまってるだけだったけど。でも、それで全部自分の被害妄想だったんだって確定しちゃって、自己嫌悪がもっと強まっちゃった、みたいな?」
佐久夜が語る香耶の内心は、その大半が憶測によるものではあったが、それを語る口調はどうしようもないほどの確信と説得力に溢れていた。
そして。一転して黙り込んだ佐久夜の、得体の知れない無機質な瞳が俺に問う。『お前は、香耶の心を確かに蝕んだ恐怖や不安を、ただの被害妄想や自意識過剰だと嗤い、蔑むか?』と。
その問いに、俺は――。
「…………………………………」
無言のまま、佐久夜の指を引っ張って、お刺身コーナーへと引き返した。
佐久夜が俄に怒気を滲ませて抵抗してきたが、俺はそれを無視して無理矢理連行。程なくして目的地へ辿り着き、そして俺は今度こそ、躊躇うことなく刺身のバラエティパックを手に取った。
先程買おうとした物より、お値段は実に約三倍。俺、詩乃梨さんに軽く折檻されることも辞さない覚悟である。
俺はうむりと厳かに頷き、呆けた顔の佐久夜にパックを差し出した。
「持って。詩乃梨さんに見つかりそうになったら、こっそりレジ行って。お金これな」
反射のように両手でブツを抱えた佐久夜に向かって、俺はすかさず財布から万札を一枚抜いて突き付ける。
しかし、佐久夜はよくわかってない顔をするばかりで、お金を受け取ろうとはしない。俺は仕方無く、彼女のブレザーをちょいと引っ張ってポケットの中にお札をねじ込んだ。なんだこいつ、ポケットの中に個包装のお菓子が何種類もぽろぽろ入ってやがる。札がうまく入らん。
「………………ちょっ、こたっ、こたちー、それ手付きヤバい!? 援助交際!? じょしこーせーに無理矢理大金握らせてどうする気っ!?」
「うるせぇ、がたがた抜かすな。お前は受け取るもん受け取って、ヤることヤってりゃいいんだよ」
「悪ノリが過ぎますぅ!? や、やっ、ちょっ、誰かに見られたら――あーあーあー見てる見てる見てる調理場のマダムが気付いちゃってるねぇ早く離れて!?」
俺はチッと舌打ちし、札だけ入れようとするのはやめて、手ごとブレザーのポケットへ突っ込んで奥の方へ金を置き去りにした。佐久夜がついうっかりみたいな感じで「ぁ♡」とか艶っぽい声出したけど俺は知りません!
佐久夜の温もりと感触が残る手をぷらぷらと振って、俺はさっさと歩き出した。
「行くぞ、肉だ。目星はつけてあるのか? つか、なんで手ぶらだったんだよ」
「え? えっ? …………えぇー、反応めっちゃドライ……。これだから非童貞は……」
ぶつくさ言いながら俺の斜め後ろへ並んできた佐久夜は、一転、ぶつくさが嘘だったみたいなのほほん極まる笑顔で答える。
「やー、良い肉はいっぱいあったんやけどねぇ。でもどれもこれも買おうとしたら、完全に予算オーバーやからさぁー。でも取捨選択なんてしたら、選ばれなかったお肉ちゃん達がかわいそうじゃん? じゃんっ? あっ! ねーねー、そういえばさっきくれたのって諭吉様だったよねーえー? あとさー、許可なくうちの服の中に手ぇ突っ込んでまさぐったよねーえーねーえー?」
「駄目だ。さすがにこれ以上の出費は、詩乃梨さんにマジギレされてしまう。しのりんマジ逆鱗待った無しである。どうしても肉いっぱい食いたいっていうなら、刺身返してくればなんとか――」
「ね、ね、酢飯も作ってお寿司やろー? あとね、もっとうちの身体いっぱいさわっていいから、せめてエクストラでタン買って? ね、一番安いやつでええから、お願いや、後生やでこたろーはん……」
「…………………………。じゃあタン買ってやるから、それでさっきのボディタッチ分相殺な?」
「いぇーい! こたちーふとっぱらー!」
とおっても晴れやかな笑顔を浮かべていらっしゃるけれど、この娘これでいいのかしら……? カラダ安売りしすぎじゃね? もし『いっぱいさわっていい』の方の条件でOK出してたら、どこまでヤらせてくれたんだろういやヤらねぇよ俺は詩乃梨さん一筋ですのでっ!
と呪文を唱えてる間に、精肉コーナー到着。歩調を緩め、佐久夜を伴ってとりあえずぐるっと一周してみる。
「豚…………、鳥…………、牛…………。あれ、ラム無くね? 見逃した?」
「ひつじさんは、凍ってるやつしかないっぽいよ? ここじゃなくて、あっち」
両手の塞がってる佐久夜があごでくいっと示した先は、肉の島からちょっと離れた所。解体ショーやれそうなデカい魚が鎮座してる場所の、そのすぐ横だ。
ああ、なんか前もラムだけ見つからなかったことあったな。あっちにあるのかよ。あんなすんごいギョロっとしたお目々の大魚の側なんて普通近づけねぇよ……。
でも佐久夜は普通じゃなかった。彼女は刺身パックを小脇に抱え直すと、死せる大魚の眼前へとことこ歩み寄っていき、大魚完全スルーですぐ側の冷凍ケースからラムをゲット。再びとことことこちらへ戻って来た彼女は、透明なビニールに入ったかっちんこっちんの羊肉の塊を笑顔で見せつけてきた。
「はいっ! ちょっと多いけど、持って来ちゃったから買わなきゃだよね!」
「そんなルールは有りません。いやマナーではあると思うけど。……もうちょっと少ないヤツは無かったの?」
「無いよ? これは本当」
これはってわざわざ付けてるあたり、自分の日頃の言動のてきとーさをよくわかっていらっしゃるようで。まあいいや、どうやら本当にこれしか無いみたいだから、結構なお値段だけど買うしかないだろう。
俺は凍り付いた羊肉を受け取り、それを手近な置き場から取った買い物カゴへ納めた。さてどうしよ、これだけで結構な重みあるから、他の肉を少なめにしてバランス取るか。でも先に、まずはタン買っておこう。
「はい、こたちー」
軽い調子で名を呼ばれ、俺がそれに返事をするより先に、ラムの上に小さなパックが置かれた。
タンである。こちらはラムと違って少なめの量で売られていたようだ。でもやっぱり普通のバラ肉なんかと比べるとグラムあたりの単価は結構お高い。だがしかし、やはり焼き肉と言ったらタンは外せないでしょう。
じゃあ次、次はなんだろう。もうラムとタン買ったから、あとはてきとーなバラ肉で腹膨らませるべき?
「はい、こたちー」
再び声を掛けられて、ぽてぽてぽてと、籠の中へ小さめサイズのパックがいくつか落とされた。
鳥、牛、豚。ふむ、お値段お手頃で種類豊富、ラムと合わせると量も程良い感じ。ああうん、これで終わりでいいんじゃね? というかこれ以上は流石にお金かかりすぎ。それによく考えたら、この他に野菜さん達だっているんだよ? はいもうだめ、もう『はいこたちー』は無し。
「はい、こたろー」
「待て、これ以上は流石に無しだ。つか、現時点で既に結構高い、ラムが飛び抜けて高い。いやだが待て、明日の朝も残りを食うと考えれば経費を二食分で割れるからしのりんにも怒られないかも――」
「……? なんで、わたし怒るの? ……らむ、そんなに驚くほど高いの?」
カゴから顔を上げてみれば、そこに居たのは佐久夜ではなく詩乃梨さんだった。
詩乃梨さんは現在、傍らに香耶を伴い、背中にはリュック、手元には買い物カゴが置けるカートという布陣で俺の目の前にいらっしゃる。ちなみに説明するとこなかったから今言うけど、橋のとこで佐久夜が小脇に抱えてたリュックが、詩乃梨さんのリュックだったらしいです。
目の前には、詩乃梨さんと香耶。周囲を見渡せば、他の買い物客達。あれっ、佐久夜がいない――って、ああ、そっか。俺の指示を守って、刺身の会計済ませに行ってくれたのか。
詩乃梨さんは若干不思議そうに首を捻りながら、カートをくいくいと押し出してきた。
「ほら、こたろー。下使っていいよ」
「あ、うん。ありがとう」
俺は詩乃梨さんの申し出を有り難く受けて、手にしていた買い物カゴをカートの下の段へ納めた。
ラム重かったな-、なんて思いながら手首をぷらぷらさせてる俺を、香耶が怪訝そうな顔で見つめてくる。
「琥太郎さん、ひとりですか? 佐久夜ちゃん、先に来てたんじゃ……?」
「ん? ああ、佐久夜は、なんつーか、俺のお使い。ところで、香耶はラムとか刺身とかは好き?」
「え? え、えっと、ラム、刺身、好きですよ。普段あんまり食べないですけど……。……いえ、そうじゃなくて、お使いってなんです?」
「いや、それ今言っちゃうと、しのりんに『無駄遣い!』って怒られちゃうから、後のお楽しみにしといて? ねっ?」
「…………はい……?」
一応頷いてはくれたけど、うん、全然わかってないって顔だね。それはさておき、香耶ちゃんけっこう調子戻って来てるみたいだね。ちゃんと詩乃梨さん効果でた~っぷりと癒されてくれたようだ。
それで、ですね。癒やし効果満点なはずの詩乃梨さんが、と~っても怖いお顔で俺を凝視してらっしゃるんですけど、俺逃げていい?
「こたろーくん。なにか、無駄遣い、したのですか?」
「……い、いや、無駄ではないよ、ちゃんと理由があって、根拠があって、目的があって、流れがあってそれを購入するに至ったという――」
「無駄遣い、したのですか?」
「……………………………………しました。けど、あの、俺ね、えっと、お金けっこう稼いでる方だって自負してるし、たまにみんなでお食事する時に『ちょっと豪勢にいっちゃお♪』って奮発しちゃうのって、これ、だめですかいのぅ……?」
「…………………………………………むー。…………う~ん……?」
おや、見苦しく涙ながらに訴えてみたら、思いの外効果があったぞ。詩乃梨さんちょっと自信なさげになってきてるから、これゴリゴリ押せばどうにか許してもらえそう。でも浪費癖を許されちゃうと、それはそれで今後絶対困るだろうししかもとっても後ろめたい。じゃあゴリゴリはやめておくでゴリ。
大人しく沙汰を待つ俺に、香耶がちょこちょこ寄ってきてぽそぽそと耳打ちしてきた。
「琥太郎さんって、実際、いくらくらい稼いでるんですか?」
「お、ド直球な質問だね。俺はいいけど、他の人にあんまりそういうこと訊いたら『めっ!』だからね?」
「他の人には訊く意味無いので大丈夫です。琥太郎さんは、詩乃梨ちゃんを専業主婦にしたいんですよね? 琥太郎さんひとりで一家を養うつもりなら、それなりの経済力を示してもらわないと、うちの詩乃梨はやれません!」
お前は詩乃梨さんの母親かっ! ってツッコミ入れたろかと思ったけど、『詩乃梨さんの母親って、ちゃんと詩乃梨さんのことをこういうふうに心配してくれるのかなー』とか、『香耶って詩乃梨さんのことを愛してるわりに、俺と詩乃梨さんがくっつくことを全然妨害とかしないよなー』とか色々考えちゃってタイミング逸した。
タイミング。ふむ、タイミング。こういう生々しい話って改まってするの難しいし、折角の機会だから、この場を借りて、一回俺の経済状況について詩乃梨さんにさらっと把握しておいてもらおうかな?
「ふむ。よし」
俺はひとつ頷き、香耶の肩に軽く手を触れて、詩乃梨さんの隣に並んでくれるよう誘導した。
きょとんとした顔で見上げてくる二人に、俺は再度ふむりと頷いて、他の人達に聞こえ無いよう気を付けながら語った。




