四月九日(日・5)。幸峰詩乃梨と、猿のお嬢さん。
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『幸』峰、詩乃梨。それが彼女の本来の名前である。
下の名前の字は合っていたが、ゆきみねの『ゆき』は幸せと書くらしい。幸せな詩乃梨さん。詩乃梨さんが幸せなら俺も幸せである。
が、どうも詩乃梨さんは、ファミリーネームの漢字に反し、あまり幸せではない家庭環境で育ったようだ。
家族との不仲を苦にした詩乃梨さんは、親元を離れてこのアパートでひとり暮らしを始め、この近くの進学校に通っている。それだけを口にして、詩乃梨さんはそれ以上家族のことについて語ろうとはしなかった。
いつかその辺りの事情も聞かせてもらえる日が来るのか来ないのか、それはまだわからないが、とりあえず猿のお嬢さんとの一件について聞かせてもらうこととする。
幸峰詩乃梨と、猿のお嬢さんとの、喧嘩及び仲直り。そしてそれらの陰にあった、土井村琥太郎の功労。
土井村さんちの琥太郎さんについてはひとまずさておき。詩乃梨さんと猿のお嬢さんの、これまでの関係についてから話してもらおう。
詩乃梨さんと猿のお嬢さんの初めての出逢いは、昨年の四月。高校への入学と同時に、同じクラスへと配属された。単なるクラスメイト。ただそれだけの関係。
というだけなら、まだしも。二人は入学早々、犬と猿、竜と虎、ハブとマングース、そういう生涯相容れない相手として互いを認識していたそうだ。
理由は、両者とも入学して早々に、一年生を代表する問題児として学内に名を馳せていたからだ。
優等生と問題児、ではない。猿のお嬢さんは素行や異性関係の面で当然の如く問題児であるが、詩乃梨さんもまた、ある意味において問題児であった。
幸峰詩乃梨。彼女は、『学力学年トップを維持し続けている不良娘』なのだ。
代々首席入学を果たした生徒が必ず行ってきた、新入生代表挨拶。これを固辞したことを皮切りに、詩乃梨さんの不良への道は幕を開ける。
生活指導による『灰色の髪を黒く染めろ』という指示を悉く無視。気に入らない教師へ精神的ストレスを与えて休職に追い込む。他校の不良グループとの乱交。自分の学年トップの座を護るための不正。エトセトラ。エトセトラ。
次々に打ち立てられる武勇伝が、校内の至る所でまことしやかに囁かれる。
もちろん、それらの多くはデマである。
新入生代表挨拶の辞退、これは本当だ。むしろこれしか真実ではない。
だが。人前に出たり持て囃されたりすることを大の苦手とする少女が、自らの手で生み出してしまった『最初の真実』。それは、後に続く全てのデマにも、大なり小なり真実味を与えることになってしまった。
更に言うなら、個々の噂にも、詩乃梨さんが実際に持っている身体的特徴や能力が織り交ぜられていた。
生活指導の対象ではない、生来の物である灰色の髪。気弱な教師が休職理由として利用したくなる程の、鋭すぎる目つき。不良娘を彼女にすることに抵抗がないチャラ男にとってはご馳走にしか見えない、不良オーラを一皮剥くと出てくる美少女然とした容姿。何らかの不正をしていると疑われてもおかしくない、進学校で学年トップを維持し続ける学力。
事実はどうあれ。詩乃梨さんの学校における評価は、早々に『問題児』として定着してしまい。そんな詩乃梨さんは、学校ではろくに友達もいなく、孤独な日々を送ることを余儀なくされることとなった。
――さて。学校ではろくに友達はいないと語る詩乃梨さんは、では誰から自分についての噂を仕入れたのか?
その答えとなるのが、猿のお嬢さんである。
猿のお嬢さんは、クラス内では女子グループのリーダー的立ち位置に居た。学校側から見れば風紀を乱す問題児であっても、色恋沙汰の経験が豊富というのは多感な少女達にとって尊敬の対象として映るのだろう。
そんな猿のお嬢さんは、人望と人脈によるものか、学内や学外における様々な情報を知っていた。その中には勿論、詩乃梨さんの噂についても含まれている。
猿のお嬢さんは、声がでかい。やたらと声がでかい。とりわけ、詩乃梨さんの噂について誰かと話す時には、より一層大きな声で話す。それはまるで、詩乃梨さんに聞かせて、愉悦混じりに嘲ろうとするかのように。
そんな猿のお嬢さんに対して、詩乃梨さんが良い感情を抱くわけもない。元々、詩乃梨さんは猿のお嬢さんの性的に乱れた言行を不快に思っていたこともあり、二人の関係は直接会話したことすら無いままに悪化の一途を辿っていくこととなる。
……俺は、猿のお嬢さんの態度について、少し違和感を感じたけど……。今は、べつにそこは気にしなくてもいいか。
てなわけで。詩乃梨さんと猿のお嬢さんの関係について理解したところで、ようやくここからが本題。
今から二日前。進級後初の登校日。詩乃梨さんと猿のお嬢さんが再び同じクラスへ配属となったことにより、事件は勃発した。
それまでは、直接的に詩乃梨さんに関わることのなかった、猿のお嬢さん。それが、新しい環境でテンションが上がっているのか、席が隣同士になったからか、唐突に絡んできたのだ。
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〈side 幸峰詩乃梨〉
「あんたってさ、男知らないでしょ? まじウケる」
確かに、わたしはそういうことを、したことはない。
したことがないどころか、そもそも男の知り合いがこたろうくらいしかない。
というかこのメスザル、なぜウケてる?
「あたしさ、やっぱそういう才能あるのかなー、見てて処女か童貞かってすぐわかるんだわぁ。あんた乱交してるとか絶対ウソだわぁー、話盛りすぎー。ま、あたしが才能あるってゆーか、誰が見てもあんたってそんな感じだけどね。プッ、マジうけるわー」
こたろうも、やっぱりそういう経験あるのかな? わたしが遅れてるの?
でもこたろうは大人だしなぁ……。こたろう、参考にならない……。
あと乱交ってそれわたしが言い出したことじゃねーよ? そしてウケんな?
「いいわぁー、処女うらやましいわぁー。あたしなんてさーあー? もう小学生の頃から色気むんむんで? 色んなオトコに熱烈に求められてほんと大変だったのよぉー。犯罪じゃないコレーもぉー。まー、おかげでオトコの悦ぶツボっていうの? そういうのマスターできたからーまあいっかー。みたいな? まじうけるー」
色んなオトコって、たぶんこたろうは入ってないな。
あのこたろうが、こんなびっちなメスザルとそういうことするとか、全然想像できない。
あとウケすぎ。こいつまじウケすぎ。
「どんなオトコだって、あたしにかかれば一瞬で堕ちるよ? マジすごくない? 一番早いのでね、出逢ってから三十分で行くとこまで行ったことあるよ? あ、もちろんエンコーじゃなくて、自由恋愛ね? とーぜんっしょー、そーゆー行為は愛がなきゃね、愛がっ! らぶらぶじゃなきゃダメ! あはっまじウケるー」
あのこたろうが、出逢って三十分で恋愛して、行くとこまで行く?
無いわ。一年経っても無いわ。こたろうなめるな!
あとウケすぎだっつってるだろうが! いいかげんにしろ!
「ごーめんごめん! 処女のあんたにはまだ早すぎる高等なおはなしだったでちゅよねー? あー、でもあたしこどものお守りとかちょっと勘弁だわー。あ! じゃあさ、あんたがオトナになればいいんじゃね? あたし冴えすぎマジウケルー!」
わたしが、オトナになる? 誰と? こたろう?
考えたこともない。こたろうとだって、したいとか思ったこと無い。
あとね、メスザル。おまえ次ウケるって言ったら怒るからな?
「どーせあんたのことだから、相手なんていないんだろーし? なんならあたしが紹介してあげよっか? まーあんたみたいなめんどくさそーなオンナじゃ、股開いてお願いしても、相手のオトコが萎えちゃってごめんなさいされちゃうだろーけどねー。まぁじ・うぅけぇるゥー!」
こたろう以外の男と、そういうことを、する?
有り得ない。したくない。するなら死ぬ。舌噛み切って死ぬ。相手がこたろうなら『どうしても』って頼まれればまぁしてもいいかなって思うけど、他の男? え、無理。絶対無理。吐く、想像しただけで吐く。もう吐きそう。え、このメスザルって、わたしがこたろうに対して思ってる『好き』っていうのと同レベル以上に好きな人がいっぱいいるってこと? えなにそれ無理。有り得ない。物理的に不可能。じゃあこのメスザルの言う『愛』とか『らぶらぶ』ってどういうのなの? 愛とからぶらぶって、好きから始まって超えられない壁を越えた先にあるものでいいんだよね? 出会って三十分以内に、行くとこまで行ってもいいって思えるほどの愛を相手に抱く? え、それわたしの知ってる愛と違う。じゃあ、つまり、このメスザルは――
「黙れ、びっち」
――真面目に話聞いて損した。こいつ、本当に、ただのびっちなんだ。ていうかさっきからウケるウケル言い過ぎ。うけねーよ。わたし何度も言ったよね、ウケてんじゃねーよって言ったよね。次言ったら怒るって言ったよね怒るよ、わたし怒るよ、いいよねこたろう!?
〈side out〉
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