表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空気を読まなかった男と不良未満少女の、ひとつ屋根の上交流日記  作者: 未紗 夜村
第八章 繋がったり、もっと繋がったり。
86/126

五月一日(月・5)。邂逅。

 改めて詩乃梨さんの姿を目にした俺は、思わず「おっ」と甲高い歓声を漏らした。


 幸峰詩乃梨、運動少女バージョン・2nd。

 先程まではポニーテールにまとめてあった長髪が、俺推薦の後頭部で結い上げるスタイルへと変化。あと、汗を吸っているであろうジャージの上着を腰に巻いて縛ってて、上半身は俺が貸した黒い長袖を纏っている。……この長袖、本来であれば肌にわりとぴっちり張り付くようなスポーツ用インナーなんだけど、詩乃梨さんが着ると胴回り裾も袖もだぼだぼに余っちゃってて、胸元しかぴっちりしてない。逆に言うと胸元だけぴっちりしてる。そのぴっちりさ加減は下着のラインが幻視できそうなレベルであり、とってもとってもエロいです。


 詩乃梨さんは、そのエロス満載な部位を見せつけるかのように胸を張り、けれど同時に俺の視線を恥ずかしがるかのように顔を俯かせて、肩にかけたスポーツバッグを照れ隠しのように殊更重っそーに担ぎ直した。


「……こたろー、あっちの人達、だれ?」


 詩乃梨さんは睨め付けるような目線を『あっち』へ送りながら、ぶっきらぼうな声音で問うてくる。


 俺は、詩乃梨さんのこの刺激的な格好がアウトかセーフかを脳内で議論しながら、片手間で返答した。


「あっちの二人は、俺の会社の後輩と、その奥さんだ。男の方は尾野って言って、奥さんの方の名前はアキさんだってさ」


「……奥さん、若いね? 旦那さんもだけど……。………………あと、こたろー、男の人は『尾野』なのに、女の人は『あきさん』なの? ……ふぅーん、そーなんだー。へぇ~」


「無駄にプレッシャーかけてこないでくださいよ、しのりん……。だって、どっちも尾野呼びしたら区別つかないんだから、仕方ないだろ?」


「…………………ふぅん。あっそ」


 詩乃梨さんはふて腐れるように言い捨てて、つーんとそっぽを向いてしまった。完全に不機嫌さんに見えるけど、実の所はそれほどでもないらしく、顔を逸らしたままスポーツバッグの持ち手をぐいっと差し出して来て『荷物持ちしてくれたら許してあげる』と無言で告げてきた。


 俺は苦笑いしながらバッグを受け取り、してやったりみたいに悪戯っぽく微笑む詩乃梨さんに本題を切り出した。


「でな? そこで偶然会った尾野夫妻が、『せっかくだから、これから尾野夫妻と土井村夫妻で一緒にランチでもどうですか?』って言ってきてくれたんだが――」


「――は?」


 詩乃梨さん、小悪魔的な笑顔を跡形も無く吹き飛ばし、今度こそ完全不機嫌さんモードで低い唸り声を上げる。対する俺は、軽く肩をすくめて詩乃梨さんの怒りをやり過ごし、何食わぬ顔でさらっと続きを述べた。


「ま、詩乃梨さんならそういう反応すると思ったし、それに俺も詩乃梨さんとのデートが最優先だからな。夫婦同士の交流はまた今度ーってことにしといて、詩乃梨さんがよければ今日は挨拶だけちょろっと済ませとこうかと思ったんだけど……」


「………………………………でーと……。ん、ふふっ♪」


 あ、食いつくのそこ? このお出かけがデートだなんて全然思ってませんでしたー、なんて反応をされるのは困るけど、こんなでれっでれのふにゃふにゃ笑顔見せられちゃうのもそれはそれで困っちゃうわ、速攻でスマホ取り出して近所のラブホ検索したくなっちゃいますので。


 詩乃梨さんは、はっと我に返ってけふんけふんと咳払いし、俺の空いている方の手をそっと握りながら恥ずかしげに問うてきた。


「……あいさつって、なんで? ……わたし、こたろーの、妻じゃないし、恋人ですらないよ?」


「まあ、そうな。でもいつか必ず妻にするし、それより先にきちんと恋人にもするよな」


「……そうなの?」


「おう。そうなの」


 最早、俺と詩乃梨さんの間では決定事項となっている、まだ見ぬ未来に約束した関係。それを予定調和みたいなやりとりで改めて確認した俺と詩乃梨さんは、互いのだらしない笑顔を瞳に焼き付け合った。


 ひとしきり笑い合ってから、落ち着いて来た所で俺は詩乃梨さんの手をそっと引いた。


「つーわけで、よければ挨拶しに来てくれないかな? あいつら、ずっと待たせてるのも悪いしさ。勿論嫌なら断ってくれてもいいんだけど……」


「行く」


 詩乃梨さんは、何やら自信に満ち満ちた表情で即答し、繋いだ手をぶんぶん振って『早く行こう』と急かしてきた。


 詩乃梨さんの扱い、なんかわかってきちゃった。要するにこの娘、俺のことがとっても大好きなのね。そして俺は詩乃梨さんのことがとっても大好き。世界は今日も平和だね!


「こたろー、はりー、はりー」


「はいはい、わかっておりますよ姫様ー」


 気付けば手を引く側と引かれる側の立場が逆転しており、俺は詩乃梨さんに連れられて早足で自販機前へと舞い戻る。


 そうして改めて土井村夫妻と間近で対峙した、尾野夫妻の反応はと申しますれば。


「……………………………………」


 なんか無言でこっちを凝視するのみであった。尾野のやたらめったら潤んだ瞳と、愛希さんのドライアイ予備軍みたいな双眸が、揃って俺と詩乃梨さんを――というか詩乃梨さんを狙い撃ちする。


 無邪気に俺の手を引いていた詩乃梨さんは、ようやく尾野夫妻の不可思議な視線に気付いて一瞬びしりと硬直。でも彼女の石化はすぐに解けて、一転、盛大にキョドりながら俺の背後へしゅばっと逃げ込んだ。


 俺は俺で少し挙動不審になりながら、なんとか笑顔を浮かべつつ尾野夫妻に問いかけた。


「……えーと、その反応は一体何なんすか……?」


 おっと、挙動不審のあまり尾野みたいな口調になってしまったぜ。でも誰もツッコミはくれず、それどころかろくに反応すら返してくれない。


 だが。やがて愛希さんが正気を取り戻し、俺の陰からおっかなびっくり顔をだしてる詩乃梨さんに向かって、不躾に人差し指を突き付けながら口を開いた。


「………………ノーメイク?」


 それは、理解の埒外にある怪物と相対した時のような、ひどく怯えた声音であった。


 詩乃梨さんは、たっぷり数十秒かけて愛希さんの台詞の意味を解読し、ちょっと涙目になりながら小さくこくりと頷いた。


「……そです」


「………………ほんとに、ノーメイク?」


「……だから、そです」


「……………………お化粧、したことある?」


「……ないです」


「…………………………その髪、染めてる?」


「……これ、地毛……」


「……………………………………あ、そう……」


 突発的ガールズトーク、これにて終了の模様。愛希さんは怪物に食われることを覚悟した生娘みたいに真っ白に燃え尽き、詩乃梨さんは涙目通り越して泣きべそ寸前の情けないお顔で俺の背中へ完全に引っ込んでしまった。


 展開についていけなかった俺は、同じく蚊帳の外になってる尾野に救いを求めた。


「なあ、奥さんの今の質問って、どういう意味?」


「…………………………………あ、はい、なんすか?」


「いやだから、奥さんの……って、お前もお前でさっきからその顔なんなのさ、ほんと……。あのさーイケメンさんよー、頼むからうちのお嫁さんに熱烈な視線送らないでくださいますぅ? 浮気なの? べっぴんな奥さんの前で堂々と余所の女に浮気なのっ?」


 俺は敢えてへらへらと軽薄な笑いを浮かべながら、尾野の熱烈な『オレはアキちゃん一筋っす!』アピールを期待して軽口を放った。


 の、だが。尾野は俺の身体越しに詩乃梨さんの幻影を見つめたまま、熱で意識朦朧としてる幼子みたいな様相で譫言染みた呟きを返してきた。


「…………すげー、若い子、っすね……。……それに、運動、できそう……」


「え? ……ああ、思ったより運動できちゃう娘よ。自称運動嫌いではあるけど。……え、若いはともかく、なんで運動の話?」


「………………。今日のお弁当も、その娘の手作りっすか?」


「人の話聞けよ……。そうよ、今日のお弁当も当然、しのりんのお手製よ。…………ん? あれ、お前もしかして、愛希さんと詩乃梨さんを比較とかして――」


「してないっす。……………………して、ないっす……」


「あ、はい」


 ボーイズトークもこれにて終了――になりそうだったが、尾野は瀕死の愛希さんを横目で哀しそうに見つめながら、号泣間近の震える声で一言。


「……その娘の、初めてって、先輩――」


「お前やっぱお嫁さん比べてんじゃん!? やめろよ、そういうの! 流石にそれ以上は怒るぞ、俺とかお嫁さんズとかが盛大に!」


「………………………………あ、ウス……」


 尾野正祥が持つ器のデカさは、ただの錯覚でした。そうだよね、お前わりと頻繁に愛希さんの過去について思い悩んでたもんね……。いくら愛希さんのことを愛してるとはいえ、ていうかその愛が大きければ大きいほど、愛希さんの未来だけじゃなくて過去だって全部独占したいって、そんな浅ましいわがままで心がいっぱいになっちゃうよね。その気持ち、痛いほどよくわかる。


 男性経験云々は置いておくとしても。あと愛希さんってたぶん、尾野と一緒に運動したり、料理作ってくれたりとかはしない娘なのかな。尾野はジャージなのに愛希さんはおしゃれ着だし、それに愛希さん料理下手だって前言ってたし。……その代わり、ベッドの上での運動や男の料理の仕方については卓越してそうだけど、それって尾野みたいな純朴なやつにとってはマイナス要素にしからないだろうなぁ……。


 それでも、こうして夫婦やってるってことは、尾野と愛希さんの間には色んなマイナス要素を補って余りある強い絆があるんだろうな。…………………………えっと、ある、よね? なんで尾野のやつ、ひたすら詩乃梨さんの幻影に熱い眼差し送ってんの? そろそろそれやめとけ、お嫁さんズに気付かれたら咎められるぞ。まあ、愛希さん一向に正気に戻る気配無いけど。あと詩乃梨さんも俺の背後から出てくる気配全く無いけど。


「………………………はぁ……」


 俺は、非常に混沌としてしまった場の空気に、重苦しい溜息を混ぜ込んだ。


 若干肩を落としたまま、それでもなんとか気を持ち直して、俺は盛大に『ぱんっ!』と柏手を打って皆の注意を惹き付けた。異世界転生してないリーマンがラーニングしたスキル、その名も猫だまし。そしてリーマンは、満面の笑みで溌剌と叫ぶ。


「さって! 挨拶も無事に済んだことだし、今回はこれでお開きにしとこうか!」


「………………わたし、あいさつ、ちっともしてない……」


「お願いしのりん、今はちょっとだけ静かにしててね、勝手なことばっかり言ってほんとごめんね? ……つーわけで、俺と詩乃梨さんはそろそろ行くから。尾野、それに愛希さん、今後ともどうぞよろしゅうねー」


 尾野夫妻の若干きょとんとした瞳を敢えて見ないフリして、俺はくるりと身を翻し、若干どころか盛大にきょとんとしちゃってる詩乃梨さんの二の腕を優しく掴んでさっさと歩き出した。


 詩乃梨さんは一瞬つんのめりかけたり、尾野夫妻の方をちらちら見ながら口を開きかけたりしたけど、結局何らかのアクションを起こすことはせず素直に俺の誘導に従ってくれた。


 俺は詩乃梨さんに心の中で感謝しながら、尾野夫妻の方を一度だけ振り返る。



 俺の目に映ったのは、詩乃梨さんの後ろ姿をいつまでも見つめ続ける尾野と、そんな尾野を無表情に見つめ続ける愛希さんの姿であった。



 ◆◇◆◇◆



 気の早い初夏に包まれた、草と風が薫る河川敷。


 再びこの憩いの地へと戻って来た俺と詩乃梨さんは、毛足の長い芝生に彩られた土手にレジャーシート広げて、二人ごろんと寝っ転がってぼんやりと空を眺めていた。


 柔らかに吹くそよ風が、草の群れを静かに鳴らし、雲の手を優しく引いていく。こうして自然の中に身を委ねていると、人の世での色んな出来事を綺麗さっぱり忘れて、心を丸洗いできちゃう。


 はずなんだけど。流石に、ほんの十数分前に起きた出来事まで河の水にさら~っと流しちゃえってのは、流石に無理な話でした。


 事態をある程度把握している俺でさえそうなのだから、わけもわからぬまま連れ回された詩乃梨さんは尚更だろう。


「ねえ、こたろー」


 だから俺は、詩乃梨さんのその呼びかけの先を読み、微笑みながら「なんでも聞いて-」と返した。


 若干緊張気味っぽかった詩乃梨さんは、俺の返答を受けてほっと全身の強ばりを抜き、ぼんやり眺める対象を空から俺の顔へと移して台詞を紡いだ。


「……結局、あれ、なんだったの?」


 それはどこまでも漠然とした問いではあったが、きっとそれが詩乃梨さんの率直な心境なのだろう。


 俺も、ほんとなんだったんだろと言いたい部分は多いけど、多少憶測を交えつつ自分の見解を述べることにした。


「愛希さんの反応については、正直俺もよくわからん。……詩乃梨さんがメイク無しでもあまりにかわいすぎるもんだから、思わずびっくりしちゃったー、とか?」


「それ絶対、こたろーの贔屓目入ってると思う……。……じゃあ、旦那さんの方は?」


「尾野は……。尾野もやっぱり、詩乃梨さんがあまりに魅力的すぎて、我を忘れて見入っちゃったー、みたいな?」


「だからそれ、こたろーの贔屓目――」


「じゃ、ないんだわ。……実は、尾野って愛希さんについてちょっと悩んでることあってさ……」


 俺は、話してもギリギリセーフなラインを探りつつ、かいつまんで事情を説明してみることにした。


「まあ、なんつーか。……自分がお嫁さんにしたい子が、自分の理想の全てを満たした女の子であるとは限らないよな? で、そのことで色々思い悩んでる所で、自分のお嫁さんよりも理想に近い女の子と出逢っちゃったら、うっかり挙動不審にもなるよねぇ、っていう。さっきの尾野は、たぶんそういうことだと思う」


「……わたしが、おのにとって、奥さんよりも理想的だったってこと? ……それやっぱり、こたろーの贔屓目――」


「じゃ、ないんどすえ。尾野が愛希さんに対して不満に思ってる部分って、俺の贔屓目どうこうとか関係無しに、客観的にある程度きっぱり白黒付けられる部分だからさ。……って言っても、これじゃ何のことかさっぱりわからないか……」


「……………客観的に、白黒……。………………学歴とか……、離婚歴とか?」


 おっと、いきなりニアピン賞。たぶん、俺の出したヒントから、正式な書類や記録としてきっちりかっちり判断できるものを連想したんだろう。


 俺の反応をじーっと観察していた詩乃梨さんは、自分がニアピン賞を叩き出したことを察したらしい。見えない猫耳をぴくんと跳ねさせた彼女は、くりくりのお目々を物憂げに細めながら、せつない声で「そっかぁ、ばついちかぁ、そっかー……」と聞こえよがしに呟いた。


 しのりんのこの、わざとらしいまでのあざとかわいい反応、たぶん『俺が詩乃梨さんの間違いを正すためにうっかり答えを口にする』っていう展開を狙ってのものでしょうね。もしくは俺を骨抜きにして情報を引き出す腹づもりだろうか。しのりんってば超策士!


 俺は詩乃梨さんの術中から抜け出すべく、よっと勢いをつけて上体を起こし、軽く頭を振って気分をしゃっきりとさせた。そして、俺と同じく上体を起こした詩乃梨さんを振り返り、改めて会話の続き。


「愛希さんがバツイチかどうかはわからんけど、昔は尾野以外にも仲の良い異性がそこそこいたみたいだな。……尾野は、立派だよ。嫁さんのそういう過去も、きちんと受け入れようと頑張ってるんだから」


「……………………ふぅん……、そか……。…………たいへん、だね?」


 詩乃梨さんは一応納得してくれたみたいだけど、いまいちピンと来てない様子。まあ、詩乃梨さんって物心つく前からひたすら俺に恋し続けてた(かもしれない)一途な子だから、あんまりこういうドロドロした恋愛は理解できないんだろう。やっぱりこういう話題の時は佐久夜呼びたくなるね、あいつ今頃テスト勉強の追い込みで死にかけてるだろうけど。


 まあいいや。詩乃梨さん、尾野夫妻の件についてはひとまずこれで終わりって空気で腕やら肩やら軽くほぐしていらっしゃるから、俺も詩乃梨さんの判断に乗っかろっと。こっからはお待ちかねのお弁当タイムだ、わしょーい!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ