五月一日(月・4)。愛希ちゃん。
クールダウンを兼ねたトイレ休憩のために、近くの公園へとやってきた俺と詩乃梨さん。
俺は本当にトイレだけ済ませてさっさと便所を出たんだけど、詩乃梨さんはジャージの中に着てたシャツが汗まみれになっちゃったのでまだ中で色々やってるとこ。ちなみに、詩乃梨さんはまさかあんなマジで運動することになるなんて思ってなかったらしく、タオルも着替えも用意していないとのことだったので、俺が『こんなこともあろうかと!』と持って来ておいた予備を貸しました。
女子側の出入り口から、詩乃梨さんが出てくる気配はまだ無し。詩乃梨さん、ここまでの道中でしきりに汗の臭いを気にしていたから、結構念入りに身体を浄めているのかもしれない。まさかマッパになったりしてねぇだろうな? 一応盗撮の類に気を付けろとは言ってあるけど、詩乃梨さん完全に聞き流してた――ていうか余計なことに気を回せる体力残ってないみたいだったから、ちゃんと気を付けてくれてるか心配です。
心配なので、トイレ済ませた後も便所の表をうろうろしながら女子トイレの方をちらちら見ております、わたくし。こんなことしてたら俺が通報されそうだけど、幸い周りに人気無いし、そもそもこの公園って森林に飲み込まれてるような演出されてて人目に付きにくいので問題無し。
……でも、周囲を気にする必要は無くても、詩乃梨さんに目撃されたらドン引きされちゃうこと請け合いだな。しゃーない、そのへんのベンチにでも座ってようか。ついでに缶コーヒー買って啜ろう。
つーわけで。後ろ髪引かれるような思いを無理矢理ねじ伏せて、手近なベンチにてくてく歩み寄っていく。そして、到着しても腰を下ろさずに、リュックだけ下ろして、その中から財布だけ取り出してジャージのポケットに移し、手ぶら状態で公園の入り口方向へてくてく直進。
女子トイレとリュックを視界の端に納めて痴漢や置き引きを警戒しつつ、お目当ての自販機の前へ到着。ポケットに突っ込んだ手で財布を意味無く弄びながら、ど・れ・に・し・よ・う・か・な、とコーヒーゾーン限定で品定め。
詩乃梨さんの分も買ってあげよっと。詩乃梨さんは俺と同じで『ブラック以外ならなんでもいい』な人だから、どれ買っても文句とか言わないだろ、たぶん。………………あ、でも、自販機でコーヒー買うという無駄遣いにはめっちゃ文句言いそうね。詩乃梨さんって、自販機では絶対買わないのかな? 必ずディスカウントストアで買い溜めする派?
どうしよ、一回詩乃梨さんにお伺いを立てた方がいいかな。でもこうしてじっとラインナップ見てると、舌にコーヒーの味が蘇ってきて今すぐ飲みたくてたまらんね。……とりあえず一本だけ買って、しのりんと一緒に飲むことにしようかな? あ、それいいね。しのりん絶対喜ぶわ。
よっし。方針も決まった所で、じゃあどれ買うかな――っと……?
「………………むっ」
公園の入り口の方から、人の話し声が聞こえて来た。見てみれば、若い男女がこっちに向かってのんびり歩いて来てる。
ジャージに身を包んでいるけどあんまりスポーツマンっぽくはないイケメンと、清楚の中に一欠片のおしゃれをブレンドした意匠のセーターやロングスカートに身を包んだ綺麗な女性。どちらも二十歳前後くらいに見えるけど、彼らの間に流れている空気はとてもまったりとしていて、若いカップルというよりある程度熟した夫婦のような安定感を感じる。
イケメンが財布の小銭を確認していることから、彼らの目的はこの自販機だろう。そう推察した俺は、うっかり目が合ってしまったイケメンに軽く目礼して、その場から五歩ほど離れた。『お先にどうぞ』ってことだ。それをわざわざ口に出さないのは、彼らの間の良い感じの空気を壊したくなかったから。
なんだけど、ゆったりと歩み寄ってきた若い夫婦(仮)は、二人して朗らかに笑いながら会釈してきた。
「どうも、すみません」
「ああ、いえ。お構いなく」
俺も思わず笑いながら頭を下げ、さらに一歩避けて場所を空けた。
夫婦を斜め後ろから眺める形になった俺は、自販機を見ながらぽつぽつ会話している彼らをなんとなく観察する。
どうやら、奥さんの方が立場が若干上みたいだ。奥さんは俺を気にしてか、こっちをちらちら見ながら夫の方を肘でこつこつ突っついてる。夫はそれを受けて少し慌て気味に財布と自販機を見比べて、さらに奥さんと同様、こっちに目線をちらちら。
俺は軽く苦笑いしながら、首を横に振った。
「俺のことは気にしないでください。暇つぶしに見てただけなんで」
その言葉で、奥さんの方はほっと安堵の表情を浮かべてくれた。けれど、夫の方が何やらきょとんとした顔つきでこちらをじーっと凝視してきた。
彼の反応の理由がわからず、俺も同じような顔で彼をじーっと見つめる。
奥さんまで俺と夫を見比べてきょとんとし始めちゃった中、夫がちょっと自信なさげに口を開いた。
「……あのー、もしかして、先輩っすか?」
せん、ぱい。……………………先輩?
本来ならば後輩の女の子達にそう呼ばれたいものだけど、残念、俺を先輩と呼んでくれる後輩は今のところイケメンが一人だけである。
「………………………お前、尾野か?」
俺も半信半疑くらいの気持ちで問いかけてみたら、目の前のイケメンはやたら嬉しそうににかっと笑ってこっちに身体ごと向き直った。
「そっす、尾野っす。どもっす、先輩!」
「ああうん、どもっす。……………………え、ほんとに尾野なの? ……え、なんでここにいんの? お前、スーツどこやったの? なんでジャージ? まさか俺のパクり?」
「いや、それ全部丸ごとオレの台詞っすよ。先輩、このあたりに住んでたんすか? だったら先に言っといてくださいよー、いきなりこんなとこで鉢合わせてめちゃめちゃびっくりしたじゃないっすかぁーもぉー」
「や、俺ん家、別に近所ってわけじゃないんだけど……。今日はたまたまで――っと、おい、ちょっと」
思わず話し込んでしまいそうになったけど、奥さんが依然としてきょとんとしていらっしゃったので、『彼女にフォロー入れてあげて』と目線で指令を飛ばした。
尾野はひとつ頷き、奥さんの背中を優しくぽんと叩いて、そのまま腰を軽く抱き寄せながら彼女と目線を絡めた。
「アキちゃん。こちら、土井村先輩っす」
尾野の解説はただそれだけで、とても解説なんて呼べないような代物だったけど、奥さん――アキさんは何もかもを納得したような面持ちで「あぁ~」と得心の溜息を漏らしてふんわりと微笑んだ。
そしてアキさんは、尾野に背を押されるようにしてしずしずと前に出て来て、手入れの行き届いたロングの髪をさらりと垂らしながら丁寧な仕草でお辞儀してきた。
「はじめまして、土井村さん。いつも夫がお世話になっております、妻の尾野愛希と申します。夫ともども、これからも良いお付き合いをどうぞよろしくお願い致します」
「あ、はい、ども、土井村琥太郎っす、うっす、ウッス」
後輩の奥さんで、しかもやたらめったら丁寧な挨拶。俺は一瞬どう返せばいいのかわからなくて、頭掻きながらへこへこ頭下げまくった。
そんな俺を見て、愛希さんが口元に手を当てて上品にふふっと笑う。が、そんな愛希さんの頭を尾野が呆れ顔でぺちりと叩いた。
「愛希ちゃん、猫被りすぎっすよ。その癖、ほんといつ抜けるんすか……」
猫被り。そう評されてしまった愛希さんは、先程まで被っていた猫を後ろ足でどっかに蹴り飛ばし、ぷぅっと頬を膨れさせながら尾野をじろりと睨め付けた。
「むぅ。正祥くん、いけずです。仕方ないじゃないですか、咄嗟の時って身体に染みついたスキルが自然と出て来ちゃうんですよ……。ていうか、今のって私べつに間違った対応してないですよね?」
「まあ、普通ならそうなんすけどね。でも先輩の場合、そういうのじゃないっつーか、あんまり硬くなる必要無いっつーか、過度に敬う必要無いっつーか。わかるでしょ?」
「いやわかんねぇよ、なんで俺相手だと敬う必要無いんですのん? 今奥さんどこも間違ってなかったからね? どっちかっていうと普段のお前の方が色々フリーダム過ぎるからね、お願いだからもっと敬って?」
俺、今度からもうちょっと偉ぶろうかしら。でも俺既に尾野より優れてる所が無いどころか、毎日運転手してもらってる恩もあるので強く出ることができません。それに尾野の場合、やたらフランクではあるけどナメてる感じとかしないから、俺とこいつはなんかもうこんな感じでいいんじゃねって気がしてる。
そんな内心が滲み出ていたのか、尾野は俺にツッコミ入れられても気にせずへらへら笑っとる。だから俺も脱力して苦笑いを浮かべるしかない。
笑い合う野郎共を見て、愛希さんまで嬉しそうに目を細めた。
「あー……。いいですねぇ、そういうの……。やっぱり、類は友を呼ぶってことなんですかね?」
「ん……、類は友を呼ぶ?」
愛希さんの口からなんでそんな言葉が出て来たのかわからず、俺は思わず首を捻った。
尾野は何か心当たりがありそうだが、なぜか曖昧な笑みを浮かべるのみ。愛希さんは俺や尾野の反応を見てちょっと『やっちゃった……』みたいな顔しながら、言いにくそうに解説してくれた。
「私の周りって、正祥くんに出逢うまでは、上下関係に厳しい男の人ばっかりだったんで……。上下関係っていうか……、男尊女卑、ですかね?」
「はぁ……。男尊女卑ですか……」
わかるような、わからないような。けれどこれ以上踏み込むのはプライバシーに関わるような気がして深く突っ込めず、棒読み染みた声音でオウム返しに呟くことしかできなかった。愛希さんも、今ので最低限の義務は負えたとばかりに、何もかもを問答無用でシャットアウトするにこにこ笑顔を浮かべなさってる。
けれど。ふと目を向けた先で尾野が一瞬つらそうに顔を歪めたのを見て、俺は愛希さんに関する重要な情報を思い出してしまった
『先輩。オレの嫁さん、オレが初めてのオトコじゃないんすよ。――初めてじゃないどころか、まあ、それなりの数のお相手が居たようで』。
愛希さんが尾野に会うまでに付き合ってきた男達が、ナチュラルに男尊女卑な奴らばかりだったと、そういうことなのだろう。イメージできるのは、女遊び激しくて暴力振るうことにも抵抗が無いクズ男、みたいなやつか? そこまではいかずとも、尾野や俺みたいのとは全く縁が無いような連中ばかりだったんじゃなかろうか。
愛希さん、見た目は清楚な感じだけど……、そういう奴らと、色々経験してんのか……。どういう経緯でそうなって、そこからさらにどういう経緯で尾野と出逢って結婚することになったのかはわからないけど、……なんつーか……、人は見かけによらねぇなぁ……。
「………………………………」
俺は、いつしか困ったような笑顔を貼り付けていた愛希さんから、少しだけ目線を逸らした。
愛希さんは、俺の態度に疑問符を浮かべることなく、表情を変えないまま俯いて。尾野は尾野で、俺の態度の理由なんて問い質すまでもないとでも言いたげな顔で遠くを眺めていた。
……本当なら、何か気の利いた台詞を言ってあげたい所ではある。でもちょっと、愛希さんの交友関係並びに恋愛経験は俺にとっては理解の範疇を超えてしまっていて、何も言葉が浮かんでこない。アドバイザーとして佐久夜を呼びつけていいだろうか? あいつこういう話題強そう、本人処女なくせに。
なんて思考がどっかに飛び始めた頃、愛希さんが突然顔を上げて、微笑みながら『ぱんっ!』と柏手を打って叫んだ。
「猫だましっ!」
…………………………………………。え、意味がわからない……。
でも夫には以心伝心だったようで、尾野も吹っ切れたような笑顔を浮かべながらぱんぱん拍手して、仕切り直しのように宣言した。
「さぁーて、じゃーそろそろ昼飯でも行きますかぁー! ジュース買う金節約して、『もう一品』に回すっす! 愛希ちゃん、何食べたいっすかー?」
「えーとねー、わたしねー、せーしょーくんの好きなものが食べたいなっ!」
「わー、奇遇っすねー! オレも実は愛希ちゃんの好きなもの食べたかったんすよー!」
「ええっ! わぁー、すっごい奇遇! でもこれじゃー、何食べればいいのかわかんないよぅ!」
「いやー、そりゃ参ったっすねー、こりゃーまいったー。……ややっ! あれに見えるは土井村先輩じゃないっすか! そうだ、先輩に今何食べたい気分か聞いてみよう!」
「せーしょーくん、ついでに土井村先輩に奢ってもらっちゃえばいいんじゃないかな!」
「おおっ、愛希ちゃんそれナイスアイディアっす! てなわけで、先輩、ゴチになりまーす!」
いきなりテンションの振り切れた小芝居を始めた尾野夫妻は、最後に二人してニコニコ笑顔で俺に頭を下げてきて、そのままぴたりと停止して俺の反応を待つ。
……これはつまり、『一緒にお昼行きませんか?』っていうお誘い……だよな? 本気でゴチになる気が有るのか無いのかはわからんけど、尾野夫妻のこの裏表の無い笑顔を見る限り、ランチのお誘い自体はわりと本気っぽい。
こいつら、何の打ち合わせもなしに今の流れって、ほんと良い夫婦してんなぁ。愛希さんは色々抱えてるみたいだけど、尾野は俺なんか及びも付かないほどに器のでっかいやつだから、夫婦仲はなーんも問題無いみたいね。
「………………ははっ」
思わず笑っちまった。それを合図にしたかのように、尾野と愛希さんは頭を上げて、それぞれ軽く笑い声を上げた。
尾野は腰に手を当てて、ふぅっと鼻息を吐きながら改めて訊ねてきた。
「で、先輩もお暇でしたら一緒にお昼いかがっすか? 愛希ちゃんも、いいっすよね?」
「いいですよー。普段の正祥くんの働きぶりとか、いーっぱい聞きたいですし。だから、一緒にどうですか、土井村さん?」
二人してキラキラ笑顔で誘ってくれるもんだから、俺も思わず笑顔で頷きそうになった。
が、しかし。俺はとってもたいせつなことを思い出し、笑顔を苦笑いに変えて顔の前で両手をぱんっと打ち合わせた。
「すまん! きみたちの厚意は大変ありがたいんだけど、ほんとごめん、俺お昼は先約有るから……」
断られるとは思っていなかったのか、尾野夫妻はきょとんとした顔をした。けれど、尾野はすぐに俺の先約の相手に思い当たったようで、にやりと笑いながら訊ねてきた。
「相手は、例の『まだお嫁さんじゃないお嫁さん』っすか?」
「うん、正にその通り」
俺も何となくにやりと笑いながら答えてやった。
にやにやしてる男達をちょっとアホっぽい顔で見比べていた愛希さんは、急に綺麗な微笑みをふんわりと花開かせながら俺に向かって穏やかに提案してきた。
「なら、そのお嫁さんも呼んで一緒に昼食会、というのはどうですか? 家族ぐるみの付き合い、ってやつです」
「おお、なんか大人っぽい響きするな、それ。……じゃなくて、ええと、すみません、奥さん。俺のお嫁さん予定の娘って、初対面の相手とわいわい楽しくお食事できるような剛胆な性格ではないので……。それに、実は今デートの真っ最中で、お弁当も一緒に食べることになってまして」
「………………デートの、真っ最中……?」
もしかしたら尾野夫妻もデート中だったんじゃないかなと今更ながらに思ったけど、愛希さんは別にその辺りに引っかかったわけではない様子。
愛希さんの不思議そうな顔の理由を、尾野の問いが教えてくれた。
「真っ最中って、でも先輩今一人っすよね? ………………まさか、エア彼女――」
「それ以上言うなし! 俺を事実無根の罪で貶めるでない! 詩乃梨さん――じゃなくて俺の嫁さん予定の娘は今ちょっとお色直し中だ、一緒に運動してたら汗だくになっちゃったから!」
「………………あ、ああ、そういうことっすか……」
尾野は納得したのかしていないのか、何やら戸惑い気味に呟きながら、遠間の便所の方を眺めた。愛希さんも、何故かぎこちない仕草で尾野の視線の先へ顔を向けている。
なんだろう、その反応。……あ、汗だくだからお色直しって表現、もしかしてちょっとエロかった? これ口に出すべきじゃなかったやつ?
やべぇ、しのりんに怒られるかも、と戦々恐々としながら、俺も便所の方へ目を向ける。そういえば、結構時間経ってるけど、詩乃梨さんまだ時間かかってるのかな……。
「………………ん?」
一瞬、女子トイレの入り口に、ちらりと銀の輝きが見えた。
目の錯覚かと思って目を眇めて凝視してると、そろりそろりと頭を出してきた詩乃梨さんとばっちり目が合った。
……ああ、うん。はい。詩乃梨さん、俺が知らない人達とおしゃべりしてたから、出てくるタイミングがわからなくなっちゃってたのね……。もし相手が愛希さんだけだったなら、綾音さんと初めて会った時のような反応をしたんだろうけど、今は尾野もいるからね。出て来た方がいいのかよくないのか迷いまくって困り果ててる気配がびんびん迸ってる。
俺は無性におかしくてちょっと苦笑しながら、尾野夫妻に問いかけた。
「なあ、飯はまたの機会にするとして、今日はちょろっと挨拶だけさせてもらってもいいかな? まあ、詩乃梨さんが『やだ』って言ったらそれもナシなんだけど。とりあえず聞いてくるから、待っててもらっていい?」
俺の問いかけに、愛希さんははっと我に返って、笑顔で快く頷いてくれた。
そして、尾野は……?
「……おい、尾野? 聞いてる?」
「…………………………え、あ、……、…………えっと、なんすか?」
尾野は、なんか急な下痢に見舞われたけどギリギリ便所に滑り込みセーフした時みたいな顔で問い返してきた。なんでこいつこんな顔で便所見つめてんの? ……下痢?
「……まあ、とりあえず、詩乃梨さんに聞いてくるから。じゃあ、ちょっと中座すんません」
尾野に言い置き、愛希さんには会釈もプラスで置いていって、小走りで詩乃梨さんの元へ駆け寄る。ついでに道中でリュックも回収。
詩乃梨さんは、近付いてくる俺から一瞬隠れようとして、けれどぐっと何かを堪えてそろりそろりとトイレから出て来てくれた。




