五月一日(月・2)。鋼は、鍛錬を繰り返した先にある。
詩乃梨さんが、お口をきいてくれなくなっちゃったとです……。
少し時間を置いてから部屋に戻った俺を待っていたのは、羞恥の炎とコンロの火をシンクロさせてがっしゃんがっしゃんじゅわじゅわぱちぱち盛大にお料理してる詩乃梨さん。彼女は俺のあらゆる質問や台詞を一睨みで封殺し、俺に触れられそうになると炎属性魔法剣を構えて「ふしゃー!」と威嚇。彼女にあらゆる干渉を拒絶されてしまった俺は、ちょっとしょんぼりしながらお出かけの準備を整えました。
で、それから小一時間後。朝の気配が僅かに残る住宅街を、これまで詩乃梨さんと一緒には歩いたことのない方角へ向けてお散歩中な、現在。俺は敢えてのんびりとした歩調を崩さぬままで、数メートル後方から尾行してきてる雷龍さんの様子をちょろっと確認してみました。
「ふしゃー!」
また威嚇されちった。詩乃梨さんは、胸に抱いたスポーツバッグをぎゅ~っと抱き締めて身を縮めながら、牙を剥いておっかない顔を向けてくる。タイミング良く、彼女の神秘的な色合いの長髪が風に吹かれて、獅子のたてがみのようにふわりと広がった。
全身全霊で、思いっきり警戒心を露わにしている詩乃梨さん。でも俺は、彼女にそんな態度を取られても、もうしょんぼりなんてしてないし、もちろん恐怖だって抱いてない。それどころか、彼女への愛しさや可笑しさが際限なく込み上げてくる。
だってさ、おい、あのスポーツバッグの中身知ってるか? あれな、しのりん手作り弁当・ごーじゃす版なのですよ。コンロ叩き壊す勢いで何やってんのかと思ったら、あの娘ちょー張り切って行楽用のお弁当を作ってらっしゃったのよ。まあ、別に張り切ってたわけじゃなくて、照れ隠しに熱が入り過ぎちゃっただけなんだろうけど、それでも詩乃梨さんがこのデートのためにお弁当を用意してくれたんだっていう事実は変わらない。
――彼氏とのお出かけに、手作りお弁当を持参しちゃう系の彼女。
「ねー、しのりーん?」
「ふしゃー! ふがー!」
「俺、詩乃梨さんのこと、もっと大好きになっちゃったー! お弁当、楽しみにしてるからねっ!」
「…………………………………ふ、ふふ、ふしゃっ、ふしゃっ……、ふ、しゃっ……」
しのりん、威嚇とも笑いともつかない息を漏らしながら、バッグに顔面を押しつけてぴょんぴょん飛び跳ねるの巻。羞恥極まりすぎて、心がいっぱいいっぱいになりすぎちゃったんだろうね。自分が道行く人に変な顔で見られてるとか、折角いつもより見栄え良く作ってくれたお弁当が揺さぶられまくってるとか、そんなとこまで頭回す余裕なくなっちゃうくらいに、激しい気持ちが溢れてどうしようもないんだね。
そんなしのりんに追加で刺激を与えるのはまずいけど、あんな目隠し状態で豪快なうさぎ跳びしながら歩かれたらフツーに事故るのでもっとまずいです。
俺はなんとなく苦笑いをこぼしながら足を止めて、肩に引っかけてるリュックを「よっ」と担ぎ直し、ぴょんこぴょんこ跳ねてきた詩乃梨さんの頭を手の平でぽふりと押さえた。
俺はけっこう優しめの力で触れたつもりなんだけど、詩乃梨さんは自分の雷で撃たれたみたいにびっくんと盛大に飛び跳ねて、かと思ったら今度はへっぴり腰になって頭をどんどん下げていった。
空気椅子状態になった詩乃梨さんは、俺に頭を撫で撫でされながら、前髪とスポーツバッグの間から恨めしげな眼を向けてくる。
「………………こたろー、はずかしいこというの、きんし」
「恥ずかしいこと……? ………………え、俺、なんか言ったっけ? ちょっとよくわかりませんね。よろしければ、俺がどんなことを言ったのか教えていただけませんか? 聞けば思い出すかも知れませんので、ご協力よろしくお願いします」
「………………………だから、それは…………、…………だぃ、す……、………………………………ダイスっ!」
「違ぇよ、なんでサイコロになっちゃうんだよ。『き』も言ってよぉ、そこまで言ったらさぁ~」
「………………………………。…………あ、こたろー、お昼抜きね。うん、わかった。じゃあそういうことで、さよなら、ばいばい」
詩乃梨さんはいきなりフッと穏やかな笑顔を浮かべたと思ったら、バッグを抱え直してとことこと歩いて行ってしまわれた。
俺はしばらく詩乃梨さんの可愛いおしりに見とれていたけど、ちょっと先まで歩いた詩乃梨さんが一瞬だけこちらを不安げに振り返ったのを見て、急いで彼女の後を追いかけた。
安堵した面持ちで正面に向き直る詩乃梨さんと、それに数秒遅れで彼女の斜め前方へと躍り出た俺。
少しゆっくりめの速度で歩きながら、俺は詩乃梨さんの方をちらりと振り返って、バトンを受け取るランナーのようにそっと手を差し出した。
詩乃梨さんは、俺の手や顔をちらりと見た。それから、己の腕の中のスポーツバッグと己の手を何回も何回も何回も見比べて――
「………………ん」
若干不満げな鼻息と共に、俺の手にスポーツバッグの持ち手を押しつけてきた。
俺はそれを素直に受け取って、そのまま逆サイドの手へと持ち変え、再びフリーになった手をもう一度詩乃梨さんへと差し出した。
詩乃梨さんは、バッグの代わりに己の手を胸元に抱き締めて身を縮めたが、程なくしておそるおそる手を伸ばしてきてくれた。
そして触れ合う、俺と詩乃梨さんの、指先。恋人繋ぎには程遠く、普通のお手々繋ぎにもまだ及ばない、互いの指先をちょんっと摘まみ合う至極幼稚な繋ぎ方。
「…………………………………………」
詩乃梨さんが若干身を固くして正面に視線を固定したので、俺も彼女に倣ってきちんと前を見ることにした。
視線は交わらなくなってしまったけど、俺と詩乃梨さんは、きちんと心が交わっている。
そして、俺も彼女も、同じ風景をこの眼で見ている。
「…………なあ、詩乃梨」
「…………はい、こたろー」
「…………………………大好きだ」
「…………………………………………。わたしも、かもですねぇー……」
お、ちょっとだけ素直だ。少なくとも文章だけで見ればな。……いや、やっぱ文章だけで見てもあんま素直じゃねぇな。しかも今の声の感じからして、思いっきりそっぽ向いて苦々しいお顔で呟きおったよね、この娘。俺の見てる所でも見てない所でも、しのりんの照れ屋っぷりがとどまる所を知りませんぞい。ぞいぞい。
いいね。しのりん。すごくイイ。俺、この娘、すごく好き。愛してるよーって叫ぶんじゃなくて、今はとにかく、なんか……『好き』ってだけ言いたい。
でもこれ以上好きって気持ちぶつけちゃうと、しのりんのハートがオーバーヒートしちゃって運動やる前にばたんきゅーだからね。しばらくは、何も言わずに、ただ指先を触れ合わせていることにしよう。
◆◇◆◇◆
住宅街を抜け、まばらに立ち並ぶ倉庫や工場の間をてくてく歩いていった最果てで、万里の長城みたいに立ちふさがる草ぼーぼーの土手に突き当たった。
右を向けばどこまでも緑色の壁、左を向けばどこまでも緑色の壁。上を見れば、頂上までは結構な距離があるうえに傾斜も滅茶苦茶キツい。
草に紛れるようにして斜面に設置されてる超絶登りにくそうな階段を見て、詩乃梨さんが白目剥きそうな勢いでゲンナリしながらぼそぼそ語りかけてきた。
「これ、登るの……? もう帰らない? いいよ、もう運動じゅうぶん満喫したよ……。こたろーくんとのおさんぽ、とってもたのしかったです。はーい、てっしゅー」
あちゃぁ、半分以上本気で帰りたがってるっぽいね、こりゃ。まあ、ここまで二駅分くらいの距離歩いて来たわけだし、その後にこんな俺でも溜息つきたくなるようなラスボスと相対させられれば、ただでさえ運動嫌いな詩乃梨さんが心折れちゃうのも無理ないか。
詩乃梨さんがこんなに嫌がってる以上、俺ももう運動終了でもいいかなぁって気分にはなってきてる。でも、せっかくここまで来たんだから、せめて『あれ』だけは詩乃梨さんに見せてあげたい。
だから俺は、詩乃梨さんが指をくいくい引っ張って帰りたいアピールしてくるのを敢えてスルーし、彼女の指だけではなく手全体をそっと握って階段の方へ歩いていった。
渋い顔してるくせに素直についてきてくれる詩乃梨さんに、俺は色んな意味で苦笑いしながら思いを告げる。
「運動はもう終わりでもいいから、ちょっと上まで付き合ってくれる? 俺のお気に入りの風景、詩乃梨さんにも見せてあげたい。……つーか、見て、ほしい」
「…………………ん……。おきにいり?」
「うん。おきにいり。それにお弁当食べられる場所もいくらでもあるから、帰る前にちょっとのんびりしてこう?」
「………………………ん。はいです。おーけー。いさいしょーち」
詩乃梨さんは思いの外乗り気な様子でこくりこくりと頷いてくれて、心持ち軽くなった足取りで俺の隣へ並んできた。
二人一緒に、誰が作ったんだかわからないハンドメイド感溢れる石造りの階段へ足を掛ける。急すぎる傾斜のせいで詩乃梨さんが一瞬仰向けに引っ繰り返りそうになったので、俺がすかさず手を引いてフォロー。そしたら勢い余って、詩乃梨さんが俺の腕にぎゅっと抱き付いてきた。
おっぱい!
けどぼく何も言わないしリアクションもしません、今それすると二人で転げ落ちちゃう。なので俺は、くっついてきた詩乃梨さんが不満そうなお顔で一層強く抱き付いてきやがるのはなんでかなーなんてことも敢えて今はスルーして、コアラにしがみつかれたまま一歩ずつ着実に階段を登っていった。
心臓がどきどきする。運動のせいでもおっぱいのせいでもあるけど、それより『俺の好きな風景をはたして詩乃梨さんにも気に入ってもらえるだろうか』って、それを考えると期待と不安で胸がむずむずしてくる。
俺のどきどきが伝染したのか、気付けば詩乃梨さんは俺を睨むことをやめて、ちょっぴり緊張したような面持ちで土手の頂上へと目を向けていた。
麓から数えて、ほんの一分もかからない道程。その果てに、俺と詩乃梨さんは、青空への滑走路みたいな急勾配の、その頂へと到達した。
――そして俺達は、世界を一望する。
最初に目に飛び込んでくるのは、自然そのままの雄大さを誇る大河。柔らかな陽ざしを受けてきらきら輝く水が、右の地平線から左の水平線へ向けてゆったりと流れていく。
その両サイド、つまり俺達から見て手前と奥側は、人の手が程良く入ってる感じ。河川敷にはサッカーや野球をするために軽く手入れされた敷地が点在していて、その階層と今俺達が立ってる頂上とは、毛足の長い芝生に覆われた緩やかな斜面で繋がっている。ちなみに俺と詩乃梨さんの足元には、自動車なんて一回も通ったことのない、新品みたいなサイクリングロード。
あと、対岸のもっともーっと向こう側には、人工オンリーの高層ビル群が見える。でも人工オンリーなわりにあまり窮屈な印象は受けず、というのも、あまりに見晴らしが良すぎるせいで遠近感が狂ってなんだかミニチュアみたいに見えるんだよね。ここから大分離れた位置に大河を跨ぐ鉄橋と線路が見えるんだけど、あれも一層ミニチュア感を醸し出すのに貢献してると思う。
本来なら電車の音なんて聞こえないような距離。なのに、間に障害物なんてなーんも無いから、かたんことんっていう軽い音色がここまで聞こえてくる。ついでに、鉄橋の側のグラウンドで野球やってる大学生っぽいあんちゃん達の楽しそうな歓声なんかも、微かながら響いてきてたり。
そういうのをBGMにして、芝生に寝っ転がってまったりしてるおじさんがいて、サイクリングロードを犬と一緒にゆったりお散歩してるお姉さんがいて、他にも気の抜けた顔で思い思いに過ごしてる人影がちらほら。
ふわりと、風が吹いた。否応なく眠気を誘う、穏やかであたたかかくて、ちょっと草の香りとかもする風。
この場所はいつだって、時間の流れがとても緩やかだ。俺にとってここは、うちのアパートの屋上に次ぐ、社会の荒波を泳ぎ抜くための息継ぎロケーション。詩乃梨さんと出逢ってからは、ここに来る機会もあんまり無くなってたけど、やっぱりこの場所が俺は気に入ってる。
俺の腕にぶら下がったままの彼女は、この風景にどんな感想を抱いてくれただろうか?
「………………………」
詩乃梨さんの顔には特別激しい感情は浮かんでおらず、少し目を細めて景色をゆるりと眺めている。ほっといたらそのままずっとそうしていそうだったけど、俺がリュックを背負い直すために軽く身体を跳ねさせたせいで、詩乃梨さんははっと驚いたような顔で俺からぱっと手を離した。
だが、俺はすかさず詩乃梨さんの手をキャッチ。なんか生娘を引き寄せる悪漢みたいな掴み方になっちゃったけど、そんなん気にしないで、びっくりお目々のしのりんに微笑みかける。
「いい所だろ? 俺的ベストプレイス・ベスト5には入ってるぜ、ここ」
「……べすと、ふぁいぶ? ………………いちとか、にとかは?」
「いつもの屋上とか。あと、俺の部屋とか……、それに、俺の実家近くの丘とかかな。ついでに言うと、俺的には雪の日は色んな景色が魅力五十パーセント増しで見える。詩乃梨さんにも、そういうお気に入りの場所とか季節ってある?」
「ん……、……………う、うぅん……」
単に会話の流れとして訊ねただけなんだけど、詩乃梨さんはなぜか真剣に悩むような顔つきになってうんうん唸り始めてしまった。単純に真剣ってだけではなく、なにやら少し頬が朱に染まってきてるように見えるんだけど、それまさか知恵熱?
……まあ、そうだな。いきなりお気に入りの場所なんて言われても、そんなすぐに思いつくものではないよな。俺みたいなセンチメンタリズムとナルシズムをこじらせた厨二病罹患者ならともかくさ。
俺は曖昧に笑いながら再度荷物を持ち直し、詩乃梨さんの手を引いて緩やかな斜面をゆっくりと下りていく。
詩乃梨さんはただ俺にされるがままになっていたが、やがてひどく忌々しげに――ではなく極めて恥ずかしそうにぽそぽそと呟いた。
「……こたろー、の……」
「うん。俺の、何?」
「………………こたろーの……、じゃなく、って……。…………こたろーが、…………。…………こたろーって、じつは、けっこう恥ずかしい人? ……あ、そうだね。こたろー、元から恥ずかしい人でした。わたし、知っておりました……」
「唐突にディスられ、終いには何故か諦められてしまった俺、とっても涙目である」
「うそつき。涙出てない。すごく笑ってる。……それ、なんで?」
「なんでって言うなら、詩乃梨さんのリアクションの方がなんでって言いたいねぇ、俺は。ほんと、何が言いたかったのさ?」
「……だって、こたろーが、いきなりいけめんぶったこと言い出すから……」
「イケメンぶったこと? ……え、どのあたりが……?」
イケメンぶったことというより、厨二病罹患者染みたことしか言ってない――って、あ、そっか。厨二病的な思想や台詞って、ブサイクがやると滑稽とか憐れって感想しか浮かばないけど、爽やかな好青年が口にすると超かっくいい感じになりますよね。しのりんの王子様であるところの俺がいきなり「俺、雪化粧された故郷の丘が好きなんだ……(せつなげに伏せられた瞳)」なんてやり始めちゃったら、恥ずかしがり屋なしのりんとしては思わずしどろもどろに照れ隠ししたくなっちゃいますよね。
ってことで合ってると思う。でも、しのりんってば照れ隠しの一環で雷龍の瞳向けてきちゃってて、答え合わせは応じてくれなさそう。しゃーないので、ここは黙ってにやにやによによ笑っとこう。
詩乃梨さんは一瞬文句を言いたげに口を開いたけど、分が悪いと思ったのか、結局何も言わずに口を閉ざしてそっぽを向いてしまった。
そうして、二人黙々と斜面を下っていたら、やがて俺が目星をつけていた辺りへと到着。俺が足を止めれば、お手々繋いでる詩乃梨さんの足も必然的に止まり、勢い余って数歩前に出ちゃった詩乃梨さんが非難がましい眼を向けてきた。
「……ここ?」
「おう。ここ」
詩乃梨さんの『こたろーくんの本日の最終目的地はここですか?』という問いに、端的に『はいそうです』と答えながら首肯する俺。詩乃梨さんは意味も無くいつものように鼻を鳴らしながら、軽くあたりを見回した。
ここは、一応手入れはされてるっぽいけど雑草がぼーぼー生えまくりな、グラウンドというより空き地みたいな一角だ。
本当は、鉄橋に近いあたりにはきちんと整備されてる場所はいくらでもあるんだけど、そっちはそこそこ人がいてのんびりできなさそうだからやめといた。ってのは表向きの理由です。本当は、あっちで野球の試合やってるコミュ力高そうな爽やか好青年達が、そのすぐ側で元気に運動し始めた美少女・詩乃梨さんを目にした時、一体どのような行動に出るのか……って考えると気が気じゃないから、なるべく距離取ろうとしてこっち来ました。
でも、やっぱこれは過保護っつーか、俺の心が狭すぎだろうか?
「……もうちょい、あっち側行くか? この辺、あんまり綺麗じゃないし」
思わずそんな台詞を口にした俺を、詩乃梨さんは心底不思議そうに見上げてきた。
「きれいだよ? ……川、きらきらしてるし……、あと、草と土の匂いもして……、なんか、おちつく」
「や、でも、小石とか多そうだし、虫いそうだし、人気が無い場所には相応の理由が有るわけだから、ここはもっと人気の有るスポットへ大移動すべきなのではないかと思わなくもない次第でありんす」
「……こたろー、なんか言葉が薄っぺらい……? これ、気のせい?」
詩乃梨さんが盛大に首を捻って困惑し始めちゃいました。そんな顔させたくないので、俺は早々に自白する。
「悪い、俺今嘘ついた」
「あ、今度は本音っぽい。…………え、こたろー、またわたしに嘘ついたの……?」
内容よりも、その事実の方がよほど重大だったらしい。詩乃梨さんは途端に不機嫌オーラを醸し出し始めて、俺の手をなけなしの力で握りつぶしながらじっとりと睨め付けてきた。
俺は敢えて彼女の怒りを身体で受けとめながら、目を逸らさぬまま――逸らすことを許されぬまま反論する。
「だって、仕方ないだろ。もし、『詩乃梨さんがあっちの爽やかスポーツマン連中にナンパされないように、わざと人気の無い方へ誘導した』とか暴露されたら、詩乃梨さんどう思うよ?」
「『すごくこたろーらしいな』って思う」
「………………………………………………。あ、そうなの?」
「うん。そう」
詩乃梨さんの返事には一切迷いが無く、ほんとにもう土井村琥太郎はそういう人間なんだって知り尽くしちゃってる風情である。
こうして当初の不安は杞憂に終わり、しかし新たな火種が詩乃梨さんの目の奥でメラメラと燃え盛る。
「こたろーくんが、今日もまた、嘘つきました」
「……ご、ごめん」
「こたろーくんが、全然わたしのことを信じてくれません。ひどいです。わたしは、またしてもぶじょくされてしまいました。………………あーあ。これもう、ほんとに浮気してやろっかなぁ~?」
台詞の後半に付け加えられた、一言。あまりにも詩乃梨さんらしからぬその一言は、明らかに冗談や煽りでしかないことがありありと見て取れる、わざとらしすぎるほどにわざとらしい言葉だった。
でもその言葉は、俺の心から全ての感情を奪い去るのに充分だった。
浮気。詩乃梨さんが、浮気。詩乃梨さんが、浮気。わかってる、詩乃梨さんは絶対にそんなことしない。詩乃梨さんはいつだって俺のことを想ってくれている。詩乃梨さんにとって俺は、俺だけが、俺こそが、唯一無二の『男』だ。
わかってる。大丈夫。絶対に大丈夫だ。
……でも、もし、もしも、詩乃梨さんが――
「……こたろー、やっぱりわたしのこと、信じてくれてない……」
凍傷染みた耳鳴りに蹂躙されかけた鼓膜に、詩乃梨さんの弱々しい呟きが届いた。
気付けば、詩乃梨さんの怒りはいつの間にかナリをひそめていて、逆になんだかすっかりしょげた空気を纏っていらっしゃる。
対する俺も、しょげて俯くことしかできない。いくら信じる信じる言っても、俺は詩乃梨さんのことを信じ切ることができていない。
信じられたい彼女と、信じたい俺。どちらの想いも同じ方向を向いているはずなのに、俺と彼女の間にはどうしようもないすれ違いが生じてしまっている。
なら、俺は。俺と詩乃梨さんは、どうすればいいか?
「なあ、詩乃梨」
「……だから、なんで、呼び捨て……。…………でも、許す。はつげんを、きょかする」
「有り難き幸せにござる。……でね、しのりん。とりあえず、運動しよう!」
それは、ともすれば、話をはぐらかしにかかっていると取られかねない提案。けれど俺は、そんな意図での発言ではないのだという熱意に満ちた眼差しによって、詩乃梨さんの瞳に浮かびかけた猜疑心を跡形も無く吹っ飛ばした。
詩乃梨さんはちょっとたじろぎながら、つっかえつっかえ口を動かす。
「うん、どう。………………今の流れで、なんで、それ? ……身体を動かせば、ポジティブになれるからとか、そんなやつ?」
「それも有るには有るけど、俺の狙いはもっと別な」
「べつ……?」
再度疑問符を浮かべる詩乃梨さんに、俺はすぐに回答することはせず、ちょっとした準備を先に終えてしまうことにした。
長々と握っていた詩乃梨さんの手を離し、スポーツバッグやリュックを芝生の上にぼすんと下ろす。結構な重量を受けとめ続けていた肩を軽く回してほぐしつつ、リュックの口を開けて中身をごそごそと漁る。
しゃがんでる俺の肩に、詩乃梨さんが背後から体重を預けてきて、俺の手元を覗き込んできた。
「……ねえ、べつってなに? …………そういえば、それ、何入ってるの? 水入ってるのは知ってるけど……」
「他にも色々だよ。着替えとか、タオルとか、あとは色んな遊び道具。……あ、なあ詩乃梨さん、野球――じゃなくて、ソフトボールと、サッカーと、バドミントンと、縄跳びなら、どれが好き?」
「バドミントン。かやをぼこぼこにして、ひーひー言わせるの楽しい」
そんな理由かよ……。しかも本気で楽しそうににやにやしてやがるし。でも香耶の場合は好きでひーひー言ってそうな気がするな、あいつも俺と同じでしのりん大好きっ子だから。
詩乃梨さん、子供の頃の体育には良い思い出が無いみたいだけど、今はそうじゃないみたい。俺までついついにやにやしちゃってたら、詩乃梨さんがにやにやをやめて咎めるような視線でぐさぐさ刺してきたので、俺はリュックから発掘したブツを掲げて詩乃梨さんの注意を逸らした。
「……なにこれ?」
「見てわかんないか? バドミントンの道具。つまり、ラケットとシャトルだな」
俺はリュックの口を締め直して立ち上がり、二本あるラケットのうち片方を詩乃梨さんに向かって差し出す。
詩乃梨さんは思わずといった調子でそれを受け取ってから、不思議そうな顔でためつすがめつ眺め回した。そして、一言。
「なんかこれ、しょぼい」
「しょぼい言うなし。最初に『遊び道具』って言っただろ、それ子供向けのおもちゃなんだよ。でも意外とよくできてるだろ? なんてったってメイド・イン・ジャペァン!」
ジャペァンってのは、買ったときの包装に実際に書かれてました。どう見ても海賊版です、ありがとうございます。でも意外と作りは良くて、正式なラケットの純粋なミニチュア版って感じで、俺は気に入ってる。
詩乃梨さんは若干訝しげな顔でラケットをひゅんひゅん素振りしていたが、はたと何かに気付いて再びこちらに顔を向けてきた。
「なんでこんなの持ってるの? ……どこの子供とやったの? ………………どこの女とヤって、子供――」
「しのりんまで俺の浮気疑わないでくださいな、ドツボはまっちゃいますので。……別にどこの子供とも使ってないよ、完全に自分用だから」
「…………………………ふぅん……?」
俺が浮気を完全否定したことで満足したらしく、詩乃梨さんは再び素振りへと戻っていった。
これの入手に至るまでのしょーもない裏話については、休憩時間の暇つぶしにでも語ることにして。俺も軽く素振りして感触を確かめながら、ふと思い出したので、完全に忘れかけていた問いについてようやく回答する。
「なんで、いきなり流れぶった切って『運動しよう』って言い出したのか、だけどさー」
「うんー」
「そうやって、色んなイベントを詩乃梨さんと積み重ねていけば、その経験がそのまま詩乃梨さんとの信頼関係に繋がるだろうって」
「そっかー。………………じゃあ、まずはひとつ、つみかさねちゃう?」
「おう。積み重ねちゃう」
愛刀と化したラケットと対話していた俺と詩乃梨さんは、場の空気がにわかに引き締まったことを感じて、互いの宿敵の尊顔へ焦点を合わせた。
詩乃梨さんは、香耶を倒しまくった経験が自信へと繋がっているらしく、ちょっと挑発してくるような笑みを浮かべている。
対する俺も、思わず挑戦的な笑顔を浮かべてしまう。詩乃梨さんに、教えてやらねばなるまい。現実はきみが思っているよりずっと厳しいのだと。たとえ経験値1の最弱モンスター(←超失礼)を何十回倒したところで、得られる経験値は三桁にすら届いていないのだということを!
――そして、俺と彼女は共に学ぶ。たとえ経験値が1しかないような他愛のない出来事であっても、何百、何千、何万と繰り返していけば、いずれは鋼の信頼関係に至ることができるのだということを。




