★四月三十日(日・5)。彼と彼女は、未だ、恋人ですらない。
綾音さんとまほろばで別れ、香耶と佐久夜を駅まで送った後。俺と詩乃梨さんは、スーパー『おがわ』に寄って食材を買い込んでから、アパートへと戻った。
俺の部屋で、詩乃梨さんが夕飯を作って、二人で一緒に食べて、俺が茶碗を洗い終えて。現在は、あとはそれぞれお風呂に入れば、そのまま布団に潜っておねんねしても大丈夫っていう所まで来た。
来た、けど。俺と詩乃梨さんは、ベッドを背もたれ代わりにして体育座りしたまま、身を寄せ合って、動かない。否、動けない。動く気になれない。
「…………………………………」
俺、無言。詩乃梨さんも、無言。これは今この瞬間に限った話ではなく、駅で二人きりに――二人ぼっちになってから、ほぼずっと続いている沈黙であった。
俺も詩乃梨さんも、どうにも上の空だ。どのくらい上の空かという、俺がおがわの殺人的な人混みを完全スルーしたり、詩乃梨さんが天敵であるレバーを文句も言わずに完食するくらい。ついでに言うと、俺も詩乃梨さんも楽な格好に着替えるとか全くしないで、未だ外に行った時の格好のままだ。
かわいい女子高生と、イケメン風の男が、寝室で二人きり。おまけに二人は身体をぴったりと寄せ合っていて、互いの体温や肌の感触を交換し合っている。客観的に見れば、このままベッドインしてもおかしくないというか、むしろそうするのが自然な状況だろう。
けれど、ベッドは今、俺と詩乃梨さんの背もたれとしての機能しか果たしていない。俺も詩乃梨さんも、ただぼんやりと虚空を見上げるのみ。
俺が上の空な理由は、その裏でまたいつものごとく思考をぐるぐる回しているから――では、ない。むしろ、思考はほぼ停止に近い状態に陥っている。詩乃梨さんもおそらく、俺と同じような感じだろう。
俺と詩乃梨さんが思考を放棄している理由は、考えるとかなんとかいう小難しいことをやろうなんて思えないほどに、心の内をあるひとつの感情が支配してしまっていたからだ。
「……なんか、寂しいな」
「……うん。そだね」
俺がぽつりと呟けば、詩乃梨さんがぽつりと呟き返す。そして俺達は、より一層互いの身体を押しつけ合った。
『祭りの後』。俺と詩乃梨さんの胸中を満たしているうら悲しい感情は、まさにそれだった。
随分と……、随分と、充実していて、濃密な二日間を送った気がする。他人に何も求めなくなっていた俺と、他人と深く関わることのなかった詩乃梨さんが、心から気の許せる他人と――『友達』と共に過ごした二日間。友達なんだか疑似妹なんだか疑似姉なんだかよくわからんけど、とにかく大好きな人達とべったりしながら過ごした、昨日と今日。
色々、あったな。改めて思い返すと、本当に色んなことが有った。普通の人だったらスルーしてしまうような些細な出来事も、普通の人がスルーできないような重大な出来事も、彼女達と過ごした時間の全ては等しくたいせつで、俺と詩乃梨さんの心のアルバムにしっかりと刻み込まれている。
「……楽しかったね」
「……ああ、そうだな」
詩乃梨さんがぽつりと呟けば、俺がぽつりと呟き返す。そして俺達は、床に置いていた手を、どちらともなく重ね合った。
俺は下。詩乃梨さんは上。恋人繋ぎで、互いの指をゆるりと絡める。
服越しでは得られず、直の肌と肌を重ねることでしか得られない、名状できない不思議なぬくもり。そのあたたかさが心に染み渡っていく。
胸に空いていた穴に、少しずつ、少しずつ、愛が満ちていく。胸を締め付けていた痛みが、少しずつ、少しずつ、癒されていく。
この身を襲ううら悲しさは、まだまだ消えてなどいない。けれど、だからこそ、詩乃梨さんが俺の心にくれる優しいぬくもりが、より一層あたたかく、心地良く感じられる。
それはまるで、冬空の下でくぴりとあおる、あったか~い缶コーヒーのようだった。
「……………………」
ふと詩乃梨さんに目をやってみれば、彼女も俺の方を見ていたようで、ばっちりと目が合う。互いの瞳には、互いの微笑みが映し出されていた。
「……こたろー、嬉しそうだね。……なんで? …………あ、えっとね。かわいい女の子達が、みーんな帰っちゃったのに、なんでそんなに嬉しそうなの?」
「それ、わざわざ言い直す必要有ったか……? じゃあ俺もわざわざ言う必要無いと思うけど、『俺にとって世界でいちばんかわいい女の子が、俺の隣に残ってくれているからだ』って答えとこう」
「……………………それ、ほんと言う必要無いやつだよね……。こたろー、ばーか。………………まじ、うける……」
詩乃梨さんは、照れ隠しなのがありありと見て取れる不機嫌ヅラを見せつけてきたけど、ほんの数秒も経たないうちに幸せそうな微笑みに戻ってしまった。
「詩乃梨さんこそ、すっげー嬉しそうじゃんか。大好きなお姉ちゃんやお友達が、みーんな帰っちゃったのに、なんでなの?」
「…………………………………………言っておくけど、『こたろーが隣にいるからだー』、なんて言わないからね?」
残念無念であった。けれど詩乃梨さんが、『大好きじゃねーし』なんて心にも無いツッコミを口にすることなく、しあわせそうにこにこしていらっしゃるので、俺はなんかもう残念も無念もなく成仏してしまえるほどに菩薩モード全開である。いや成仏しねぇよ? 俺は詩乃梨さんと一緒に生を謳歌しなければならんのでね。
俺の生涯の伴侶であるところの詩乃梨さんは、俺と繋ぎ有った手をしみじみと眺めながら、話の流れをぶった切ってこんなことを言い出しました。
「ねえ、お風呂入る?」
「……ん、ああ、そだな。じゃあ今日は、どっちが風呂洗うかじゃんけんで決めるか? 勝った方が、労働の喜びと、報酬の一番風呂ゲットな」
「一緒に入ろ?」
「……ん、ああ、そだな。じゃあ今日は、二人で風呂洗って二人で一番風呂だな。なんて冴えた案なんだ、労働も報酬も夫婦二人でわか、ち、あ………………………………うぇっ?」
この娘、今なんつった。
彼女の真意を表情から読み取りたいけど、しのりんってば首よ折れろとばかりにあらぬ方向に顔向けちまったので無理でござる。つか、表情見るまでもなく態度で真意が丸わかりで、そもそも読み取るとかするまでもなくストレートに意思表示してましたね、この子。
幸峰詩乃梨さんは、俺と一緒に、お風呂入りたいんだってさ。
「……一応訊くが、ただ一緒にお風呂入るだけ……ってことで、いいんだよな? ほら、前みたいにさ」
「……こたろーがそうしたいなら、そうすればいいんじゃないの? ところで、こたろーの指へし折っていい?」
「…………………。ごめん、ちょっと再チャレンジ。一応訊くが、ただ一緒にお風呂入るだけ、ってわけじゃないんだよな? ほら、前とは俺達の関係違うんだしさ」
「……………………関係、どう、違うの?」
あれっ、素直に返事もらえずに予想外の所に食いつかれちゃった。今度こそ彼女の真意を心眼でリーディングしたいんだけど、愛らしいかんばせは未だにそっぽ向いちゃったままなので、俺の未熟な心眼では看破不可能。とりあえず、さっき指へし折られそうになった時みたいな憤怒を滲ませてる-、ってわけじゃないのはわかるけど、逆に言えばそれ以上はまったくわからん。ほぼノーヒントでの回答を、今私は求められております。
問。俺と、詩乃梨さんの関係が、以前一緒にお風呂入った時とは、どう違うのか?
……………………肉体の関係になっていること、か? ……ダイレクトすぎる表現ではあるけど、たぶん不正解ではないよな。詩乃梨さんの言を借りるなら、『どうせ一回カラダを重ねた仲なんだから、一緒にお風呂に入るくらいはちっとも問題じゃないよね』ってところだ。でもどう考えても大問題だな。じゃあ次の回答。
……………………未来を誓い合った関係になっていること、はどうだ? ……うん、いいんじゃね? いずれ夫婦になるんだから、一緒にお風呂入るくらいはちっとも問題じゃないよね。ちっとは問題かもしれないけど、少なくとも大問題ではない。
よっし、じゃあ回答、いかせていただきます!
「俺と、詩乃梨さんの、関係は、あの時とは違って――」
未来を誓い合った俺達の、今現在の関係って、いったいなーんだ?
「――『恋人同士』に、変化している。……………なーんちゃって?」
ずっと、俺と詩乃梨さんの間に漫然と横たわり続けていた、『俺と彼女の関係を表すための適切な肩書きが存在しない』という問題。それに対して決着をつけるチャンスかもしれないという思いがちらっと頭を過ぎり、ほんの一秒前まで気配すら無かった台詞がいきなり飛び出してきてしまった。
飛び出させてから激しく後悔したので、おどけてなんとか誤魔化そうと画策したけど、むしろ誤魔化さなきゃよかったと激しく後悔することになりました。
「……なーんちゃって、なの? ……………わたし、こたろーの……、恋人、じゃ、ないの?」
詩乃梨さん、とんでもなく呆けたお顔で俺を見る。ようやく顔をこっち向けてくれたのは嬉しいが、俺は詩乃梨さんのこんな表情を見たかったわけではない。
つか、やっぱ既に恋人ってことでよかったんだね。俺、無駄に難しく考えすぎてただけだったみたい。そうだよね、こんな同棲カップルみたいな毎日送ってて恋人ですらありませんなんて話あるわけないよね。
俺、完全にしくじりました!
「や、あのさ、詩乃梨さんは、俺の、恋、こいびっ、……こいび、と? だ、よ? ちゃんと、ほんと、こいっ、こっ、こ、こいび、こいびっ……と、だ、よっ! 幸峰詩乃梨さんは、俺、土井村琥太郎の、こっ、ここ、こここここ、ここ、こいっ、こ、こい、こっ」
やべぇ、恋人って言葉がまともに口に出来ない。詩乃梨さんは俺の未来のお嫁さんだよ、ならさらっと口にできるけど、今現在貴女は俺の恋人ですって言葉はものすんごく言いづらい。だって、俺と詩乃梨さんって、長いこと『休みの日に屋上で一緒に飯食べるだけの間柄』っていう意味わかんない関係続けてたから、いつかとかじゃなくて今すぐ関係を確定させろって言われると、思わず尻込みしちゃう。
俺が尻込みすればするほど、詩乃梨さんの纏う空気がどんどん剣呑な物へと変化していく。ぴりぴりですか? いいえ、ビリビリです。ここ最近お目見えしていなかった雷龍様が、未だかつて披露したことのない完全体となって降臨しそうな気配です。
俺は、雷龍の瞳を必死に見つめて、全身全霊で希う。
「――おっ、俺に、告白、させてくれ!」
「罪の?」
「間髪入れずに無闇に怖い返ししないで!? 違うよ、俺は貴女が大好きですって告白がしたいの! 幸峰詩乃梨さん、ずっと貴女が好きでした、どうか俺とお付き合いしてくださいって告白したいのっ! 俺ものすんごいチキンだから、そういうちゃんとした告白してからしっかりOKもらわないと『詩乃梨さんは俺の恋人です』なんて言えないんだよっ! 『貴女と一緒に過ごす時間が俺にとって何よりの癒しでした、俺はその時間をこれからもずっとずっと味わいたいし、貴女から受け取ったものを何倍にもして貴女に返してあげたい、だからどうかお願いです、俺と結婚を前提にお付き合いしていただけませんか』みたいな想いの丈を真っ正面からぶつけてから詩乃梨さんにしっかりきっちりきっぱりはっきりしゃっきり『うん!』ってお返事もらわないと、恋人名乗るなんて俺にとっちゃ無理難題なんだよぅ!」
「……………………………………ふ、ふ、ふふ、ふ、ふ、ふぅ、ふぅ、ふ、ふふ、ふ、ふふっ、ふ、ふふふふ、ふぅふぅ、ふふぅっ、ふー、ふーッ! …………………ふっ、ふぅ、フゥン?」
なんだその変な鼻息。鼻息って言うか、顔真っ赤にして荒い呼吸しまくってから、最後は口で『ふぅん』棒読みしおったぞ。雷龍のガワなんぞ一瞬で欠片も残さず消し飛び、後にはただただ猛烈に恥じらいまくっている無垢なる少女の姿のみがあった。
少女は、こほり、とかわいく咳をして。咽の調子を整えるように口元に拳を当てて軽くんんっと唸り、俺と繋いでいる手を忙しなくもにゅもにゅと蠢かせ、視線をふらふらきょろきょろ彷徨わせながら、上擦りまくった素っ頓狂な声で告げた。
「そうイう、ことなラ、しっ、し、しかタ、なひ、ですな? ………………わっ、わ、たし、は、こたろーくんとは、まっ、ま、まだ、こっ、こい、こいっ………………、こいビートではない、と、うん、そう、そういうことで、今は、いいです、うん、いい。………………すっごく、イイです……」
……………………。俺の罪は赦してもらえたみたいだけど、なんだろ、代わりに告白のハードルがぐんぐん上がっているのを感じる。詩乃梨さんさ、俺に告白されるシチュエーションを妄想して一人で盛り上がって度々うっとりしてたじゃん? そういう時と同じお顔しちゃってます、今。
やっべぇな、これ下手な告白するとがっかりされちゃうぞ? かといって、小洒落たレストランでディナーに舌鼓打ちながら花束と一緒にラブレターと指輪を渡しつつ気取った台詞で告白するとか、そんなのはやっぱ違うしなぁ……。そもそも、詩乃梨さんって超庶民派だから、レストランの予約なんて取った時点で金の無駄遣い扱いされて白い目で見られちゃう。なんて良妻、結婚してくれ。
じゃなくて。俺と、お付き合いしてくれ! あと告白のハードル下げてくれぇ!
「とっ、とりあえず、告白はまた後日改めて、ってことにしてもらっていいかな……? 詩乃梨さんのこと、いっぱい考えて、俺も詩乃梨さんも大満足な告白、絶対してみせるから」
「うんっ! わかった! わたし、すっごい、楽しみにして待ってる!」
はい、自分でハードルさらに上げました。自分で自分を追い込んでいくスタイル、嫌いじゃないぜ。ははは、ハハハ……。
まあいいや。詩乃梨さん、穢れ無き童女のように裏表の無い無垢で可憐な笑顔で喜んでくれてるから、俺、この笑顔を護るために身命を賭して有言実行致す所存。俺はやればできる男です。
つーわけで。告白は告白できちんと考えるとして、今はとりあえず話題を元に戻すかな。
「で、未だ恋人ではない俺達は、一緒にお風呂入るのってアウトかな?」
これに詩乃梨さんが、とろんと蕩けるような満面の笑みで答えて曰く。
「せーふで-す、よゆーでセーフでーす。前だって、そうだったじゃん? なんでいまさら?」
「まあ、今更ではあるけどさ。でも後できちんと告白するんだなって思うと、今はもうちょっと節度有るお付き合いに留めておくべきなのかなって思いがね?」
「…………………う、うぅ、ん……。………………じゃあ、えっちなことしないつもりで、一緒に入ろ? で、流れでしちゃう♪」
「しちゃうんかい!」
思わずツッコミ入れてやったけど、詩乃梨さんってば悪びれもせず、てへりと舌を出してあざとく笑うのみである。わぁー、これすっかり理性飛んじゃってるよー。雷龍さんがナリをひそめた代わりにサキュバスさんがおでましだよー。
じゃあ、まあ、うん、えっと、あれだね、そう、あれですね。
「一緒に、お風呂、行きまっしょい?」
「いきまっしょーいっ!」
若干おそるおそる風味が香る俺とは対照的に、詩乃梨さんは拳を天に突き上げて元気よくお返事してくれました。
◆◇◆◇◆
この日の日記は、ページの一部が破られている。
探せば、どこかに、その切れ端がありそうだ。




