四月三十日(日・4)。いずれ、愛に至りうるかもしれなかった好意。
数十分後。
現在詩乃梨さん達が陣取っているのは、フロアの最奥。二人がけの席と四人がけのテーブル席が、通路に隔たれながらも、壁沿いに設置されたアンティーク風味のソファーで地続きになっている一角だった。
彼女達がなぜその席を選んだのかを推察するには、各人の配置と、大小二つの机の上にそれぞれ広げられている物について見ていかなければならない。だから見よう。
テーブル席側に座っているのは、詩乃梨さん、香耶、綾音さん。机の上に並んでいるのは、人数分の本格派コーヒーと、咲き誇る色とりどりのプチケーキ。かわいらしい洋菓子がフォークによって一層かわいらしいサイズに切り分けられ、それをかわいい女の子達が唇の中へそっと運ぶたびに、笑顔の花が咲き乱れゆく。
そんな妖精達の楽園を、対岸で指くわえて眺めることしかできない二人がけの席。そこには、佐久夜がただ一人でぽつんと座っている。楽園を意識の外へ追いやってすぐ目の前の現実へと向き合った佐久夜を待ち受けていたのは、あま~いケーキやほろ苦いコーヒーなどではなく、無味乾燥した教科書やノートや問題集の群れであった。
せつねぇ……。俺が今いるカウンター席からは、詩乃梨さん達の席まで真っ直ぐに繋がっているので、佐久夜の表情も心の裡もストレートに透けて見えてしまう。遠間の俺でさえそうなのだから、すぐ間近の詩乃梨さん達は俺以上に佐久夜の気持ちを把握しているはずなのだが、詩乃梨さんも香耶も綾音さんも容赦なくケーキに舌鼓を打っている。
詩乃梨さん達の態度は、一見イジメのようにも見えるが、勿論そんなことをしているわけではない。そもそも、あのせつない席順は佐久夜自身の熱烈な希望によって決定したものだ。
あの子達が何をやっているのかっていうと、要するに、『馬の鼻先にニンジンぶらさげてしゃかりきに走らせよう』みたいなことだ。昨日やっていたようなえらく手間のかかる勉強法では今度のテストを切り抜けられないと判断したらしく、佐久夜はこうして自分で自分に鞭を打つような策を敢行したわけだ。
そんなことしてたら、ますます勉強が嫌いになってしまいそうな気がするけど、そうなったらそうなったで、また詩乃梨さんや香耶が親身になって方策を考えてあげるのだろう。それに綾音さんもか。あと、一応俺もだな。
佐久夜の集中力が切れそうになる度に、詩乃梨さんがそっぽ向きながら意味もなくボディータッチ仕掛けて応援の意図を表現したり、香耶がフォークに刺したケーキをちらつかせて挑発めいた激励を送ったり、綾音さんが自分のコーヒーを軽く啜らせてあげたりしてる。
せつなさは確かにあるけれど、せつないばかりでは決してない。甘さだってい~っぱい有る、とてもすてきな光景がそこには広がっていた。
で。そんなすてき光景に背を向けて、前に向き直った俺を待ち構えていたものは、すてきさんがご臨終してるような光景。即ち、むさいヒゲ面親父がやる気なさげにコーヒーカップを洗っている姿であった。
「……なあ、それいつまで洗ってんの? つか、よく考えたらいっつも無駄に洗いまくってるけど、なんか意味あるのか?」
「あー? ……あー。そりゃお前ぇ、これは店の世界観作りのための単なる小芝居――何言わせんだテメェ!」
「自分で勝手に言ったんじゃん……。なあ、おっさんいつも以上に気抜けてね? あと女の子達の方見過ぎ。俺じゃなくておっさんがロリコン疑惑かけられちゃうよ?」
まあ見てたのは綾音さんのことだけなんだろうけど。でもそれはそれで近親相姦疑惑かけられちゃうね。あ、それについてはむしろ疑惑に終わらず事実になった方がいいのか、綾音さん的に。
でも、おっさん的にはどうなんだろう。なーんて怖くて聞けません。返答次第では綾音さんが盛大に傷ついて俺が強姦プレイで慰める未来に突入してしまうし、それに恋愛方面の話題始めちゃうと俺と綾音さんの関係について疑われるような藪蛇展開に突入しかねないし。
しかし、時は既に遅かった。話題は既に恋愛方面へと転がってしまっていたようで、おっさんは眉をぴくりと上げて低い声でこんなことを言ってきた。
「お前ぇだって人のこと言えねぇだろ。随分と熱心に妖精さん達の方見てたじゃねぇか。……お前ぇが気にしてたのは、あの白いお嬢さんだけじゃねぇんだろ?」
「恋愛的な意味ではあの白猫さんだけが気になってるけど、そういう意味じゃないならあの場の全員を気に掛けてるよ。たぶん、おっさんや、あの子達が思ってる以上に」
「………………………はぁん。……そりゃあ当然、綾音のことも、なんだよなぁ?」
はい、きました。俺の生死を分ける運命の問い。ここでどう返答するかによって、リーマンが現世を生きるか異世界へ転生するかが分かれます。
どうしよ。ほんとどうしよ。背中の冷や汗が止まらない。手にしたカップがかたかた震えて、カフェオレ色の水面がぴちゃぴちゃ波打ってる。そんな風に心も体もがたがた揺らしてる俺とは対照的に、おっさんは洗い物の手を止めて、獲物の品定めをする野生の熊みたいな底知れない目でじっと見詰めてきてやがる。
どうする。綾音さんと事前の打ち合わせ、結局してない。今からしてくる? でも熊から目を逸らすの怖い。じゃあ目を逸らさないままそろりそろりと後退して、女の子達の方へお尻からダイブ――その絵面、なんかものすんごいあほだなぁ……。
ああ、もういいや、言っちゃお。
「ぶっちゃけ、綾音さんのこともかなり気にかけてる、ってか気に入っちゃってるよ。恋愛的な意味ではないにしろ、人間的には大好きだし、肉体的にも普通にえっちなことできるくらいに大好き。ていうか、昨日、ちょっと以上にえっちっぽいことしましたでも俺だけじゃなくて綾音さんだって望んだことだしそれに一線は本当に超えておりませんからどうか許してつかぁーさいッ!」
俺は言い終えるや否や、さっと頭を抱えてカウンターに突っ伏した。対爆防御姿勢ではなく、降伏するけどなるべく痛いことはしないでねのポーズである。やだなぁ、怖いなぁ、どんな折檻が待ってるのかなぁ、おっさんだってまさか俺と綾音さんが本当にそういうことしてたなんて絶対思ってなかっただろうから、ノーガードだった所にいきなり強烈な一発をもらったことでカッと頭に血が上り髪が逆立ち己を律することを忘れてただ激情に流されるままに尋常ならざる膂力を嵐のごとく振り回――
「はぁん」
――さなかった。おっさんが返してきたのは、ぞんざいな鼻息のみ。
それからいくら待っても、追加のリアクションは無し。おそるおそる頭を上げて様子を窺ってみたら、おっさんは完全に無意識の動きでカップの水滴を拭いながら、激情どころかろくに感情の籠もっていないぼんやりとした顔で俺を見下ろしていた。
ぼんやり顔のまま、おっさんはちょっとだけ首を傾げる。
「お前ぇ、白いお嬢ちゃんと、いずれ結婚するんだよな? ……………………早くも浮気か?」
「なわけねぇだろ、俺はいつだってしのりんあいらびゅーだ。……ただ、昨日は、なんつーか、色んな事情が絡んで、非日常的な空間が出来上がってたっつーか――あ、言っとくけどみんなちゃんと正気ではあったし合意の上だったし詩乃梨さん以外とは一線超えてないし香耶と佐久夜は服すら脱いでないからな?」
「…………………………それ、綾音は脱いだってことじゃねぇか……? つか、全員となのか……。………………あんまり、余所でそういうこと言ってやるなよ? 俺も、忘れてやるから」
「…………………………悪い、助かる」
そうだよね、これ絶対余所様に暴露しちゃいけない奴だったよね、女の子達に失礼すぎるよね。ごめんね、みんな。俺、もう誰にも言わないから。あとおっさん、忘れてくれてありがとな。
……………………え、忘れていいのかおっさん? 俺今、『貴方がだいじにだいじに育て上げた箱入り娘は、服脱いで俺とえっちなことしましたよ』って暴露しちゃったわけなんだけど、それ忘れていいとこなの? あとさ、あんた今『自分は乱交にも理解がある』みたいな態度でしたよね、すんごくナチュラルに。どうなってんだおい、あんたほんとどうした。
そんな恐怖に似た驚愕が俺の全身から汪溢していたらしく、おっさんは未知の汚物に相対するかのように顔をしかめて若干身を引き、ついでに長々とした溜息を吐き付けてきた。でも、その溜息が終わる頃には、おっさんの顔にはいつもの――いつも以上にやる気も元気も無い表情が張り付いていた。
「……若いうちは、色々あるもんだ。あの妖精さん達も、お前ぇも、……それに、綾音も、だな。……もしお前ぇが、そういう色々を『若気の至り』っつー便利な言葉で済ませちまうようなクソみてぇな野郎なら、俺が色々骨を折ってやる所なんだがなぁ……」
「それただの比喩ですよね? 甲斐甲斐しく世話を焼いて更正させてくれるってことですよね? 物理の話じゃないですよね? ねっ?」
「さてな。……………………そうかぁ……。綾音が……。………………そうかぁー……」
おっさんはぼしょぼしょと呟きながら、ひょろりと細長い溜息を吐いた。数十秒おきに何度も何度もそんな息を吐いてから、やがて手の中でぴかぴかに輝いていたカップを手近な所に置き、例の実験器具みたいなコーヒーメーカーを引っ張り出しつつこちらに声を投げてくる。
「お代わり、要るか?」
「…………え、まだ残ってるんだけど……」
「……あー? ……あー、そうか……。………………じゃあ、さっさと飲み干しやがれ。早く俺にコーヒー作らせろ。疼く、腕が疼きやがって仕方ねぇ」
「どんな特殊なコーヒー中毒者だよ。ひでぇバリスタがいたもんだなおい」
「ハハッ」
ハハッじゃねぇよ、笑って誤魔化すな。でもおっさん、ちょっと元気になったみたいだから、ここは下手な茶々入れないで大人しくコーヒー飲むか。
俺は女の子達のきゃっきゃうふふをBGMにしながら、ちょっとぬるくなってしまったコーヒーをずずーっと啜った。うん、美味い。あと落ち着く。さっきまでケツに汗握ってたから、落差で余計にほっとする。超まったりである。
おっさんはおっさんで、カウンターに手を突いて軽く体重を預けながら、まったりとした面持ちで女の子達の方を眺めていた。
「……なぁー、琥太郎よぉ」
「んー?」
「俺よ。綾音で、勃たねぇんだわ」
「んー。…………………………ん?」
たつ? 何が? と視線で問いかけてみたけど、おっさんは相変わらず俺の遥か後方を眺めたままなので、アイコンタクト届かず。
黙ってりゃ続きを言ってくれるかなと思ってひたすらコーヒーくぴくぴ飲み続けるも、おっさんは追加の台詞を放つ気配無し。そうしているうちにカップが空になったので、俺はそれをおっさんに差し出しながら仕方無く口を開いた。
「おっさん、今の何の話?」
「綾音の、将来についての話だな」
マジか。そんな話してたのか今。全然わからなかったぞ。
おっさんは俺からカップを受け取り、アルコールランプにマッチで火を灯したりなんだりしながら、作業に集中しているフリをしつつ話を続けた。
「綾音だって年頃だ。やっぱ、『そういうこと』にも興味あるんだろうな。……でもな、俺じゃあ、そういうこと、あいつにしてやれねぇんだ。………………あいつはやっぱ、俺にとって、どこまでいっても『娘』だからよ。いくら裸見せられようが、こっちに触ってこようが、ガキの頃のあいつの笑顔とか、赤子ん時の泣き顔とかが浮かんできちまって、ヤるだの興奮するだの、そんな次元の話じゃなくなっちまうんだよ。
――どう足掻いても、これは一生変わんねぇ。あいつが俺の娘として生まれた過去を、変えでもしない限りはな」
……………………何でもない風を装って強烈な下ネタぶつけて来やがったと思ったら、間髪入れずにとてつもなく真面目腐った顔でSF染みた話振ってきたぞ。あれっ、これもしかしてリーマンの異世界転生無双列伝じゃなくて、或るバリスタが禁じられた恋を成就させるためにタイムリープを繰り返す大長編恋愛物語が始まっちゃう感じ? いや始まらないけど。
始まらない。つか、終わった。今、或るバリスタの愛娘の恋愛物語が、不条理な敗北と共に終焉を迎えた。
……いや、今終わったわけではないな。俺がその約束された敗北を知ったのが今この瞬間であったというだけの話で、おっさんや綾音さんに何某かの変化が発生したわけではない。
おっさんも、俺との会話で何かが変わることを望んではいないようだった。敢えて言うなら、己の中で固めていた決意を誰かに聞いてもらうことで、己の意思を再確認することを望んでいたのだと思う。
強ばっていた表情筋を緩めたおっさんは、晴れやかとはまた異なる、どこか悟りに近しい空気を滲ませながら、出来上がったコーヒーを俺に向かってそっと差し出して来た。
「飲め。この一杯だけは、俺の奢りだ」
「……………………あ、そ、そう? じゃあ、遠慮なく、いただき――」
「その代わりっちゃぁ、なんだがな。綾音がまた、『そういうこと』したいって言ってくるようなことがあれば、あいつの気が済むまで相手してやってくれや」
……………………………………………………………………。
あれ? この一杯って、おっさんの話を聞いてあげたことに対する感謝の気持ちみたいなものじゃなかったの? 今追加で何か要求されませんでした? 俺の気のせい? そうよね、だってコーヒー一杯と同じ天秤に載るようなお願いじゃなかった気がするし、そもそも子煩悩極まってるこのおっさんが死んでも口にしないようなご依頼だった気が致しますので、今のは空耳、きっと空耳。
それにほら、おっさんだってすっかりいつものやる気なさげなお顔よ? こんなデフォルトの表情のまま、自分の娘がどこの馬の骨とも知れない野郎に純血を散らされることを容認どころか推奨するような発言をするわけ――
「ま、綾音がまたそういうこと言い出したらの話だけどな。それに普通に考えたら、あの白いお嬢さんも許可なんざしちゃくれねぇだろうし。……だから、まぁ、頭の片隅に留めておいてくれりゃ、それでいい」
「………………………………おぅっふ……」
空耳じゃなかったよぉ……。嘘でしょぉ……? 嘘じゃないの? え、本気? ちょっとまだ半信半疑でございます。
コーヒーに手を伸ばすか伸ばさないかはっきりできずにふらふらしている俺に、おっさんは「ああそれとな」なんてもののついでみたいに追加攻撃を仕掛けてきた。
「もし万が一、綾音とのガキが出来たら、ウチで引き取って育てるってのも選択肢の――」
「わぁいコーヒーだあいっただっきまーすっ!」
俺は会話を強制終了させるべく、コーヒーを引ったくってがぶがぶ飲み下――そうと思ったらブラックだったので二口程度しか飲めませんでした。
おっさんは俺の反応の理由を丸ごと理解してくれたようで、何も言わずに軽く笑いながら、俺の手からカップを抜き取って適度に糖分を加え始める。
俺はおっさんの作業を眺めながら、ぼそりと呟くように問いかけた。
「……俺の所に、子供できたらさ。子育てについて、相談とかしてもいいか?」
詩乃梨さんとの。……綾音さんとの。――或いは、それ以外の誰かとの?
それを示さぬまま放り投げた台詞に、おっさんはただ力強く「おう」とだけ返してくれた。
◆◇◆◇◆
まほらばからの帰り道。夕日に照らされた街並みに、夜の気配を匂わせる風がひゅるりと吹き抜け、消えていく。
消えるといえば、往路で俺の手に温もりをくれていたはずの、あの女性の姿が今は無い。俺の隣は空席で、前方数歩先では、呆れ顔の詩乃梨さんの周囲を香耶と佐久夜がきゃんきゃん言い合いながらぐるぐる回っている。何やってんだあいつら。
「だ・か・らっ! どうして佐久夜ちゃんはそうやって事ある毎に私の胸揉んでくるんですかっ!? やるなとは言いませんから、せめて時と場所を考えてくださいっ!」
「えー、今めっちゃベストな時と場所だったじゃーん? ほらー、歩いてるのうちらだけだしー、でもお外だしーで、かやちーの特殊な性癖を満たしてあげるには絶好のチャンスだったよねっ!」
「野外で胸揉まれて喜ぶような性癖なんて無いですからっ!? そんなことばっかりするなら、もう二度と触らせないですからね!?」
「…………………………触らせるの自体は、いいんだ……」
詩乃梨さんがぼそりとツッコミ入れてる。それを聞いた香耶が駆けていた足に急ブレーキをかけて、背中に佐久夜がぶつかって「ぷへっ」と悲鳴を上げてるのも気にせず、詩乃梨さんの両肩をがしっと掴んで慌てて言い訳した。
「わたしは、触られるより触りたい派ですっ! 詩乃梨ちゃんのとか、是非、ぜひっ、ぜひ触らせてくださいっ!」
言い訳の方向性間違ってるぞ。しかも言い訳なんぞどこへやら、ここぞとばかりに熱烈アプローチ仕掛けとる。
詩乃梨さんはどうやら、香耶の手首にぶら下がっていた学生鞄やら紙袋やらががんがん当たって痛かったらしく、結構容赦ない手付きで香耶の手をぺしっとはたき落とした。すぐさま、止まってしまっていた足も動かす。
「触りたいなら、自分の触ってなよ。わたしのは、ダメ。……………………だっ、だ、だってわたしのは、わたしのじゃなくて、こっ、こ、ここ、こたろーのもの、だから――うっひゃぁああああぁぁぁぁぁぁ……」
詩乃梨さん、勝手に自爆してほぼダッシュみたいな勢いで先へ行ってしまわれました。香耶は一瞬呆然としたものの、すぐさまはっと正気を取り戻し、詩乃梨さんの残り香を回収していくかのようにぴったり同じルートで後を追いかける。
残された佐久夜は、そんな二人を『フッ。やれやれだぜ』なんて言いたげなキザなジェスチャーをしながら見送って、俺が追い着くのを待って隣に並んできた。
佐久夜はスキップみたいに軽快に歩きながら、にやりといやらしい笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んでくる。
「しのちーのおっぱいはー、こたちーのなんだってさー? どうですか、恋人にそんな萌える発言されちゃった彼氏さんの心境は?」
恋人。彼氏。俺と詩乃梨さんは、そういう間柄で、いいんだよな。お付き合いしてくれと申し込んではいないけど、結婚の約束はしたし、半ば同棲みたいな生活してるし、子供ができるような行為にも何回か及んでいる。
これはもう、恋人と呼んでしまっていいに違いない! でもちょっと不安だから、やっぱり近いうちに詩乃梨さんと意見交換しとこっと。
そんなことを思う傍らで、佐久夜への返事も同時進行で放り投げる。
「でも俺、まだ全然詩乃梨さんのおっぱい好き勝手触れてないんだけどなぁ。もっと、心ゆくまで揉み揉みしたい」
何の気なしに答えてみたら、佐久夜が何故かスキップを止めてはたと立ち止まった。うっかり数歩ほど先行してしまったけど、俺も足を止めて彼女の方を振り返る。
佐久夜は不思議そうな表情で軽く首を傾げていた。
「こたちー、今の正直すぎじゃなぁい? ……正直っていうか、素直すぎ……でもなくて、上の空? みたいな」
「…………………………」
俺は口を開いたものの、台詞を紡ぐことはできなかった。
虚を突かれ、図星を突かれた。確かに俺の意識は、大半がどこかの空を彷徨ったまま帰って来ていない。
理由は、まほろばでのおっさんとの会話。綾音さんのこと、俺のこと、詩乃梨さんのこと。子供のこと。子育てのこと。詩乃梨さんは勿論として、綾音さんや、もしかしたら香耶や佐久夜とも、『そういう未来』が存在しているのではないかという、その可能性について。
――我ながら、馬鹿げている、とは思う。けれど、馬鹿げているの一言で済ませることは、今の俺にはどうしてもできない。事実、その一言で切り捨てることができない前例が、綾音さんとの間に発生しかけている。
…………………………。
「佐久夜は――」
俺と子作りしたいと思うか? なんて、うっかりそんな言葉が漏れかけたけど、慌てて飲み込んだ。上の空って危ねぇな、うっかり事故る所だったぜ。
俺は一度だけ深呼吸をして、気持ちのスイッチを切り替えた。顎をしゃくって『とりあえず歩こうぜ』とジェスチャーし、それに応じた佐久夜と一緒にゆったりと道程を消化していく。
しばらくして、道の先で詩乃梨さんと香耶がちょっと怒ったような雰囲気で仁王立ちしているのが見えた。怒りの理由は色々と想像できるが、今は敢えて考えることをやめておく。
心持ち歩みを早めた俺に、佐久夜が斜め後ろからくっついてきながら、のみならず服の裾をきゅっと握ってきながら、ぼそぼそ呟いた。
「ねえ、さっき、うちになんて言おうとしてたん? 忘れよー思たけど、やっぱ気になってしゃーないわ。うち、敢えてなーんもリアクション返さへんと誓いますゆえ、言うだけ言ってみぃひんかね?」
気になって仕方が無いというのは、彼女の素直な気持ちではあるのだろう。けれどきっと、今の台詞を口にした理由の大半は、言いたいことを溜め込んでしまった俺に対する気遣いと優しさによるものなのだと、本能で理解してしまった。
俺は、優しい女の子が、この子が、好きだ。愛ではなく、恋でもなく、それらに至る可能性すらもう無いけれど、でも誤魔化しようのない確かな好意が――『いずれ愛情に至りうる「かもしれなかった」好意』が、俺の中に芽生えてしまっていた。
だから俺は、真鶴佐久夜の優しさに手を引かれるようにして、返事を求めない問いかけを素直に口にした。




