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四月二十九日(土・4)。仕切り直し。

 ◆◇◆◇◆


 かやちーこと、ちぎりかや。変換は暫定で千霧香耶としておこう。


 かやちーで通そうかと思ったけど、恋敵として扱わねばならない都合上、あまり馴れ馴れしい呼び方は問題だ。ここからは千霧で統一しようか。


 千霧は、本日詩乃梨さんのお部屋で開催される勉強会へ参加する予定であったが、うっかり寝坊。慌てた彼女は転がるように自宅を飛び出し、最寄りの駅まで走って電車に飛び乗り、必死に息を整えていた。


 それから数秒後、『駆け込み乗車はおやめ下さい』のアナウンスが流れた。一瞬自分のことかと思って身を固くしたか千霧だったが、再三再四繰り返される苛立ち混じりの警告は、どうやら別の人へ向けられたものであるようだと気付く。


 警告の対象は、同じ車両の別のドアにへばりついていた少年。その少年は完全に閉まったドアに無理矢理全身を押しつけており、いくら注意されようと引き下がる気配が無い。


 やがて車掌が根負けし、ドアが再び開かれて、少年が車内へと倒れ込むようにして乗り込んできた。


 千霧は、その少年に見覚えがあった。この四月からクラスメイトになった、自分と同じ学校の男子生徒。しかし、名前は出て来ない。なぜなら、自分と彼は、一度たりとも会話を交わしたことのない赤の他人であったから。


 これまでは、全く関わりの無い赤の他人。これからは、絶対関わり合いになりたくない赤の他人。


 千霧は少年を観察することをやめ、なるべく少年と目を合わせないようにしながら、動き出した電車に揺られ続けた。


 がたんごとんと、揺れる車内。


 ドアにもたれかかって、うつむき続ける千霧。


 ――吊革に掴まることもせず、ドア付近から動くこともせず、千霧をひたすら見つめ続ける、少年。


 見られている。ずっと、見られ続けている。ずっと、ずっと、一心不乱に見つめられ続けている。


 たぶん、気のせいではない。おそらく、勘違いでもない。きっと、偶然でもない。ならば、ひょっとしたら何か理由があるのだろうか。有るとすれば、それはどんな理由だろうか。


 どんな理由があれば、車両に出入りする人の波をガン無視して棒立ちしたまま、一人の人間を遠間からじっと見つめ続けていいことになるのだろうか。


 その疑問に答えが提示されないうちに、電車は千霧の目的の駅へと到着した。


 理由なんか、どうでもいい。そんなもの、知りたくない。それに、やっぱり、気のせいで、勘違いで、ただの偶然かもしれない。もうなんだっていいから、とにかく早く立ち去ろう。


 電車が完全に停車し、ドアが開くのと同時に、千霧はなるべく冷静な風を装いながら車両から降りた。


 少年を刺激しないように。慎重に、素早く。



 けれど。少年は、千霧の後を追うようにして、ホームへと降りてきた。



 改札を出た千霧は、敢えてスマホの地図アプリを無視して、詩乃梨さんのアパートとは見当違いの方向へ歩き出した。


 通りの左右の歩道を、意味無く移動してみたり。大通りから脇道へ入って、再び大通りへ戻ってみたり。途中でいきなり立ち止まったり、逆に短距離を小走りで駆け抜けてみたり。


 ――その、意味なんて無い無駄な動きの全てに、少年はほぼ一定の距離を保ったままぴったりとくっついてきた。


 もう疑いの余地などどこにも無い。この上なく明確に、千霧は少年に尾行されていた。


 だが、相変わらず声をかけてくる気配は無い。人気の少ない脇道へうっかり入ってしまった時も、急に立ち止まってしまって彼我の距離が詰まった時も、少年は直接接触してこない。


 恐怖にじわじわと浸食されゆく頭に、千霧はある可能性を思い浮かべた。


 もしかして、少年の狙いは、自分では無いのではないか?


 もし標的が自分ではないのなら、少年は一体誰を狙っているのか?


 ……自分を尾行してくることで出逢える人物こそが、少年の本当の標的なのではないだろうか?


 これから自分が会うことになっているのは、本日開催の勉強会の参加メンバーである、真鶴佐久夜と、幸峰詩乃梨。


 そこまで思い至った千霧は、瞬時に結論した。


「佐久夜ちゃんが男の人にモテるとか有り得ないので、あの人の狙いは詩乃梨ちゃんで間違いないですね!」



 ◆◇◆◇◆



「こら」


 真鶴佐久夜は頬をぷぅっと膨れさせ、千霧の脳天にずびしっとチョップを叩き込んだ。


 千霧は敢えてそれを受け入れ、誤魔化すようにえへへと照れ笑いを浮かべる。


「だって佐久夜ちゃんって、結構男の子と話してるわりに、深い仲になったりとかは全然できてないですよね? 良くも悪くもいいお友達というか、どこまでいっても友達止まりというか」


 それはわりと毒を含んだ発言に聞こえたが、真鶴佐久夜は憤慨するでもなく、痛いところを突かれたような苦々しい顔でこたつに頬杖を突いた。


「できないんじゃなくて、ならないように努力してるんだっつーの。だって、男子って下手に仲良くなるとすーぐ身体の関係迫ってくるじゃん? ほんっと、あいつら脳みそ猿だよね。責任なんて全然取れないガキのくせして、そういう欲求ガンガン押しつけてくるのって、どうなの? ねえ、どうなの?」


 どうなの? と水を向けられてしまった綾音さんは、全身をびくんと跳ねさせて、ワンピースの太股辺りをきゅっと握りしめながらぎこちない笑顔を浮かべた。


「……そ、そうだね。そういうのは、やっぱりもっとよく考えてするべきなんじゃないかなぁ。……た、たぶん? ……あ、あは、あはは……」


 綾音さんは頬を徐々に赤く染めていきながら、どこまでも軽薄で果てしなく薄っぺらい笑い声を上げた。 


 たぶんその瞬間、この場の全員が察しただろう。


 ――あ、この人処女だな。


「……………………だっ、だよねー! あやちーならそう言ってくれると思ってたよ、うんうん! そうだよね、良い女ってのはそうそう簡単に身体を許したりしないものなのですよ! 婚前交渉、断固反対! ねっ、しのちー!」


 真鶴佐久夜は鷹揚に両腕を組んでにぱーっと笑いながら、長いこと口を開いていなかった人物に何気なくバトンを回した。


 回して、しまった。


 バトンを受け取ってしまった詩乃梨さんは、ちょっと困ったような様子で一同を見回した。真鶴佐久夜のテンパり気味の瞳を見て、千霧の異様に真剣な眼差しを見て、綾音さんの酔っ払い染みたふらふらのお目々を見る。あ、これたぶん綾音さんだけ俺と詩乃梨さんがどこまで進んでるのか聞いてるな。


 詩乃梨さんは最後に、中華鍋から大皿へ焼きそばを移し終えて小休止している俺を見つめてきた。


「…………………………こたろー……」


 詩乃梨さんの弱々しい声音が、副音声を奏でた。『これ、本当のこと言ってもいいのかな?』


 俺は、悩んだ。


 千霧は、詩乃梨さんにガチの恋心を抱いている。そんな彼女に、俺と詩乃梨さんが既に肉体関係を持っているのだと教えてしまうのは、あまりにもむごい仕打ちだと思う。


 真鶴佐久夜は、責任も取れないくせに肉体関係を持ちたがる男子をすこぶる毛嫌している。そんな彼女に、詩乃梨さんは既に男に食われちゃったのだと教えてしまえば、今後の二人の関係に決して小さくない影響が出てしまうだろう。


 ていうか、女の子ばっかりなこの空間で、そういう性的なあれこれについて話をするのって軽い拷問だと思う。俺完全アウェーである。孤立無援。退路無し。なぜだ、どうしてこうなった。ストーカーについて真面目に話をしていたはずが、変な風に飛び火してすっかり大炎上。女の子達って、寄り集まるとこういうえっちなお話し始めちゃう習性でもあるのかしら?


 この出来上がった焼きそばを、俺はいつ持って行けばいいのだろう。せめて今の話題が終わった後にしたいんだけど、詩乃梨さんが何かしら発言しない限り話題を転換できそうにない雰囲気。事情を知ってる上に空気を読んでどうにかしてくれそうな綾音さんは、すっかりべろんべろんになっちゃってて真っ赤な頬に手を当ててはぁっと熱い息を吐いている。流石は鋼鉄の箱に入れられて育てられた娘さん、ちょっと下ネタ入っただけですっかりへべれけでござる。


「…………こたろー……」


 詩乃梨さんが、切実に何かをねだるように俺を見上げてくる。彼女につられて、何もわかってなさそうな顔の真鶴佐久夜が俺を見て、怪訝そうな面持ちの千霧が俺を見て、焦点の合ってないヤバい目つきの綾音さんが俺を見た。


 俺は、腰に手を当てて溜息を吐き、目を真鶴佐久夜と合わせた。


「なあ、真鶴佐久夜よ。婚前交渉は、きみ的にはアウトかね?」


 この質問自体が既に倫理的にアウト臭いけど、きちんと受けとめてもらえたようだ。真鶴佐久夜はむっと真剣に唸り、むむむと真面目に考え込んで、やがて後ろ頭をかきながらにへらっと笑顔を浮かべた。


「あうとですねぇー。今時古くさい考え方だって言われちゃうかもしれないですけど、やっぱ責任取れないのにそういうことしちゃいかんと思うのです! 遊びでえっちなんて以ての外でございますよ!」


「じゃあ、一生添い遂げる気があれば、婚前交渉は有りなのか?」


「……え、えぇぇ? やだなぁ、ちょっとおにーさん、食いつきすぎじゃ無いですかねぇー。……あー、でもどうですかね。結婚っていうきちんとした契約が無いっていうのはやっぱり気になる所ですけど、まあ、遊びじゃないならアリかもですねぇ。でもですねー、やっぱりたかがこーこーせーの分際で、一生添い遂げるとか言っても、そんなの説得力全然……無い……………………です、…………………………………………し……?」


 真鶴佐久夜は頭を掻くポーズのまま、口元をひくりと引きつらせて硬直した。俺の言わんとすることを、ようやっと察してくれたようだ。


 俺は小さく安堵の溜息を吐いて、しかしすぐに気を引き締め直し、千霧へと視線を送ってみた。


「……………………………………」


 俺無言、千霧も無言。ただ、あまり重苦しい空気ではなく、千霧の顔には憤怒も落胆も諦念も浮かんではいない。どころか、『そういうことを実際にやってたとは思いもしませんでしたけど、言われてみれば、やってても不思議じゃないですよね』みたいな、どこか得心や満足すら感じているような風情である。


 わざわざ恋敵宣言をしてきたわりに、思いの外冷静だ。詩乃梨さんにたかる悪い虫の排除を俺に任せてにこにこしていた事と合わせて考えると、どうも千霧が定義する『恋敵』という存在は、俺の知っているそれとだいぶ差異があるらしい。


 その差異についてつまびらかにするのは、追々ということにしておこう。今は先にやるべきことがある。


「なんか話がすっかり脱線しちゃったし、メシ食って仕切り直そうぜ。詩乃梨さん、これそっち運んでくれる? 俺軽く洗い物済ませるから」


「………………ん。わかった」


 何の気なしに宣言した俺に、詩乃梨さんは自然にこくりと首肯を返してくれて、ひょいっと立ち上がってとことこ歩み寄ってきた。


 彼女がじーっと見つめるのは、二つあるコンロのうち一つを完全に塞いでいる、焼きそばが山のようにずどぉん! と盛られた大皿。


「…………ねえ、これ多過ぎない?」


「……うん、俺も作ってる最中にそう思った。でも一回鍋にいれちゃったのを取り出すわけにもいかないだろ?」


「……………………余ったら、夕飯これね。あと、洗い物わたしやるから」


 選手交代。洗い物は詩乃梨さん、このデカブツの輸送は俺。うん、これ当然のように数キログラムあるからね。詩乃梨さんの細腕じゃ落としちゃうかもだから、彼女の采配に否やは無い。


 俺と詩乃梨さんは互いの身体をすり抜けるようにして立ち位置を入れ替え、詩乃梨さんが腕まくりして蛇口を捻るのと同時に、俺も大皿を持ち上げた。


 その場の処理を詩乃梨さんにお任せして、俺は一歩足らずで居間兼寝室へと到着。


「はぁーい、ご飯ですよー。たーんと食べておっきくなるんだぞーう」


 一同を見回してそんな台詞を吐きながら、こたつの中央に山をごとんと置いた。


 が、皆さんあんまり反応無し。綾音さんは相変わらず熱に浮かされたような目でぽわぽわとこちらを眺めてくるだけだし、なんか真鶴佐久夜までもが似たような目をこちらに向けながらへらへら笑ってる。


 唯一冷静な千霧だけが、ちょっと責めるような目でじろりと俺を見上げてきた。


「あの、山の一部が異様に赤いんですけど……。今わざわざここを私の真正面に向けてきたのって、何か意味とかありますか?」


「詩乃梨さんのお友達の人生に、文字通りちょっとしたスパイスを提供してあげようと思っただけだ。その他の意図は無い」


 嘘だけど。でもこの場で素直に『恋敵への嫌がらせです』と答えるわけにもいかないので、その本音は口には出さずにアイコンタクトに乗せてみた。


 アイコンタクトは無事に千霧へと届き、彼女の眼鏡の奥の瞳が挑戦的な色を宿し始める。


「……そうですか。スパイスですか。ありがとうございます。私、辛いの結構好きなんですよ。……あ、ちなみにこれは本音です」


「ふぅん? ああ、俺も辛いのわりと好きだから、つらくなったらこっち寄越してくれていいぞ。真鶴佐久夜と綾音さんも、そこ食べたかったら食べて良いよ。安全は保証しないけど」


 タバスコと一味唐辛子と胡椒とわさび入ってるからね、そこ。赤い見た目に騙されて『わぁい、タバスコだー』とか思ってると、たぶんわさびに不意打ちでヤられる。でも敢えて教えません。食べ物で遊ぶのはいけないことだけど、残ったら自分で処理する覚悟でサプライズ仕掛けるくらいは別に良いよね。


 女の子達の視線が山から流れる溶岩へと注がれる中、俺の背後からすっと手が伸びてきた。


「ほれ、こたろー」


「うん、さんきゅ」


 人数分の箸と取り皿を受け取り、俺はそれを皆の前へ置いていった。基本は一方向に一セットずつだけど、一番手前側の席には皿が一枚で箸は二人分。詩乃梨さんが皿を数え間違えたのでなければ、この配置できっと正解なはず。


 詩乃梨さんはさらに水道水入りのコップを輸送してきてくれたので、それも俺が全員の前に並べていき、これで大体食事の準備は整った。


 詩乃梨さんが洗い物を軽く済ませるのを、残りのメンバーがなんとなく無言で見守る。程なくして詩乃梨さんは作業を終え、こちらにとことこ歩いて来た。


 俺と詩乃梨さんは、いつものように、こたつの一方向に並んで収まる。


 若干二名が未だにふわふわし続けてるけど、とりあえず食事開始と参りましょう。


 全員が何となく似たようなタイミングで箸を持ち上げ、そしてこれまた何となく両手を合唱して親指で箸を挟むポーズを取った。


 俺達は、声を揃えて唱和する。


『――いただきます!』

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