四月二十九日(土・2)。恋敵。
前衛を綾音さん、真ん中を護衛対象の少女、しんがりを俺、という縦一列の陣形で進むことしばらく。ようやく、うちのアパートの前を貫いている大通りにまで辿り着いた。
ここから先は、今俺達がいる横道から、アパートの玄関へ通じる路地まで、隠れる場所も遮る物もろくにない。あっちの路地に入る所をストーカー(仮)に目撃されてしまえば、それは即ち詩乃梨さんの所在地がほぼ特定されてしまうことを意味する。ここが正念場だ。
綾音さんは、電柱の陰から首を伸ばして大通りの左右を素早く見回しながら、こちらを振り向かずに静かに問うてきた。
「琥太郎くんたちのアパートって、あの……アトリエ……? の、隣の道から入るんだよね?」
「そうですよ。謎のアトリエの横で、潰れてるっぽい蕎麦屋の斜め前で、売れてなさそうな本屋の真っ正面です」
大通りだけあって様々な店が軒を連ねているのだが、どれもこれも民家を無理矢理改築したようなしょぼい店構えで、しかも大半は営業してるんだかしてないんだかわからないほどに看板錆びてたり、ショーウィンドウが砂埃かぶってたりしてる。なんだかゴーストタウン一歩手前みたいな雰囲気になっちゃってるから、みんなまほろばくらいに気合入れてほしいところ。
しばらく辺りを確認していた綾音さんは、「んぅー」と焦れったそうに唸った後、少女と俺へ目線を寄越してきた。
「一回周りを確認してくるから、あなたと琥太郎くんはここで待っててくれる? で、私が左の道の先からOKサイン出したら、右の道の先を琥太郎くんが警戒しに行って、その隙にあなたがアパート突入。それでいい?」
「…………は、はいっ。わかり、ました」
少女は綾音さんに気圧されるようにして、手に持った学生鞄とレジ袋を激しく揺らしながらこくこくと全力で首肯を返した。
対して、俺は渋い顔で待ったをかける。
「綾音さんも、ストーカー野郎に顔憶えられてるかもしれないだろ? 哨戒は俺が一人で担当するから、その間に二人でアパート入ってくれよ」
「……でも琥太郎くん一人だと、右か左しか確認できないよね? あの男の子に見つかっちゃう確率、二倍になっちゃうよ?」
綾音さんの言う事はもっともなんだけど、でも野郎はきっと綾音さんの顔ばっちり憶えちゃってると思うんだよね。だって綾音さんって、この世で詩乃梨さんの次くらいに超かわいいからね。単純にかわいいってんじゃなくてちょっとだけ美人寄りでもあるから、人によっては詩乃梨さんより綾音さんの方が好みだと思う。
綾音さんが見つかってしまって、この少女を経由することなく、詩乃梨さんに辿り着いてしまうか。それとも、そんな迂遠な手順を踏まずに、標的を綾音さんへ変更してしまうか。ストーカー野郎がどちらを選択するかはわからないが、とりあえず綾音さんが野郎に見つかるのは絶対に避けた方がいい。
でも警戒が俺一人だけだと、どうしても穴が生まれてしまう。……もうこうなったら、やっぱり警察に応援なり救援なりを要請するのも手じゃないか、とも思うけど……それは既に少女に却下されている。それに、今の所は明確なストーカー被害に遭ったと呼べるほどの被害を受けていないから、警察の超重量の腰を上げさせるのは至難の業かもしれない。
……俺が、野郎にさっさと話付けてくるしかないか。今日の所はそれで凌いでおいて、もし俺の予想以上にイっちゃってる奴だったなら、学校なり親なり警察なりに働きかけるとしよう。
逃走でも、迎撃でもなく、こちらから打って出る。
そう結論して、改めて綾音さんと少女に焦点を合わせてみる。すると、なんか二人してこちらをじーっと見つめていた。なんかデジャヴ。
「………………………………」
俺もじーっと見つめ返してみたら、綾音さんはまたしても曖昧な笑みを浮かべながら顔を逸らして何も言わない。
少女の方も、今回は無言。けれど、彼女の瞳は、俺に対する『ある感情』を明確に訴えていた。
――彼女が俺に対して抱いている感情は、『敵意』と呼ばれるものだった。
「…………………」
それは、どう考えても、自分を護ってくれようとしている人間に対して抱くような感情ではない。最初は俺の勘違いかとも思ったけど、こうもあからさまに真っ向から睨み付けられたのでは、己の直感を誤魔化すことは難しい。
……ああ、睨み付けられた、っていうのはちょっと違うな。別に睨まれてはいない。ただ、この少女は、綾音さんと話す時や綾音さんが見ている時は相手の目ではなく喉や胸あたりを見てるんだけど、こうして綾音さんの監視下を離れて俺とサシで見つめ合うような場面では、瞬きすらせずに俺の瞳を真っ向から直視してくるのだ。
本来なら、なんか不気味な女の子だなと思っちゃう所なんだけど……。詩乃梨さんの友達だからたぶん悪い子ではないんだろうし、綾音さんと話している時は自然に接してるように見受けられるので、たぶん俺だけがこの子にとっての例外なんだろう。
……………………。
「きみ、後で俺の部屋来ないか?」
場の流れを丸ごと無視した唐突な発言に、そっぽ向いてた綾音さんがぎょっとした様子でこちらを凝視してきた。少女の方も、虚を突かれたように瞳を丸くして、魂の抜けたような呟きを放ってくる。
「……なんで、いきなり……?」
「いや、実は俺、後できみらの所に差し入れ持ってくつもりだったんだけどさ。女の子達の勉強会の差し入れって、正直何持って行けばいいかわかんなくて。その袋に入ってるのって駄菓子系ばっかだから、俺の所に買いだめしてある洋菓子類からみんなが好きそうなものチョイスして持って行ってほしいのよ。で、頼める?」
何の気負いも無い風を装って台詞を口にしてみたら、綾音さんが『なんだ、そういうことか』という言葉が聞こえそうな表情でほっと胸を撫で下ろした。
少女の方はというと……、先程までの敵意は霧散したものの、今度はなんだか悔しそうに顔をしかめていた。そんなお顔のまま、固い声で返答してくる。
「……わかりました。そういうことなら、ちょっとお邪魔させてもらっていいですか?」
「うん、よろしく頼むよ。じゃあそういうことで、俺そろそろ警戒行ってくるから、きみはあっちの路地入ったらアパートの前で待っててくれる? あと綾音さん、先に詩乃梨さんの所行って諸々の事情を説明しておいてもらえますか?」
「あ、ああうん。わかった、りょーかいです。お友達来たよーって伝えて、ストーカー居たよーってことも教えて、あと……、琥太郎くんは浮気者なんかじゃないよーって言い訳しておけばいいんだよね?」
……合ってるけど、なんか嫌だなぁー、その認識……。まあ自宅に詩乃梨さん以外の女の子を連れ込もうとしてるわけだから、言い訳はやはり必要か。
俺は結局、笑顔の綾音さんに無言で首肯を返し、少女にも一瞬だけちらりと目を遣ってから、二人の横を素通りして大通りに一歩踏み出した。
背中に女の子達の視線をひしひしと感じながら、どうにか何の気無しな風を取り繕って、視界の端を使って若い男の姿を探索開始。
俺は、のんびりでもまったりでもない散歩に精を出しながら、少女の先程の仕草について回想した。
通り過ぎ様に視線を送った俺に対して、少女が返してくれた目礼。
そこには、敵意ではなく、悔しさでもなく、一匙の感謝が込められていたような気がした。
◆◇◆◇◆
付近を入念に見回ってはみたものの、人影自体が結構まばらで、問題の野郎の姿を発見することもできなかった。折角こちらから打って出ると覚悟を決めたのに、完全に肩透かしである。
綾音さんと少女がアパート前の路地へ入っていったのを確認してから、一応もう一周ほど警戒してきて、俺も二人の後を追った。
綾音さんは、俺がやってくるまで少女についていてくれたらしい。遠間で俺と目が合った綾音さんは、少女と会話と会釈を交わしてレジ袋と学生鞄を受け取り、アパート内へと消えていった。
俺も少女も、なんとなく綾音さんの背中を見送って、そうしている間に俺の歩みは少女の眼前へと至った。
俺と少女は、同時に互いへと向き直る。
「………………………………」
無言。詩乃梨さん以外の女の子と、こんな間近で見つめ合いながら、ひたすら無言。全く未知の体験ではあったが、何故か違和感や気まずさはそれほど感じず、浮かれも落ち着きもしていない凪いだ心境で少女を見下ろし続ける。
少女の方も俺と同じような気持ちなのか、特にこれといった感情の浮かばない瞳が、前髪と眼鏡の奥から俺をじっと見上げていた。
このまま目と目で通じ合えるまで見つめ合いたい所ではあるが、今はとりあえずストーカー男の脅威からこの子を遠ざけるべきだろう。
俺は少女の前をやや通り過ぎるようにして、アパート内を目線で示した。
「……行こう。俺の部屋、一番上」
「……わかりました。……お邪魔します」
当意即妙。余計な詮索も躊躇も一切省いて、俺と少女は連れ立って建物内へと侵入した。
昼間であっても薄暗い共用廊下を抜け、一層薄暗い階段をしばらく上り、最上階へ至ったら再び共用廊下を経て、俺の部屋の前に到着。
俺は鍵をがちゃりと開けて、扉を半開きにした状態で保持し、少女に目を遣った。
「……入って」
「……はい」
事ここに至って、俺の声は、若干の後ろめたさに震えてて。少女の声は、若干の怯えに震えていた。
けれど俺達は、自室に女の子を上げることも、男の部屋に上がり込むこともやめはせず。密室へ若い男女を飲み込んで、扉は重い音を立てながら閉められた。
俺は、部屋の廊下に先に上がらせた少女に、靴を脱ぎながら声を放った。
「奥、行ってて。こたつあるから、スイッチ入れてぬくぬくしてていいよ」
「…………………………しませんよ。ぬくぬくとか」
少女は無感情に反論しながらも、俺の台詞に粛々と従って居間兼寝室へと向かった。そして、部屋の最奥方向から正座でこたつに入って、電源ケーブルのスイッチを入れる。
やることが無くなった少女は、ぎこちない正座で全身を固めて、未だ玄関に突っ立っている俺に視線を投げてきた。長すぎる前髪のせいでよく見えないが、彼女の目は俺の目ではなく咽や胸あたりをふらふら彷徨っているような気がする。
……綾音さんと話す時もろくに目を合わせることができていなかったようだから、この少女はきっと、本来引っ込み思案な子なのだろう。きっちりを通り越して野暮ったい着こなしの制服や、やたらめったら長い前髪とその隙間から覗き見える眼鏡なんかも、俺の想像に説得力を与えていた。
俺は彼女に観察されながら、殊更にゆったりとした足取りで廊下を抜けた。居間に入ってからは、少女がより一層身を固くしたのに気付かないフリをして、ベッドの枕元に放ってあったリモコンを手に取る。
液晶テレビの電源を入れ、ちょっとチャンネルを回したりボリュームを下げたりしながら、程良く明るいBGMをセット完了。
俺は役目を終えたリモコンを元に戻――そうとしたけど、少女に歩み寄って差し出してみた。
「見たいのあったら見てていいよ。とりあえず、お茶の準備してくるから」
少女はリモコンをとてもすんなりと受け取り、受け取ってから何やらはっとした顔で俺の咽を見つめてきた。
「テレビとか、お茶とか、いらないですから。私、のんびりしにきたわけじゃないです」
「……でも、本当に買い置きの洋菓子を選びにきただけ、ってわけでもないだろ?」
確認ではなく、確信。俺の言葉を受けて、少女はリモコンを膝の上で力無く弄びながら、それを眺めつつこくりと小さく頷いた。
俺も、少女に見えていないとはわかりながらも首肯を返し、カラーボックスの上の電気ケトルを台座から持ち上げ、水道水を組みに向かった。
特に何の問題も無く、ケトルの中程程度まで水を入れて再度部屋に舞い戻る。台座にセットしてスイッチを入れてから、カラーボックス内からお茶の粉末が入った筒や湯飲みなんかを取り出してこたつの上に置いた。
少女は視線の先をリモコンから湯飲みへ変えて、しかし強ばった正座はずっと変えないまま。
俺は意味も無く申し訳ない気持ちを噛みしめながら、ややぬるめに湧かしたお湯を使ってさっさと緑茶を錬成。できたてほやほやのそれを少女の眼前にことりと置いて、自分の分を手に持ったまま、少女の対面へとあぐらで座り込んだ。
テレビから程良い音量で流れてくる、お笑い芸人達の軽妙なトークや観客達の笑い声。二つの湯飲みから立ち上る、緑茶のほっとする香りと温度。部屋の空気自体も朝より随分とあたたかくなっているし、最弱に設定されてるこたつもじわじわと優しい熱を持ち始めてるしで、もし一人でこうしていたらそのままうっかり昼寝しそうなほどに心地良い空間が出来上がっていた。
が。俺も少女も、まどろみや心地よさなんかとは全く無縁の、張り詰めた空気の只中にいた。
俺は手の中の湯飲みにちびちび口を付けながら、少女の出方を伺って。少女は眼前の湯飲みをじっと見つめたまま、一向に口も手も付けようとしない。
……むぅ。なんて居心地の悪い空間なんだ。相手が詩乃梨さんだったら絶対にこんなことにはならない。つーか二人で一緒に居る時にテレビなんて一切点けないし。そもそもこたつを挟んで向き合って座るなんてこともしない。
やはり、この少女は詩乃梨さんの友達ではあっても、詩乃梨さんとは全くの別人なんだな。今更ながらにそんな当たり前のことに気付いて、少女を自分の部屋に気安く上げてしまったことを後悔し始めていた。
後悔しているからこそ、その分のマイナスを埋めるだけのプラスを欲して、俺は湯飲みをこたつに戻してようやく口を開いた。
「……俺に何か、言いたいこと、あるんだろ? 言ってくれ。怒ったりとか、絶対しないから。言いたいこと、ちゃんと聞くから」
絶対に怒ったりしない。これもまた、詩乃梨さんが相手であれば確実に使わない台詞だった。もし詩乃梨さんが相手であったなら、『滅多なことでは怒らない』と告げていた所だろう。
俺は、怒りという激しい感情を抱けるほどに、目の前の少女に対して執着やこだわりを抱いていない。俺にとってこの少女は、詩乃梨さんの友人という間接的な知り合いでしかなくて、赤の他人とまではいかなくとも限りなくそれに近い位置づけだった。
優しさを装った、ひどく酷薄な台詞。それの真意を見抜けるのは、俺自身と、あともしかしたら、詩乃梨さんだけ。
だった、はずなのだが。
「――それは、私があなたにとって、怒りを抱くに値しない存在だからですか?」
確信。否、核心。少女はにわかに憎悪を滲ませながら、湯飲みの水面と部屋全体に小さな波紋を生じさせた。
俺は思わず目を細めながら、俯いている少女をしげしげと眺めた。
少女は相変わらず俺の方を見ようともしない。彼女は俺の所作をろくに観察しないままに、俺の内心をずばり言い当ててきた。コールドリーディングの類を使用したわけではないのであれば、彼女はサトリかテレパスということになる。
しかし、彼女はどうやら妖怪でも超能力者でもなかったらしい。少女は、俺の心を言い当てたのではなく、ただ己の胸の内で凝らせていた不満を口にしただけにすぎなかったのだ。
それを俺は、彼女が鋭い眼差しや押し殺した声音と共に叩き付けてきた台詞によって報されることとなった。
「琥太郎さんは、私があなたの『恋敵』に成り得ないほどに小さな存在だから、私に対してそんなに余裕ぶっていられるんですよね?」
恋敵。
同じ人物に恋心を抱いている、競争相手のことである。
俺が恋心を抱いている相手は、詩乃梨さんだけ。それは俺にとっても詩乃梨さんにとっても共通の認識。それにこの少女も、俺のことを『詩乃梨ちゃんの恋人』と認識していた。
つまり。俺にとっての恋敵というのは、詩乃梨さんに恋をしている野郎共のことか――
或いは。詩乃梨さんに恋をしている、『女の子』のことを差す。
「…………………………………………」
聞き間違い……じゃ、ないんだろうな。自分の耳や頭を疑うことを、少女の真剣な眼差しが許してくれなない。
俺の咽や胸ではなく、二つの瞳を真っ正面から見つめ返してくる、切実な感情を滾らせた漆黒の双眸。
彼女の瞳は、声も無く絶叫する。
お前が、嫌いだ。お前が、憎い。お前に、苛ついて仕方無い。お前のせいで、ストレスばっかり溜まる。お前のせいで、つらくてつらくて堪らない。お前のせいで、苦しくて苦しくてどうしようもない。お前のせいで、悔しくて悔しくてどうにかなってしまいそう。お前のせいで。お前のせいで。お前の、所為で。
――そんなお前に、全く相手にされていない自分が。惨めで、滑稽で、あまりにも……馬鹿臭すぎて、どうしようもなくて、どうにかなってしまいそうで。
自分が、どうすればいいのか、わからない。
「…………………………」
俺は、少女の声なき声を勝手にアテレコする傍らで、この少女に対する評価を上書きしていった。
『激しい感情をぶつける気が起きない、赤の他人同然の存在』から、『真剣な気持ちをぶつけるべき、俺と対等な立場の恋敵』へ。
……この歳でガチレズってどうなの? とか、そもそもこの子本当にガチレズなの? とか、やっぱ俺の聞き間違いだったんじゃね? とか、俺の心眼やっぱり曇りきってるんじゃね? とか、そういうのは全部とりあえず脇に置いておく。もし何もかも俺の勝手な妄想で勘違いで勇み足だったというのなら、俺の黒歴史がひとつ増えるだけの話なので今更すぎてどうでもいい。
だから俺は、少女の真意を問い質すことはせず、おどけて見せることもせず、激情渦巻くいっぱいいっぱいの瞳を見つめながら厳かに言葉を紡いだ。
「……俺が『絶対怒らない』って言ったのは、きみが俺の恋敵として役者不足だからわざわざ敵愾心を抱く必要性を感じない、っていうことじゃない。……恋敵云々とは関係無しに、そもそもきみという人間そのものが、俺にとってどうでもいい存在だったから、何言われてもどうせ気にならないって意味だった」
想いを暴露し、俺という人間の醜悪な部分をも暴露した。
大人の男に、こんなに低い声音で、こんなに酷薄な台詞をぶつけられれば、普通の女の子なら盛大に怯えて然るべきだろう。
だが少女は、怯えることも、ましてや憤ることもせず、抱くべき感情も抱いていた感情も丸ごと霧散させて、呆気にとられたような面持ちでまじまじと俺を見つめてきた。
その反応の理由はわからなかったものの、ひとまず泣き叫ばれなかっただけでも重畳だと思っておくことにして、台詞の続きを述べる。
「……詩乃梨さんの友達だからとか、年下の女の子だからとか、そういう理由で上辺の親切を取り繕って接したことは、謝る。あんな態度じゃ、見下されてると取られてもおかしくなかったし、実際、無意識に見下していたと思う。……ここからは、きみのことを俺と対等な立場の恋敵として扱わせてもらうから、それでいいか?」
俺は、内心で滝のように脂汗を流しながら、少女に返答を求めた。彼女の次の台詞次第で、俺が誠実な人間であるかイカレポンチであるかが決定する。
少女は、俺を未確認飛行物体や未確認生物を見るような目でしばらく凝視し、やがて上体をすぅっと後方へ引きながら訝しげに目を細めた。
「………………訂正します。琥太郎さんは、詩乃梨ちゃんから聞いていた以上に、おかしな人でした」
おかしな人認定されてしまいました。俺、今日からいかれぽんち決定であります!
俺はやるせない気持ちで胸をいっぱいにさせながら、癒やしを求めて再び緑茶に手を伸ばして。
そんな俺と、鏡映しのように、少女もまた自分の分の湯飲みを手に取った。
湯飲みを手に持ったまま思わず硬直した俺に対し、少女は躊躇いなく湯飲みに口を付けて音も無く緑茶を啜る。
少女はやがてほぅっと小さな溜息と共に湯飲みを離し、こたつの上に戻したそれを両手で優しく包むようにして指先を温めた。
湯飲みへと注がれていた彼女の視線が、じろりと俺へ向けられる。
「……………………飲まないんですか?」
「……………………あ、はい。飲むです」
俺はこくこく頷いて、お茶をごくごく飲み干し、空になった湯飲みをこたつの上にことんと置いた。味とか温度とかろくにわからんかった。熱かったら火傷してたね、ぬるめにしておいてよかったぜ。俺ってば冴えてる。
しかし、冴え渡る俺の頭脳を持ってしても、少女の内心を読み取ることができない。俺を観察する彼女の瞳には、今は如何なる感情も浮かんでおらず。肩の力の抜けた自然な正座にも、如何なる想いも見いだせない。
言葉すら見失った俺に、少女はやや俯きながら空虚な声音でぽつぽつと語った。
「……わたし、おかしな態度でしたよね。いきなり怒って、勝手に八つ当たりして、『恋敵』とかわけのわからないこと言い出して。……おかしな態度っていうか、もう完全におかしな人ですよね、これ。……あぁ、おっかしいの」
俺が、初めてみた、少女の笑顔は。自らに対する嘲りに充ち満ちていて、どこまでも乾ききったものだった。
……どんな形であれ、一度恋敵と認めた相手に情けをかけるつもりなど更々無いが……、かわいい女の子がこんな顔をしているというのは、やはりどうしても酷く胸が痛む。
俺はなんとか己の中から同情や優しさを排除するよう心がけながら、真面目腐った声で会話に応じた。
「……おかしいと言えば、おかしいな。でもそれを言ったら、俺もだいぶおかしな持論を振り翳してたと思うんだけど。だからお相子ってことで――いや、違う、あいこじゃなくて……、そう、きみは……じゃなくて、お前はとてもおかしいやつなので、ええっと、だから……」
かわいい女の子に優しくしないってどうやるの!? 俺基本的にフェミニストで応用的には糖尿病引き起こすレベルの激甘カフェオレだから、この局面で苦みしかないブラックな発言ぶちかますとか果てしなく無理です!
それでもどうにかこうにか俺の中からコーヒー部分を抽出し、不抜けた微笑みでこちらを眺めている少女に、出来るだけ全力でぶちまけてみた。
「……お前がおかしかろうとおかしくなかろうと、どっちにしろ、詩乃梨さんは俺のだから。男が相手でも、女が相手でも、俺は詩乃梨さんの隣を譲る気なんか毛ほども無い。……だから、詩乃梨さんのことは、諦めてくれな――じゃなくて……、詩乃梨さんのことは、もう諦めろ」
女の子にお前とか言いたくないよぉ……。強い口調で命令とかしたくないよぉ……ふぇぇ……。
心で泣いて顔でも泣きそうになってる俺を見て、少女は愉快そうにちょっとだけ口角を持ち上げた。
「あなた、ちゃんと私のこと恋敵として見てるんですか? 悪意が足りませんよ。もっと憎しみを込めてください。そんなへなちょこな牽制じゃ、私は詩乃梨さんを諦めるなんて到底できません」
「……勘弁してくれよ……。つーかさー、きみ本当にガチレズなの? 俺の勝手な勘違いとかじゃなくて?」
お前終了、強い口調終了。俺はあぐらをかいたまま後ろに手をついてだるーんと体重を預け、溜息交じりに問いかけた。
少女は俺の態度に憤慨することもなく、素直に首肯を返してくれた。
「あなたの勘違いじゃなくて、私はガチのレズです。……あ、でも女の子全般じゃなくて、詩乃梨ちゃんが好きなだけです。そこは勘違いしないでください」
「なんだ、そうか。それなら納得だ。詩乃梨さん、めちゃくちゃかわいいもんな。老若男女問わず、めろめろになっちゃうよね。あるある、それある」
あまりにあるあるすぎて、ほぼ無意識に笑いながらうんうんと頷いてしまった。
少女は怪訝極まる顔で俺を見やりながら、呆れた様な溜息を吐いた。
「……本当に、詩乃梨ちゃんに激甘なんですね、あなた……。なんというか……、詩乃梨ちゃんが過剰に言ってるだけだと思ってたんですけど……。むしろ控えめな表現だったのかなって気がします……」
「いや、まだそんなに糖分吐き出してないだろ? 詩乃梨さんを前にしたらみんなめろめろになっちゃうよねぇー、だけしか言ってないじゃん。俺の激甘カフェオレっぷりが一パーセントくらいしか発揮されてないよ?」
「……めろめろになっちゃうよねぇーで、ガチレズを許容しないでください……。なんですか……、なんなんですかそれ……。意味わかんないです……」
少女は湯飲みを握った手をそのままずるーっと前に押し出してきて、こたつに上体をだらんと預けてしまった。顔はこちらを向いたままなので、あごや咽の辺りがつらそうな体勢。
そんな格好のまま、少女は恨めしげな目でこちらを睨め付けて来た。
「そもそも、初対面の女性を軽々しく自分の部屋に誘うのって、どうなんですか? 常識的に考えてありえないですし、恋人がいる人間としてはもっとありえないと思います」
「……んなこと言われても……、だって、きみがなんかすっごい目で俺のこと見てたし……。折角できた詩乃梨さんの友達と、意味わからんままに仲違いとか、嫌じゃん。きみがどうこうというより、詩乃梨さんに申し訳なさすぎるじゃん。じゃあ、さっさと問題解決すべきじゃん」
「……せめて、部屋じゃなくて、その辺りで立ち話とかじゃだめだったんですか――あっ、ストーカー!」
少女は唐突に叫び、投げ出していた上体をびくんと引き起こした。どうやら重要なことをすっかり忘れ去っていたらしいね。かく言う俺もすっかり忘れ去っておりました。
ちょうどいいや。少女が俺に対して剣呑な目を向けてきた理由についてははっきりさせたことだし、根の深そうっていうか業の深そうな問題だからこっちはひとまず置いておいて、緊急性の高い案件から片付けていくとしよう。
俺はよっこらしょと立ち上がり、こちらを見上げてきた少女の手の中から湯飲みを抜き取って、自分の湯飲みと一緒に流しへ持って行った。
緑茶の残りを一気に飲み干してから、そのままの流れで茶碗洗い。しつつ、横目に少女を見て言葉を放る。
「きみとの恋の鞘当てについては後でじっくり考えるとして、とりあえずストーカー何とかしようぜ。俺ときみがバチバチ火花散らせてる間に、とんび野郎が横から詩乃梨さんをかっ攫ってくとかなったら、洒落にならんでしょ? ……………………いや、ほんと洒落にならねぇなそれ……」
ストーカーが、詩乃梨さんをかっ攫う。詩乃梨さんに夜道で襲いかかって、拉致、監禁。夜道でなくとも、その気になれば人一人を拉致するのなんて物理的には可能だ。
ただ、誰もそんなのやろうとなんてしない。人には、良識があり、常識があり、損得勘定がある。気になるあの子を強引に拉致するなんてのは、あまりにも非人道的な行いだし、あまりにもリスクが高すぎる行為だ。もし警察に捕まれば、その後の人生を犯罪者として後ろ指差されて生きていかなくちゃならなくなるだろう。
犯罪者として。……性犯罪者として。
――最終的に、警察が捕まえてくれたとしても。その時には既に、性犯罪は確実に実行されてしまった後なんだ。
詩乃梨さんが。
どっかの野郎に、外も中も穢される。
「ざけんなよ、ド畜生が……」
詩乃梨さんは俺のだ。ざけんな。誰に許可得て彼女に触れるつもりだ、腐れ外道。
殺すぞ、糞が。
洗ってた湯飲みが、ばきりと割れた。
靴紐が切れたとか黒猫が横切ったとかいう不吉な未来の暗示ではなく、単にうっかり手に力籠もっちゃっただけである。
「………………………………」
流水に乗って、洗剤の泡と、血液の筋が流れていく。結構深く切れたっぽい。
でも、痛くない。なんか脳味噌が一気にガッと興奮しちゃってて、アドレナリンだばだば出まくってる。
……軽く想像しただけでこれかよ……。もし詩乃梨さんが襲われたら、俺はストーカー諸共全人類滅亡させにいくかもしれない。
俺は茶碗洗いを中断し、蛇口の水を手の平の傷口で直に受けとめて、赤い色が出て来なくなるのを待った。
ひたすら傷口を見つめていたら、ふと横合いに人の気配。
振り向けば、すぐ傍らに、こたつに入っていたはずの少女の姿があった。俺の手元を覗き込みながら、なんだか嬉しそうににやにやしていらっしゃる。なんだ、俺が痛い思いしてるのそんなに嬉しいの? いくら目障りな恋敵だからって酷くない?
そんな抗議の視線を送ってみたら、少女は俺の視線に気付いているのかいないのか、ひたすら俺の傷を見つめながら喜色に満ちた声音で呟いた。
「琥太郎さん、本当に詩乃梨ちゃんのこと、たいせつにしてるんですね」
「…………………。…………どっちかっていうと、あまりにたいせつにしすぎて、俺が詩乃梨さんにとってのヤバい奴になってるけどね。ストーカーなんて目じゃないレベル」
「そうですか。まあ、他の恋敵連中はあなたが全部追い払ってくれそうなので、これからは詩乃梨ちゃんがラブレター貰うたびに気を揉んだりとかしなくてすみそうです」
ああ、それでそんなにこにこしてるのね。よかった、俺の苦しむ姿に愉悦を感じてるとかじゃなくて。
俺も少女につられてにこにこしながら、二人で傷口をひたすら眺め続ける。
と、その時。
「……こたろー、何してるの?」
唐突に玄関のドアががちゃりと開いて、聞き慣れた少女の声が響いてきた。




