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四月二十七日(木)。プラスの変化、マイナスの変化。

 カーテン越しに室内へ満ちゆくうっすらとした朝日が、沈みきっていた俺の意識を緩やかに覚醒へと導いていく。


 部屋の空気は、未だ冷たい。室外に感じる車や人の気配も、遠くて、まばらで、平常運転には程遠い静けさだ。


 おそらく、午前五時前後といったところか。いつもよりだいぶ早い時間に目覚めてしまったようだ。


 俺も。そして、彼女も。


「………………………………」


 俺はいつの間にか、片腕を枕の下に挟み込み、もう一方の腕を詩乃梨さんの背中に添えて、己の胸の中に詩乃梨さんを抱き寄せるような格好で横臥していた。


 詩乃梨さんは、胸元で握った二つのこぶしの上にあごを乗っけて、俺をじーっと見つめていらっしゃる。ファイティングポーズ? 俺朝っぱらからドメスティックバイオレンスされちゃう?


 俺もなんとなく詩乃梨さんをじーっと見つめ返してみたら、彼女は唐突にゆるゆるとしたパンチを俺の頬へと繰り出してきた。


 握られていた拳は、俺に触れる直前に平手に変わり、俺の頬にそっと添えられて。


 彼女の意図を本能で察した俺は、半ば無意識で、彼女の背中に回している手に軽く力を込めて、ぐっと抱き寄せた。


 詩乃梨さんはあごを上げ、俺はあごを下げ、互いが互いへ伸ばした腕をゆっくりと折り曲げていき。


 そして、俺と詩乃梨さんは、互いの唇を軽く触れ合わせた。


「………………………………」


 吸ったり舌入れたりはせずに、浅くちょんっとソフトキスを交わして、事が終わると何事もなかったように最初の位置へと戻った。


 詩乃梨さんは俺の頬を緩慢な仕草で意味無くさわさわと撫で、俺も詩乃梨さんの背中を緩慢な仕草で意味無くさわさわと撫でる。


 詩乃梨さんの顔には、特にこれと言った感情は浮かんでいない。怒りや羞恥で頬を紅潮させたりとかも無し。俺もきっと、似たような顔をしていると思う。愛する女性に接吻をして、こうして身体を触れ合わせているというのに、バベルの塔も建造される気配無し。


 当然だ。今俺と詩乃梨さんは、ただ呼吸しただけみたいなものだ。呼吸するだけでいちいち頬を染めたりイチモツを固くしたりする奴なんていない。


 呼吸と同じくらい極々自然に、俺達はおはようのキスを交わした。


「…………………ぷっ」


 俺と詩乃梨さんは、どちらともなく小さく吹き出して微笑んだ。


「何やってんだろうな、俺達」


「ほんと、なにやってるんだろうね」


 俺は平時のように無駄に思考を働かせることはせず、素直な感想を述べて。詩乃梨さんも平時のように無駄に悪ぶってみせることはせず、素直に感想を返してきた。


 俺達は、ぬくぬくの布団の中で、互いの体温を手の平と全身で感じながら、覚醒とまどろみの狭間をゆらゆらとたゆたう。


 男と女としての性的な触れ合いもいいものだけど、こういう犬と猫のじゃれ合いみたいな触れ合いも、これはこれで乙なものだ。



 この時、言葉にすることも無いままに、俺と詩乃梨さんの間で、夜と朝の新たな習慣が定着した。



 ◆◇◆◇◆



 人生とは、万事が塞翁さんの馬である。楽有れば苦有り。プラスの変化が有れば、マイナスの変化も有る。



 その日の夜。冷蔵庫の奥に食べかけのホールケーキを発見した俺と詩乃梨さんは、スマホの向こうの綾音さんの『乾燥や変色が無いならまだ食べられるから大丈夫だよー』というお言葉に安堵と安心を頂いて、優雅に食後のデザートと缶コーヒーを楽しんでいた。


 いつものように、こたつの一方向に並んで収まる二人。俺はいつものパジャマ姿で胡座をかき、詩乃梨さんもやっぱりパジャマ姿で女の子座り。ちなみに、詩乃梨さんがつい先刻まで来ていた学校の制服は、壁から生えてるラックに俺のスーツと並んでかけられている。


 ……同棲カップルか、俺ら? まあ違うけど。同棲はしてないし。相変わらずカップルでもないし。……え、カップルじゃないの? じゃあ俺と詩乃梨さんって今どういう状態なんですか?


 いつか夫婦になる約束はしたものの、正式に改めて婚約を申し込み直して指環を送ったりとかはしていない。ついでに言うなら、未だにお付き合いしてくださいと申し込んだりもしていない。でも生でえっちをしちゃったり、それ以外の面でも順調に距離感を縮めていたり。


 まだ夫婦では無く、けれど婚約者でもなく、どころか明確な恋人ですらなく、勿論セフレなんかでもない。そんな俺達の関係を的確に言い表せる肩書きを、俺はやはり未だに見つけられないままだった。

 

 この辺りの問題には、いいかげん折を見て決着をつけるべきかとも思わないでもない。でも、どうせならもう少しの間は、この名状も形容もできない、世界で俺と詩乃梨さんだけの特別な関係を、存分に満喫するとしようか。


 などと余裕ぶっこきながらコーヒーを啜ってる俺の眼前に、詩乃梨さんがもごもご咀嚼しながら唐突に何かを差し出してきた。


「…………………手紙?」


 ピッと伸びた人差し指と中指に挟まれていたのは、手紙が入っていると思しき小洒落た封筒。が、二枚。


 詩乃梨さんの表情を窺ってみたら、なんか羞恥らしき熱と潤みを孕んだ目で『早く受け取って』とアイコンタクトされた。


 俺は首を捻りながらも、手に持っていたコーヒーを一旦こたつに戻して、封筒を受け取った。


 詩乃梨さんはちょっと安堵した様子で、再度ケーキをもっふもっふと頬張る作業に戻った。けれどなんだか気がそぞろで、ケーキをフォークごと咀嚼しながらしきりにこちらへちらちらと視線を送ってくる。


 彼女の視線から読み取れるのは、羞恥、期待、あとは……憂い、あたりだろうか。


 俺は敢えて詩乃梨さんの存在を一時的に頭の外へ追いやり、一枚目の封筒をぺりっと空けて中身を取り出した。


 入っていたのは、予想通り、何の変哲も無いただの手紙。しかし、そこに綴られていた内容は全く予想通りではなかった。



 端的に言おう。それは、恋文であった。


 無論、詩乃梨さんが俺へ宛てたものなどではない。どこぞの男の手によって、詩乃梨さんへと想いの丈を打ち明けるためにしたためられたものだった。


 

「………………………………」


 衝撃で頭が回らず、うっかり冒頭から末尾まで読破してしまったが、これは流石に俺が読んでいいような代物ではなかったのではなかろうか。詩乃梨さんに懸想してる野郎共に情けかけたり塩送ったりしてやる義理なんて無いしそもそもそんなん意地でもしたくないけど、でもこういうデリケートでプライベートな内容のものを勝手に覗き見てしまうというのはやっぱりマナー違反だろう。

 

 俺はちょっとした罪悪感で頭を重くしながら、再度詩乃梨さんに目線をやった。


 詩乃梨さんは俺の視線に気付かないフリをしながら、取り皿のケーキをほんのちょび~っとずつ切り分けては、口内へ運んで大仰に咀嚼。どうやら彼女は、俺が全ての封筒の中身を改め終えて何らかのリアクションを返すまで、俺を意識の外へ追いやっておく腹づもりらしい。


 俺は諦念の溜息を吐いて、二枚目の封筒をぺりっと開けた。


 中にはやはり手紙が入ってて、文言は多少違うものの、言いたいことは一枚目と同じ。しのりんあいらびゅーだってさ。


 …………ふむ。


「……これ、ラブレターだよね?」


 封蝋代わりのシールは一度開封された形跡があったので、詩乃梨さんもこの手紙の内容については把握しているだろう。


 詩乃梨さんはフォークを咥えてもごもごしたまま、恥ずかしそうに目を伏せて、人形みたいにかくりと頷いた。


「らぶれたー。なるほど、そうとも、いうかもしれませんね」


「いや、そうとしか言わないだろこれ。……で、なんでいきなりこんなの、俺に?」


 手紙を丁寧に折り直して綺麗に封筒へ収め、詩乃梨さんにそっと差し出しながら問うてみた。


 詩乃梨さんはちょっと不機嫌そうに俺をじろりと見やり、封筒を手の平でぐっと押し返してくる。


「なんでってなに。他になにか言うことないの?」


 どうやら、彼女は俺に対して、手紙の内容へある程度以上に踏み込んだ発言を求めているご様子である。


 俺が言うべきことは……、『詩乃梨は俺様のモノなんだから、こんな奴らいちいち相手にすんじゃねぇよ』とかか? いや俺そんな俺様キャラじゃないしな。似たようなことは思っちゃってはいるけど、それを胸張って口にできるほど傲慢でも自信家でもない。


 ……そんな、傲慢でも自信家でもない矮小な俺ではあるけれど。矮小な人間であるからこそ、身の丈に合わない奢った台詞をしれっと口にするなんて愚行も平気で冒せたりしちゃうのです!



「――詩乃梨さんは、俺のだから。こういうの、全部断ってくれる?」



 俺は詩乃梨さんの目をしっかりと見据えて、はっきりきっぱり言い切った。


 詩乃梨さんはちょっと虚を突かれたように目を丸くし、しかしすぐにとても幸せそうなはにかみ笑いを浮かべた。


「こたろー、そういうこと、言えるようになったんだね。自分勝手な気持ち、ちょー押しつけまくり」


 気持ちの、勝手な押しつけ。かつての俺がリアルにゲロ吐くレベルで毛嫌いしまくっていた、どこまでも醜悪でどこまでも馬鹿臭い行為。


 今だって、そういうのを馬鹿臭いと思う気持ちは全く変わってなんかいない。


 でも。少なくとも、詩乃梨さんに対してだけは、こういう気持ちの押しつけをしてみてもいいんじゃないかと、そう思えるようになっていた。


 だから俺は、自分の発言を撤回することも、ゲロを吐くこともせず、何となく鼻の頭をぽりぽりと掻きながら極々自然に心境を語った。


「ん。まあ、詩乃梨さんはもう俺と一心同体というか、一蓮托生みたいなものだと思ってるから。なんてったって生涯の伴侶(予定)だしね。これからもわりと言いたいこと色々言わせてもらうだろうから、嫌だと思ったらちゃんと言ってね」


「わかってる。わたし、ちゃんと嫌なことは嫌って言うよ。こたろーは、わたしに嫌なことを無理強いするのが、他のどんなことよりも大っきらいなんだもんね? わたし、ちゃんと知ってます!」


 詩乃梨さんはにひひとイタズラっぽく笑って、ようやく俺の手から封筒を受け取った。


 俺は空いた手を飲みかけの缶コーヒーに伸ばして、ずずっと啜りながら詩乃梨さんを横目に眺める。


 俺、詩乃梨さんのこと、絶対に一生放さない。この子だけは、俺が持つ何もかもを投げ打ってでも、絶対にこの手で捕まえておかなければならない。


「……ねえ、こたろー。これの返事、書いてみない?」


 詩乃梨さんは、太股の上で力無く握っている封筒に目線を落としながら、ちょっと強ばった声を放ってきた。


「……返事? 俺が? ……詩乃梨さん宛の、ラブレターの?」


「うん。……………………だめ、かな?」


 詩乃梨さんは、封筒を握る手に力を込めてしわを刻みながら、期待と不安が半々の瞳で俺の膝辺りを見つめてきた


 ……恋文の返事を、他人に任せる。本来ならば、そんなのはとんでもないマナー違反だ。


 でも、もし、その返事を書いたのが、他人ではないとしたら?


 恋文を受け取った人間が、その時点で既に己の伴侶と定めている相手であったとしたら?


 マナーには相変わらず違反してるかもしれないけど、少なくとも全く道理が通らないということにはならないだろう。


 もし道理が通らなくても、俺は無理を押し通す。俺にとっては、マナーや道理なんぞより、詩乃梨さんの心の安寧や幸せの方が何億倍もたいせつなのでね。


「……………………ふむ……」


 俺はコーヒーをくぴりと一口煽ってから、詩乃梨さんの手の中でしわくちゃになりつつあった封筒を片手で引っこき、自分の太股の上で丹念にしわを伸ばした。


 詩乃梨さんは、握る物を無くした手を組んだり放したり忙しなく動かしながら、ぼんやりと封筒を見つめた。


「……こたろー、なんかやけに丁寧に扱ってるよね、それ。……なんで?」


「……なんでって言われても……。敬意の表れ、かな。見知らぬ恋敵達への。……もしくは、恋愛ってもの自体に対しての」


「………………………ふぅん…………」


 詩乃梨さんはふわっとした鼻息を吐き、ぼーっと俺の動きを見守り続ける。


 ぼーっとしてたと思ったら、なんだか段々頬が朱に染まってきて、恋する乙女みたいにときめきまくったお顔になってきてます、彼女。なにゆえ。


 ……そういや、前『告白された』って報告してくれた時もこんな顔してたな。どういう想いの発露なんだろ、このお顔?


「……詩乃梨さん、今どんなこと考えてる?」


「……んー? ……んー。………………んー。……言っていい?」


「いいよ。是非教えてくれ」


 俺が快く許可を出すと、詩乃梨さんは極めて照れくさそうににへらっと笑い、首元を意味無く撫でさすりながらぽわぽわと浮かれた声音で囁いた。


「……もしこたろーが、わたしと同じ学校だったら……、こういう感じで、わたしに『好きだぞー』って、伝えてくれたのかな……ってさ」


 ………………………………………………。


 ……え、そのお顔って俺にときめいてるお顔だったの? 俺っていうか、厳密には詩乃梨さんの妄想の中の俺だけど。貴女ってほんといっつも俺のこと考えてくれてたのね。泣いていい? ナイアガラみたいな豪快な男泣き。


 詩乃梨さんの発言も笑顔も仕草もあまりにもかわいすぎて、俺はもう胸がいっぱいいっぱいです。俺は結局、詩乃梨さんに何のコメントも返せずに、ひたすら封筒のしわを直すフリをし続けるしかありませんでした。



 ◆◇◆◇◆



 結局、恋文の返事は俺が書いた。


 書いたんだけど、実は書く必要なんて無かったんだよね。だって、詩乃梨さんは返事のお手紙を渡す気なんて端っから無かったらしいので。


「なんで、クラスだって違う、会ったことも話したこともない人の所に、わざわざこっちから出向いてあげなきゃならないの? だいたい、その人達ってわたしの中身なんて一切見てないよね。見てたとしても、それって勝手なイメージで作ったわたしだよね。だって接点なんて完全にゼロだったんだから」


 だそうです。至極ごもっともなご意見であります。


 ……あれ、でもそれじゃあ、俺が詩乃梨さんと同じ時代に同じ学校に通ってたとしても、ラブレターのお返事貰えなかったことになるんじゃないですかねー……?


 まあ、学生時代の俺では、詩乃梨さんに告白なんてできるわけないんだけどね。というか、懸想すらしない。あの頃の俺にとっては、女の子というのは単なる性欲の対象でしかなくて、恋愛関係になるどころかまともに交流するという発想さえまるで無かった。だって俺モテなかったし。男友達と馬鹿やるのが楽しくて、それしか考えてなかったし。


 それに。あの頃の俺では、詩乃梨さんの抱えるものを受けとめてあげることも、自分の抱えているものを詩乃梨さんに打ち明けることも、できはしなかった。……あ、いや、あの頃の俺って、そもそもなんも抱えてなかったっすね……ただのちゃらんぽらんでしたね……。


 俺が詩乃梨さんの荷物に匹敵する――かもしれない重荷を抱えることになったのは、学生時代が終わってからの話だ。ブラック労働時代を過ごして、友達という概念へ疑問を抱いて、家族への疑念を抱いて。そういう擦り傷と切り傷に満ちた過去があるからこそ、俺は詩乃梨さんに癒してもらって好意を抱くようになり、そして好意を愛へと至らせた。


 詩乃梨さんと送る学校生活というのも、非常に魅力的ではあるのだけど。残念ながら、その世界においては、俺と詩乃梨さんの道が交わることは有り得なかった。


 ……くっそ、悔しいな。いくら悔しがったってどうしようも無いし、絶対無理だったとわかってるんだけど、やっぱ詩乃梨さんと一緒に同世代の学生カップルとして青春時代を送ってみたかった。


 今からでも、なんとかそんな感じの青春を、ちょろっと疑似体験できたりしないだろうか?

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