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四月二十五日(火・続了)。回答者。

 現在の時刻、二十五日の深夜二十七時。ていうか二十六日の午前三時。


 行為の後、気付けばいつの間にかうっかり寝入ってしまっていた俺は、夜とも朝ともつかない時間に詩乃梨さんに叩き起こされ、労働を強要されていた。


「………………眠ぃ……。…………ふぁあぁぁあぁああぁぁああぁ………………」


 熱めのシャワーをさっと潜ってはきたものの、その程度では全然眠気が吹き飛んでくれなかった。廊下の壁に背を預け、腕組みしながら寝ぼけ眼で洗濯機を眺める。


 めっちゃガタガタごぅんごぅん言ってる。うるせぇ。隣は空き部屋と空気だからまあ良いけど、下の階の人とか絶対激おこだよねこれ。近所迷惑、いくない!


「…………ふぁぁぁぁぁああぁあぁあぁあぁぁあぁぁ…………」


「ねえ、あんまり大きなあくびかかないでよ。伝染するじゃん」


 気付けば、傍らに詩乃梨さんが立っていた。彼女も俺と同じくだいぶ眠いらしく、立ち姿がどうにも気怠げというか、精彩を欠いているように見える。俺に文句を言う台詞にも顔にも、大して怒気を感じなかった。


 今彼女が身に纏っているのは、俺が今着ているのと同じく、衣装ケースの肥やしになっていた旧式パジャマローテーションのうちの一着。詩乃梨さんはやはり俺とは体格差がありすぎて、袖と足が盛大に余っており、丁寧に折り返してようやくなんとか着れている状態。上着のボタンを全部締めてるから今は見えないけど、中には俺のTシャツを着てて、ウエストには俺のスーツから抜き取ったベルトを巻いているはずだ。


 彼女が先程まで着ていた服はどうしたのかと申しますれば、ブラウスは俺のパジャマや下着なんかと一緒に洗って窓の外で、ブレザーやスカートは今彼女の両腕に抱き締められている。ぱんつとブラジャーは行方不明。もう一度言う、ぱんつとブラジャーは行方不明。


 行方不明者を全力で捜索したい熱い気持ちを無理矢理押さえ込み、俺は詩乃梨さんを見下ろしながら簡潔に問うた。


「ちゃんと乾いたのか、それ?」


「………………まぁ、だいたいは」


 僅かに目線を逸らしながら答える詩乃梨さん。ああこれまだちゃんと乾いてないな。何がかっていうと、詩乃梨さんの制服。色んな液体を水で洗い流したらしく、俺がシャワー浴びに行く前に見た詩乃梨さんは、当て布使ってスカートにアイロンかけながら眉根にしわを寄せて唸っていた。


 ちなみに、俺を起こしてくれた時には、詩乃梨さんは既に俺のパジャマを着込んでいた。シャワーもきちんと浴びたであろうことは、ほかほかと上気した頬やふわりと香るあたたかいフェロモンからわかる。中々良い塩梅でこの部屋での自由を満喫してくれている様子で、俺は内心安堵していた。


 そんなことをつらつら考えていると、詩乃梨さんは少しだけ普段の鋭さが戻って来た不機嫌ヅラでこちらを覗き込んできた。


「わたしだけ気軽に洗えない服でああいうことするのって、不公平じゃない? こたろーくんも同じ苦労を味わうべきだと思います」


 心眼、発動。するまでもないな。わざわざ意訳する手間を省いて、俺は苦笑しながら返答した。


「次は俺もスーツ着るから、そしたらお相子だよな。それで勘弁してくれ」


「………………ん、そう。あいこですね。平等はたっとばれるべきですね。こたろーくんが話のわかる人で、わたしはとっても安心しました」


 詩乃梨さんは笑顔を無理矢理堪えて真面目ぶった表情で告げて、すぐにふいっと顔を逸らしてしまった。そのまま俺に軽く体当たりするように肩を押しつけてきて、俺の目線からでは彼女の顔を確認することが不可能となった。


 俺は詩乃梨さんとぴったり寄り添いながら、彼女の視線の先にある洗濯機をぼんやりと眺めた。


 相変わらず盛大にごぅんごぅん言ってる。でもそろそろ終わりそう。ちなみに中身は大物、ベッドシーツです。俺がシャワー浴びに行く前に、詩乃梨さんに命じられて引っぺがしてブチ込みました。


 俺はくぁっと欠伸をかいて、目をしぱしぱ瞬かせながら口を開いた。


「ねえ、しのりん」


「……そのしのりんって時々言うけど、それなに?」


「愛しい貴女への、親愛を込めた愛称。でさ、しのりん。俺、ベッドシーツなんてそんな何枚も持ってなかったと思うんだけど、どっから発掘したの?」


 昨日のシーツは今窓の外で、今日のシーツは今洗濯機で、新たなシーツは敷き布団に装着済み。都合三枚。普段は二枚でローテーションしてるから、残りの一枚については異次元から取り出したことになる。このアパートに引っ越してきた当初に無駄に買い込んだ新品のやつとか、たぶん探せばどっかにはあるだろうけど、探すのを諦めたくなるくらいに押し入れの奥深くへと封印されてると思う。


 頭の中で頑張って押し入れの中身をひっくり返している俺に、詩乃梨さんは極めて簡潔に答えた。


「今洗ってるのは、わたしが持って来たやつ」


「…………………。………………新品?」


「無駄に新しいのなんて開けないよ。そもそも持ってないし。これは、わたしの普段使いのやつです」


 ……………………………………。


 詩乃梨さんが、普段使ってるシーツ。詩乃梨さんの、寝汗とか、よだれとか、匂いとか、体液とか、もしかしたらえっちなお汁なんかも存分に染み込んでいるであろう、寝具ならぬ神具とでも言うべき宝物。あ、もしかしたらっていうかえっちなお汁大量に染み込んでますよね。詩乃梨さんのだけじゃなくて俺が出したのも。


 …………………………。む、バベルの塔、再建。


「……こたろーって、ほんとえっちだよね……。なんでたかがシーツでそんな興奮できるの?」


 詩乃梨さんは俺の尖塔を見やって、呆れに満ちた溜息をついた。


 俺は反論する言葉を持たず、居心地の悪さを紛らわせるためになんとか話題転換を試みようと頭を捻る。


「……あ、そうだ。これめっちゃガンガン洗濯機回しまくってるけどさ、こんな時間にやってたら明らかに近所迷惑じゃね?」


 近所迷惑、いくない! でも意外とこのアパートの壁って防音聞いてるから、大丈夫と言えば大丈夫かもしれない。どこぞのイケイケでアゲアゲな大学生連中みたいに、窓全開にして『うぇーい! いっき! いっき! ヒュー! イェアぁぁぁあ!』とか馬鹿騒ぎしない限りはな。テメェらマジ黙れやぁ!


 詩乃梨さんも山猿達に悩まされているはずなのだが、なんだかピンと来ていないような様子でこちらを見上げてきた。


「洗濯機の音なんて、ほとんど響かないよ? ドアの外で騒いでると、すっごい声響くけどさ。……あとここの隣、今は空きだよね?」


「隣は空きだし、上は屋上だけどな。でも床下響くだろ」


「ここの下、わたしの部屋。だから問題ない」


「なんだ、じゃあ大丈夫か」


 …………………………………………………………ん?


 思わず詩乃梨さんの顔をまじまじと見つめたら、高速でふいっと顔を背けられてしまった。


 ……………え、詩乃梨さんの部屋、ここの下なの? 初耳なんだけど。貴女屋上の妖精じゃなかったの? いやいや、普通に住人なんだからそりゃどっかの部屋に住んでるよな。当たり前だ。


 ……でも、真下ってのは、流石に予想外。長いこと知りたくても知る事ができなかった情報がようやく開示されたというのに、喜びよりも戸惑いの方があまりにも大きすぎて、ちょっと頭がうまく回らない。


「……俺、うるさくしてなかった? 大丈夫?」


「………………………………ほんとのこと、言っていい?」


 む。俺がよく言う感じの前振りだな。わざと俺の真似をしておどけて見せているのか、単によほど言いづらいのか。どちらにせよ、俺にとってあまり好ましくない本音が待っていそうだ。


 俺はちょっと身構えながら、そっぽ向いたままの詩乃梨さんの耳元へ軽く口を寄せて返答した。


「遠慮無く言ってくれ。普通だったら、近所迷惑な隣人に直接物申すなんてそうそう出来ないしな。折角の機会なんだ、我慢しないで本音ぶちまけていいよ。俺、逆ギレしたりしないから」


「…………………………ほんとだね? げんち、取ったからね?」


 言質。やばい、俺逆ギレはしなくても泣くかもしれない。自分ではわりと騒音には気を付けてるつもりだったんだけど、つもりになってただけらしい。赤の他人に迷惑かけるだけでもわりと心苦しいのに、相手が愛しい少女となれば、心痛は更に五倍にも十倍にも跳ね上がる。


 身を固くして衝撃に備える俺に、詩乃梨さんは胸に抱いた制服をぎゅっと抱き締めながら、洗濯機の音に紛れさせるかのように極々か細い声で一息に告げた。




「――こたろーの音聞こえると、嬉しかった」


 


 洗濯機さんは空気が読めない子でした。詩乃梨さんが『こたろー』の『こ』を口に出した辺りでかしゅっと小さな音を出して停止し、そこから数秒間完全に沈黙してから、びーっ! びーっ! と洗濯終了のアラーム音。


 つまり、詩乃梨さんが俺にわざと聞こえないように呟いた台詞は、コーヒーに浮かび上がるミルクのようにはっきりと俺の耳に届くことになってしまいました。洗濯機さん、空気読めない子というより空気読み過ぎな子ですね。


 俺、この洗濯機、自力で修理しながらギリギリまで使い続けるわ。


「……嬉しかったっていうのは、どういうことかね? ちょっと詳しく教えてくれない?」


「こたろーしね」


 はい、『死ね』ではなく『氏ね』でもなく『しね』でした。『こたろう』ではなく『こたろー』でした。これただ恥ずかしがってるだけですね。じゃあ俺に命の危険は無し。追求続行。


「いや、普通隣人がうるさかったらそんな感想出てこないじゃん? 玄関のドア蹴破って突撃してサブマシンガン乱射して死人にして口無しにしたくなるじゃん? やらないけど。やりたくなるよね? ならない?」


「――やってやろうか? あ?」


 こちらへぎゅるんと振り向いた詩乃梨さんが、大気をバチバチと放電させながら雷龍の瞳でギンッと睨み付けてきました。この態度は絶対照れ隠しだとわかってはいるんですけど、この子とっても恥ずかしがり屋さんなので、普通に怒っている時よりも極度に照れている時の方が激しく暴走する可能性大。これ以上刺激すると、まさに龍の逆鱗に触れたような大惨事と大騒動が俺のお部屋で盛大に猛威を振るうことでしょう。


 俺は詩乃梨さんをいじめることを諦めて、ふっと軽く溜息を吐いた。


 俺が怯えるどころか逆に表情を緩めたのを見て、詩乃梨さんは虚を突かれたようにたじろいだ。そんな彼女の頭に向かって、俺は手を伸ばして優しい手付きで撫でてあげた。


「迷惑かけてないなら、よかったよ。正直、今でも結構騒音には気を遣ってるつもりだったからさ。これ以上静かにしろって言われると、ちょっと困っちゃう所だった」


 俺が明確に騒音を出しちゃったのって、ここ最近の数回だけだしな。玄関口で詩乃梨さんにお弁当もらって盛大にお礼言おうとした時とか、昨日の詩乃梨さんとの初えっちとか。今日のえっちは、詩乃梨さん叫ばなかったし、腰もあんまり振っていなかったので、それほどうるさくはなかったと思う。


 俺は詩乃梨さんの頭から手を離し、きょとんとした顔の彼女を尻目に、洗濯機に歩み寄って蓋をがこんと開けた。


 うん、終わってる。……あ、でも干す場所もう無いよな。今窓の外の物干し竿には、俺が普段から溜め込んでた洗濯物や、今日の行為で汚れた服や、それに一枚目のシーツなんかがみっちりとぶら下がっている。


 本来なら、こいつをなんとか干そうと考えた場合、先に干してあったシーツの上に重ねるくらいしか思いつかないけど……。それよりもっと良い方法が、先程詩乃梨さんがくれた情報によって発生した。


「ねえ、これ詩乃梨さんの部屋で干してもいいかな? 干すのは俺やるからさ」


 善意で労働を引き受けようとしている風を装おうことで、女の子の部屋に上がり込みたいという下劣な欲望を完全に覆い隠した、策士俺。


 洗濯機の縁に手を突いて振り返った先には……、あれっ、なんだかとっても悔しそうな顔の詩乃梨さん。


「なにそのお顔。俺なんかまずいこといったかね? 俺べつに女の子のお部屋に上がり込みたいとか考えてないよ? 干す場所をお借りするなら、干すのは自分でやるのがマナーで礼儀で常識だよねっていう、ただそれだけ。ほんとほんと」


 しれっと大嘘ぶっこいてみたけど、詩乃梨さんの表情は変わらないまま。あまりに変わらなすぎて、俺の台詞をちゃんと聞いてくれていたのかも怪しい。


 詩乃梨さんの態度の理由がわからず、俺はちょっと首を捻りながら、洗濯機に腰を預けるようにして詩乃梨さんと正対して、彼女の言葉を待った。


 詩乃梨さんはほのかに赤い顔で俺を睨み付けながら、壁にぽすんと背を預けて、腕の中の制服をより一層強く抱き締めながら口を開いた。


「………………わたし、は……、こたろーの、音が、好きです」


 ……………………………。


 詩乃梨さんの言葉の意味を咀嚼しようと試みるも、思考がどうも鈍い。まあ深夜三時だしな。寝起きだしな。そしてこれからまた寝る所だしな。考えるのは後回しにして、とにかく今は詩乃梨さんの話に耳を傾けよう。


 そう決めて、視線で続きを促してみると、詩乃梨さんは俺の目から逃れるようにすっと目線を落としてしまった。目線を俺の膝辺りに向けて、制服に口元を押さえつけるようにして、彼女は鋭い目つきに恥ずかしさの涙をブレンドさせながら呟く。


「…………学校から帰って……、ひとりで、ぼーっとしてて……、夜、上から音聞こえてきたら、『あ、あの人、帰ってきたな』って……、……心で、『おかえりー』とか、言っちゃって…………。………………また、週末に、会おうねって………………。………………っ、ごめんわたしヤダもう帰るぅ!」


 消失へと向かっていた弱々しい声が、唐突に身体全体を使った叫びへと劇的進化。詩乃梨さんは帰ると言いながらなぜか玄関ではなく寝室の方へ全速力で飛び込んで、廊下と部屋を区切る扉を思いっきり『ばぁん!』と閉めて引き籠もった。


 俺、絶句。詩乃梨さんが閉めた扉を眺めながら、真っ白になった頭の中で、思考の残滓を掻き集めてゆるりゆるりと情報を組み立てていく。


 学校から帰った詩乃梨さんが、自分の部屋で一人でぼーっとしている。夜になると、上の部屋から物音が聞こえてきて、俺が帰宅したことを知る。詩乃梨さんは心の中で、俺を『おかえり』と出迎えたり、『週末にまた会おうね』と約束したり。


 たぶん、俺が帰宅した時だけではなく、俺が普段出している生活音についても、詩乃梨さんは同じように心の中で何らかのコメントをしていたのではないだろうか。


 ……そういえば。詩乃梨さんを初めて俺の部屋に上げた時、「ジャケットそっち置かせて」って言ったら、ほぼ無意識みたいな自然な動きでジャケット受け取ってラックにかけてくれたことあったっけな。あれ、単にケーキ速く食いたいからだと思ってたけど……。もしかして、俺とのそういう何気ないやりとりなんかを、普段から頭の中でシミュレートしたりしてたんだろうか。


 ………………………………。


 い、いや、まさかな。無いよな。あるわけないよな。まさかだよな。そんな、ね? いやだって、そんな都合良い話あるかよ、お前、だって、えっと、だって、だって、だって。


 ………………………………。


 嫁にしたい。結婚したい。子作りしたい。やばい、胸がやばい。


「ぐっ、う、う、ぅ」


 俺は胸の肉をパジャマの上から思いっきり鷲づかみにして、その場にうずくまった。


 胸が、どっくん、どっくん、激しく脈打っている。頭の芯が赤熱し、赤を通り越して白くまばゆくギラギラと輝いている。息まで熱くて、呼吸の度に咽と肺が焼け爛れそうだ。


 耳鳴りがする。可聴領域を超越した高音が、音波となって鼓膜を突き抜ける。使い物にならなくなった聴覚に、けれど心臓の拍動だけは、どこまでも高らかにどっくんどっくんと響き渡っていた。


 うずくまったまま、頭を床にごんごんと打ち付ける。鎮まれ、鎮まれ俺の胸。あ、でもこんなごんごんしてたら下の階の人に迷惑かも。いや下の階の人って今俺の部屋にいましたね。じゃあ大丈夫か、あっはっは!


 ごんごんごんごんごんごんごんごん。


「ふぅーっ、フゥーっ!」


 やばい。やばい。痛い。頭痛い。胸痛い。やばい。


 落ち着け。落ち着け。落ち着け。おちつけ。おちつけ。おちつ、け。おち、つけ。お、ち、つ、け。


 ………………ふぅーっ、…………ふぅーっ……。


 ………………………………ふぅっ……。


「………………はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………………」


 俺は脱力して、俯せに寝そべって頬を床へべったりとくっつけた。


 火照りきった顔に、ひんやりとした感触が伝わってくる。気持ち良い。


 少しだけ冷静になり始めた頭で、再度、詩乃梨さんのことを考える。


「………………嬉しかった、か……」


 詩乃梨さんが先程打ち明けてくれた内容は、彼女が俺と会話を交わすようになる以前の話だろう。俺のことを『あの人』と呼称していたから、少なくとも、互いの名を交換するより前。しかも学校から帰ってきてぼーっとしてたってことは、直近の春休みよりも前ということになる。


 どのくらい、前なのだろうか。いつから彼女は、俺をおかえりと出迎えてくれていたのだろうか。いつから彼女は、俺にまた会おうねと約束してくれていたのだろうか。


 いつから彼女は、俺に『愛に至りうる好意』を、抱いてくれていたのだろうか。


 ……もしかして俺、その気になっていれば、もっと早くに詩乃梨さんと今みたいな関係になれてたのかな。


 もっと早くに、そういう関係になれていたら。今は、もっともっと、先に進んだ関係になれていたのかな。


 ――俺はとても、もったいないことを、取り返しの付かないことを、したのかな?


「…………………………」


 たらればをいくら積み重ねてみた所で、そんなのはどこまでいっても架空で空想で妄想でしかない。


 ああしていたら、こうしていれば、もっと良い結果になったかもしれない。もっと幸せになれたかもしれない。もっと、より良い人生を歩めたかもしれない。


 そんな人生は、幻想だ。


 俺が今歩んでいるのは、そんな作り物の理想で織り上げられた美術品みたいな生ではない。もっと醜くて、拙くて、失敗や後悔に塗れてて、そういうリアルな雑味に溢れた本物の生を、俺はこの足でしかと歩み続けている。


 俺も、そして彼女も、ちっとも思い通りになんてならないこの世界で、けれど確かに自分達らしい生を、きちんと歩むことができている。


 そして、これからも。俺と彼女は、手に手を取って、俺達らしい人生を、ずっと、歩み続けていくのであった。


 END。


「……………………うむ。めでたし、めでたし」


 俺はうんうんと頷きながら、よっこいしょと立ち上がった。


 閉ざされた扉を見つめて、その向こうに居る詩乃梨さんを見つめる。


 詩乃梨さんはきっと、先程の話を俺に打ち明けてしまったことについて、ひどく後悔していることだろう。とめどなく込み上げてくる羞恥心に押し潰されながら、『とんでもない大失敗を犯してしまった』と、自分で自分を責めていることだろう。


 ならとりあえず、俺は彼女に教えてあげようと思う。


『後悔も失敗もあるからこその、俺達らしい人生なのだゼ☆』ってさ。


 ……え、なんでそんなうぜぇ言い方とドヤ顔なの? 無駄にヘイト煽って俺に向かって鬱憤ぶつけさせてスッキリしてもらう作戦なの? ああうん、とりあえずそれでいってみるか。話聞いてもらうにしても、ある程度冷静になってもらう必要はあるだろし。


 てなわけで。俺は扉に歩み寄って、こんこんとノックした。


「しのりーん、開けておくれよーぅ。キミの愛しのだーりんがやってきたよー」


 へらへら笑いながら声を掛けてみた。ヘイト煽り第一段階である。こんな言い方したら絶対開けてくれないだろうというのはわかりきっている。だが俺はこの閉ざされた岩戸の前でひたすらうぜぇことを言いまくり、耐えかねて出て来た女神様に全力ではっ倒されようと思います!


「へいへーい、どうした詩乃梨ちゃんよー? おかえりって言ってくれないのかーい? ぼくちゃんとっても寂しいよー。また会おうねって言ってくれたじゃないかよーぅ。へい! へいへい! かわいいお顔を見せてくれYO! セイッ! せいせいっ!」


 ……………………あれ、返事無い。さすがにちょっとはリアクション欲しい。深夜三時過ぎに、頭上で手をパンパン打ち鳴らしながら左右にステップ踏みつつ頭悪い口調で女の子煽ってる俺って、なにこれ超恥ずかしい。大失敗で大後悔である。もっと美術品みたいな理想の人生を歩みたいです!


「………………………はぁ……………」


 俺は急激に冷え切った心に押し潰されて、だらりと両手を下げた。立つのも億劫で、扉にこつんと額を当てて軽く体重を預ける。


 ……寝ちゃったのかな、詩乃梨さん。まあ、夜だしね。そりゃ寝るよね。ふて寝かな。起きたら、ちょっとはすっきりして元気になってくれてるといいな。


 女の子が寝ている部屋に、押し入るわけにもいくまい。今日は廊下が俺の寝床だ。洗濯機の中のシーツは、明日干せばいいだろ。


「……おやすみ、詩乃梨さん」


 俺は呟いて、ずるずると身体を沈ませていった。扉に頭を向ける形で、横向けにごろんと寝転がる。


 ひんやりとした床。廊下に満ちる深夜の冷気。火照りの抜けた身体にとっては、少々以上に堪えるものがある。


「ふぇっくしっ」


 小さくくしゃみ。体温を維持するために、軽く身体を丸まらせた。


 明日風邪引いてないといいなぁ……。ああ、もう明日じゃなくて今日か。


「……ふぇっくしっ」




「――なんで部屋入ってこないの? ばかなの?」




 岩戸がちょっぴり開かれて、隙間から生えた生首が、俺を侮蔑の眼差しで見下ろしていた。


 俺は顔だけそちらに向けて、えへへと可愛く笑いながら答えた。


「このままここで寝て風邪ひいたら、罪悪感感じた詩乃梨さんが手厚く看病してくれるかなって。てへっ!」


「………………………………はぁ…………」


 詩乃梨さんは目を閉じて、脱力の溜息を吐いた。


 やがて瞼を持ち上げた詩乃梨さんは、特に呆れも嘲りも含まないフラットな表情を浮かべ、中途半端に開いていた扉を全部開け放った。


 ドアに片手を添えたまま、半身を引いてあごでくいっと室内を指す詩乃梨さん。どうやら中に入れと仰せの様子。


「……じゃ、まあ。お言葉に甘えまして」


 お言葉は特に無かったけれどそんな決まり文句を口にしつつ立ち上がり、悪代官に媚びへつらう悪徳商人みたいな下卑た笑みと揉み手摩り手を引っ提げて、詩乃梨さんの眼前を忍び足で通過してみた。


 通り過ぎる際にちらりと横目で見た詩乃梨さんの表情は、やはりフラット。人を観察する猫の目が、俺をじーっと見つめている。


 俺は結局ツッコミをもらえないままに室内へと侵入を果たしてしまい、仕方無くフツーにベッドの縁に腰掛けて、詩乃梨さんを仰ぎ見た。


 詩乃梨さんは相変わらず、ドアの所から俺を見つめている。その視線の意図がわからなくて、俺はどんな言葉を発していいものやらと悩んでしまい、結局無言で見つめ返すことしかできなかった。


 僅かな距離を挟んで、見つめ合う男女。


 先に目線を逸らしたのは、詩乃梨さんの方だった。


「………………こたろー、わたしのこと、気持ち悪いとか思わないの?」


 ……………………………。ふむ。


 何のことを言っているのかは、わかる。俺が立てる物音を聞いて、一人であれこれ妄想していた詩乃梨さん。これは客観的に見ると、わりとストーカーちっくな行為と取れないこともない。もし俺と詩乃梨さんの性別が逆であったならば、気持ち悪い通り越して事案や刑事訴訟モノである。


 だが現実は、俺は男で詩乃梨さんは女だ。たらればの話は何の意味も持たない。大体、愛する女性が俺のことをずっとあれこれ妄想してくれていたのだから、気持ち悪いなんぞ思うはずがなく、むしろ天に舞い上がりそうなほどに感激して然るべきだと思う。実際俺はそうだった。


 でもそんなことを素直に口にしても、詩乃梨さんは俺の気持ちを理解してはくれなそうな雰囲気。彼女の表情にも、ばつの悪さや後ろめたさより一歩進んだ、罪悪感や怯えのようなものが滲み始めている。


 俺の言葉は、彼女に届かない。


 ならば、彼女に言葉を届ける役目は、彼女の中の『土井村琥太郎』に任せよう。


「詩乃梨さんは、俺が詩乃梨さんの話を聞いてどう思ったかっていうの、予想できる?」


 俺はあえて、感情を取り払った平板なトーンで詩乃梨さんに問うてみた。今度は俺が、詩乃梨さんに対して猫の瞳を向ける番。


 詩乃梨さんは少したじろいだ。俯きがちになりながら、ちらちらと俺の目を見て、自信なさげに呟く。


「……………………うっ、うれしい、とか――ごめん、わたしばかなこと言った。忘れて」


 出かけた発言を即座に破棄し、詩乃梨さんはパジャマの裾をぎゅーっと握りしめて完全に俯いてしまった。


 幸峰詩乃梨よ。一度出した言葉は、二度と引っ込めることはできないぞ。人生は一度きりだからな、リセットなんて利きゃしない。


 リセットしまくりが有りになると、せっかく導き出せた正しい答えさえ、『やっぱこれじゃないかも』なんつって何度も何度も無駄にやり直しちゃうのが人の悲しきサガだ。


 人生は、クソではあっても、ゲームではない。俺も詩乃梨さんも、ゲームをプレイしているのではなく、人の生を歩んでいる。


 信じろよ、詩乃梨。自分を、信じろ。きみと俺が必死こいて積み重ねてきた、後悔も失敗もたくさん有るけどリセットだけは決してしなかった、どうしようもなく醜くて歪んでる不格好な歴史を、信じて、信じて、きみの出した正解を信じるんだ。


「………………………………」


 俺は、詩乃梨さんを見つめ続ける。詩乃梨さんも、俯いていた顔を少しずつ上げてきて、俺を見つめる。

 

 やがて、詩乃梨さんは、再び目線を逸らしてしまった。



 ――頬を赤らめて、ふいっと。それは、実にいつもの詩乃梨さんらしい仕草だった。



「………………………く、くくっ」


 彼女は、己が導き出した正答を、きちんと信じてくれたらしい。俺はそれが嬉しくて、思わず笑いが込み上げてしまった。


 詩乃梨さんは逸らしていた目線をぎゅんっと俺へ戻し、とことこ歩み寄ってきて間近から見下ろしてきた。


「こたろー、なんで笑ってるの? よくわかんないけど、ぶっとばしていい?」


 雷龍様がお怒りであった。でも俺はたとえぶっとばされようと、笑顔を引っ込めることは出来ない。


「笑いたくもなるだろ。あ、でもこれ詩乃梨さんをばかにしてるとかじゃないから。単に嬉しさが爆発してにっこにっこしちゃってるだけ」


「………………なにがそんなに嬉しいの? ……こたろーって、すとーきんぐされると喜んじゃう人なの? へんたいなの? ……あ、ごめん、こたろーはへんたいだったね。うん、わたし、知ってた」


「そうだな。詩乃梨さんは、俺のことをよく知ってくれてるよな」


 詩乃梨さんがわざとからかうように放ってきた台詞も、今の俺には通用しない。


 腕を組んで首肯するポーズで固まる詩乃梨さんに、俺は改めて問いかけた。


「詩乃梨さんは、俺が詩乃梨さんの話を聞いてどう思ったかっていうの、ちゃんと予想できたんだよね?」


 それは問いというより、事実確認。


 確信に満ちた俺の台詞を受けて、詩乃梨さんはしばらく腕組みしたままむむむと唸っていたが、やがて溜息と共に両手をだらんと脱力させて力無く答えた。


「……………………こたろーくんは、わたしの妄想のエサにされて、とってもお喜びになられたのではないでしょーか」


「大正解! 流石は俺の未来の嫁、結婚する前から俺のこと熟知しちゃってるね! 円満な夫婦になろうね、しのりん!」


「………………ああうん、そのうちね、そのうち」


 詩乃梨さんはもう完全にやる気を失って、ぞんざいな返事を返しながらベッドにぼふんと倒れ込んだ。


 俯せに寝転がったまましばらくぼーっとしていた詩乃梨さんは、視線の先に有った枕に手を伸ばし、己の胸元に抱き寄せた。身体の向きを伏臥から横臥に変えて、枕をぎゅっと抱き締めて全身を胎児のように丸める。


 そのまま、動く気配無し。


 ……そのまま、自分の部屋に帰る気配無し。


「…………………………」


 俺は意味無くぽりぽりと頬を掻きながら、洗濯機の有る方向を見やった。


 ……シーツは、詩乃梨さんが自分の部屋帰る時に持ってってもらえばいいか。


 朝になってから、な。


「………………………ふぅ」


 俺は軽い溜息と共に立ち上がり、廊下への出入り口へと向かった。


 廊下の電気消して。部屋の電気も消して。


 暗闇に目が慣れてきてから、再びベッドへと戻った。


 安物のベッドにぎしりと体重をかけながら、足下に蹴飛ばしていた掛け布団の端を掴み、折りたたまれていたそれを広げるように引っ張り上げる。


「詩乃梨さん、布団かけるからね。中で寝ちゃって窒息とかしないでよ?」


「……………………しないよ、そんなの……」


 くぐもった声での返答。よく見えないけど、胎児ポーズを取ったままで、枕に口を押しつけているらしい。布団かける前に窒息しないだろうな?


 俺はちょっと不安になりながらも、詩乃梨さんがにじりにじりと動いて空けてくれたスペースにごろんと寝転がりながら、布団を胸元まで被せた。


 暗闇に浮かぶ、見慣れた天井。俺が考え事をするときの、ここ最近のお決まりのシチュエーション。


 でも、少なくとも今は、頭を悩ませなくちゃいけないことなんて何も無い。


「……………………ぷはっ」


 詩乃梨さんが布団の中から頭を出して、慌てたように酸素を求めた。


「だから言ったのに。なあ、枕返して。俺これ首痛い」


「……はぁ……、はぁ……。……この枕はわたしのになりました。こたろーは、勝手に寝違えてればいいんだ」


「枕返してくれたら、腕枕してあげよう」


「……………………………………………………」


 詩乃梨さんはたっぷりと沈黙した後、布団の中でゆーっくりと俺に枕を差し出して来た。


 俺はそれをさっさと受け取って己の首の下に挟み込んでから、詩乃梨さんの頭にチョップをかますようにゆるゆると腕を振り下ろした。


 俺に正面を向けて横たわった状態の詩乃梨さんは、俺の腕を自分の頭とベッドの間で白刃取り。


 俺も詩乃梨さんも無事に枕を手に入れて、二人同時に深々と溜息を吐いた。


 その溜息は、深い眠りに向けた、完全な弛緩の予兆。


「………………………ねー、しのりん……」


「………………んー? なぁにぃー……?」


「……………………俺、あした起きれるかな……」


「……………………わたし、おきれるよ…………」


 そっか。なら、いっか。


「………………おやすみ、まいはにー……」


「……………………だから、……まだ、はにぃ……じゃ……」


 そして、俺達は眠る。


 たとえ、明日の俺が、暗闇に沈む天井を眺めながら、物思いに耽らねばならないのだとしても。


 たとえ、明日の詩乃梨さんが、俺の傍らではない場所で夜を明かすことになるのだとしても。


 今日の俺達は、何も考えず、ただ身を寄せ合って、深い眠りに落ちていった。

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