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★四月二十五日(火・続11)。血肉を得た虚像。

 半分以上残ったケーキを、箱に戻して、冷蔵庫へ。空になったコーヒーの缶も軽くゆすいでから資源物用のゴミ袋に入れて、使った食器も全部洗い終わった。


 洗い終わった、けれど。流しの下の取っ手に引っかけてあるタオルで、いつまでもいつまでも手を拭いながら、俺は居間兼寝室の方を振り向けないでいた。


 ……ぺっちんぺっちんと、楽しげな音がする。ベッドに腰掛けた詩乃梨さんが、リズムに乗って膝を叩く音。


 彼女の視線はきっと、俺の斜め後ろあたりからひたすらじーっと俺を突き刺し続けている。圧力を感じる。プレッシャーを感じる。詩乃梨さんからのみならず、俺の内側からもプレッシャーがずんずん突き上げてくる。


 俺は、詩乃梨さんと、今日も、えっちしちゃう。


 まじか。大丈夫か、元童貞。お前、えっちのスキルとか全然無いだろ? 昨日だって、結局まともにできたのは最後の一発だけみたいなもんじゃないか。しかもよくわからないで単純に腰振っただけ。振れただけまだマシだけど、また暴発に次ぐ暴発に次ぐ暴発を二桁くらい繰り返してそのへんびっちゃびっちゃにしちゃって、それだけで袋がすっからかんになったらどうするよ? 聖母の如き慈愛に満ちた詩乃梨様であっても、そんな無様な姿見せつけられた挙げ句に結局本番おあずけとかになったら、さすがにちょっと嫌気さしちゃうかもよ?


 ……くっそ、これだけネガティブ思考入ってるのに、バベルが、バベルが天へと向かってずんずん伸びていく。だって詩乃梨さんとのえっちだぜ。しかもたぶん今日も生だぜ。興奮しないわけがない。暴発間近。どうする。どうする。


「こたろー、いつまで手拭いてるの? 肌荒れるよ?」


 詩乃梨さんの、怪訝と心配が合わさった不思議な声。


 俺は、彼女に泣きつくことにした。


「……詩乃梨さん、ちょっと世間話しようぜ。気、紛らわそう」


「……世間ばなし? ……気、紛らわせる必要、あるの?」


「…………………………じゃないと俺、うっかりまた出しちゃうから……。わりともう、ちょっと、限界」


 俺の状態を、詩乃梨さんはちゃんと察してくれたらしい。彼女はちょっと恥ずかしそうに「ふぅん?」と鼻息を漏らして、ぼふんとベッドに上体を投げ出した。見なくても気配でわかる。俺の五感は以下略。


 タオルに縋り付くようにしてへなへなと座り込む俺に、詩乃梨さんは仕切り直すように平素極まる声音を作り上げて放ってきた。


「こたろー、すごくえっちだよね?」


「世間話しろっつっただろやめろよそういう系の話題はちょっと今やめてよ!」


「世間ばなしだよ? ……こたろーは……、綾音とは、えっちなこと、したいとか、思ったこと……ないの?」


「…………………………む?」


 思わず詩乃梨さんの方を振り向くと、上体を倒した状態で顔だけ上げてこちらの様子を窺っている彼女とばっちり目が合った。


 ……目が、合ったん、だけど。そこからちょっと下に視線動かすと、ベッド脇に下ろされた艶めかしい生足と、短めのスカートの奥にちらちら覗いてしまっている花園が生唾ものすぎて、頭とバベルがフットーしちゃいそう。


 俺は少しだけ目線を逸らし、視界の端に映る詩乃梨さんの顔に意識を集中して会話を続けた。


「…………………………どうして、そんなことを訊くのかね?」


「んー。……気になったから。……ただの、世間ばなしだよ?」


 その世間話って、俺の返答次第でバッドエンド直行ですよね? 俺、嫉妬に狂った雷龍さんに八つ裂きにされて割けるチーズみたいになっちゃいますの?


 でも俺には、例えチーズに身をやつすことになろうとも、詩乃梨さんに嘘をつくという選択肢は無い。


「……………………正直、有るよ。綾音さんと、そういうの」


「………………………………ふぅん?」


 ん? 今の鼻息、あんまり不機嫌そうな感じじゃなかったぞ。おかしい。普段の詩乃梨さんであれば、俺は今頃割けている。


 再び詩乃梨さんの顔にきちんと焦点を合わせてみたら、彼女はなんだか少し困っているような顔で虚空を見上げていた。


 見上げていたら首が疲れてしまったのか、持ち上げられていた頭がぽふんとベッドに落下。仰向けになっても崩れない美乳の向こうで、詩乃梨さんは長々と溜息を吐いた。


「……マスターさんも、あやねと、そういうことしたいって、思ってくれてるのかなぁ……」


 ……………………………………む、むぅ。


 田名部親子の倫理的にアウトな恋愛事情について、詩乃梨さんは色々と思うことがあるんだろう。でもその『色々』っていう部分を見透かせるほどの心眼スキルは、まだ俺には無い。


 嫉妬深いはずの詩乃梨さんが、俺に近しい女性(仮)な綾音さんのことをやたら気に入ってる理由とか不明。父にも母にも親類にも愛情を注がれなかった詩乃梨さんが、親子や血縁という概念について正直どういう捉え方をしているのかとかも不明。まあ、不明な箇所を類推や憶測でどうにか補完することはできるし、普段の俺ならそうしている所ではあるんだけど……。


 今俺は、言葉のやりとりを、『世間話』を、彼女の方から望まれている。

 

「……詩乃梨さんは、自分の実のお父さんと、そういう――」


「こたろう死ね」


『しね』とか『氏ね』とかではなく『死ね』だった。『こたろー』じゃなくて『こたろう』だった。アプローチ完全ミス。


 でもミスのおかげで気持ちと下半身がちょっと萎えて、どうにかまともに行動と思考ができるだけの余裕が生まれてきた。怪我の功名である。


 俺はタオルに掴まるようにしてゆっくりと立ち上がり、詩乃梨さんの側へと歩み寄った。


 じろりと睨んでくる彼女に気圧されつつ、先刻とは別のアプローチを試みる。


「詩乃梨さんは、俺と詩乃梨さんの娘が成人間近になってから『パパのお嫁さんになりたい』って言い出しちゃったら、どうする?」


「………………………………」


 お、今度は怒られなかった。でもなんだか人を観察する猫の目が俺の心の根っこまで見抜きにかかってきてる。


 猫は、無感情に問う。


「言われちゃったら、こたろーは、どうするの?」


「…………………………………正直に言っても、怒らない?」


「……………………やっぱ言わなくていいや。答え、わかりきってるから」


 わかられてしまった。なんという以心伝心。言わなくて済んだのは助かるけど、詩乃梨さんが感情押し殺した儚い笑顔を浮かべていらっしゃるので、俺はこれから詩乃梨さんも助けてあげたいと思います。


「別に詩乃梨さんのことを嫌いになったり、蔑ろにしたりするわけじゃないぞ? ただ、もし娘が綾音さんみたいな良い子に育っていた場合、そんな子の想いを裏切るなんてのはちょっと腸がねじ切れそうな気分になっちゃうし、いつかどっかの馬の骨に穢されるくらいなら、いっそ俺が、とか、思ったり、しちゃったり……」


「……どこかで聞いたセリフだね、それ」


「……ですねー……」


 やっぱ、俺が電話で綾音さんに言ったことって、マスターの気持ちの代弁なんかじゃなくて、俺自身の本音だったんだな。悪癖は絶対に二度と出さないようにしよう。あんなやり口は、やっぱとんでもなく狡い。


 なんとも言えない微妙な表情を浮かべる詩乃梨さんに、俺は観念して内心を吐露した。


「俺は、綾音さんのこと、自分の娘みたいに見てた所あるからさ。マスターの代弁するつもりだったのに、ついつい自分の本音ぶちまけちまった」


「……むすめ? こたろーはあやねのこと、自分の娘みたいに、思ってたの?」


「……うん。まあ。俺、綾音さんよりマスターの方が正直親しいから、わりとマスター寄りの立場から綾音さんを見てたんだよね。綾音さんが中学生くらいの頃から知ってることでもあるし、なんとなく、我が子の成長見守る親みたいな気分になってたのかもな」


「……………………………………ふぅん……」


 詩乃梨さんは、投げ出していた手をお腹の上で軽く組み、ぼんやりと天井を眺めた。何かを考え込んでいるようで、その実何も考えていないような、これまたなんとも言えない微妙な表情。


 俺は詩乃梨さんの隣に並んで腰掛けながら、かねてから疑問に思っていたことを訊ねてみた。


「詩乃梨さんは、綾音さんのことどう思ってるの? なんかやけに仲良いけどさ。俺の勝手な感覚で言わせてもらうと、詩乃梨さんってそんなすぐに誰かと打ち解ける感じの人じゃないよね?」


 俺なんてここまで来るのに一年以上かけてますからね。もしかすると十年以上かもしれないけど。


 ……あ、でも会話するようになってから肉体関係に至るまでってほんの一ヶ月程度だったんだよな……。ていうことは詩乃梨さんってもしかして、警戒心は常にバリバリだけど、一度懐に入れた相手には完全に気を許しちゃう、みたいな両極端なタイプなんだろうか?


 そんな予想は、どうやら当たっていたらしい。


「…………………………んー……。あやねは……、『同好の士』、みたいなもの、かな」


 嬉しそうなにへら笑いと共に発せられた、同好の士というワード。それが何を意味するのかは、流石に俺でもわかる。


 つまり、だらしない男に胸キュンしちゃう奇特な乙女達の会、ということだろう。人付き合いを疎んじる根暗な男子達が、好きなアニメの話題を通して仲良くなるようなものだ。……見目麗しき乙女達のきゃっきゃうふふと、小汚い根暗男子達のひゃっひゃぐふふでは、絵面的に天国と地獄ほどの差があるけどな……。


 同好の士。なるほど、共通の趣味というのは、時として年齢や性別を超えた友情を生むこともある。俺と詩乃梨さんの場合で考えてみても、お互い重度のコーヒージャンキーだというのが、親近感や好感度を高める一要素になっていると思うし。


 納得は、できる、けど。それだけで、わずか数日足らずで俺が軽くジェラっちゃうほどに仲良くなっちゃうっていうのは、やっぱちょっと違和感あるような気もする。


 そんな納得のいかない心境が顔に出ていたのだろう。詩乃梨さんはしばらく俺を見つめてから、どこか観念したような――というより諦念の滲んでいるような溜息を吐いた。


「……わたしは、さ。……あやねのこと、『お姉ちゃん』みたいに、思ってるのかも」


「……お姉ちゃん? ……知り合いのお姉さんとかじゃなくて、自分の実の姉みたいに、ってこと?」


「ん。そう。……お父さんとお母さんに望まれて生まれてきて、いつもしあわせそうににこにこ笑ってて、妹にもしあわせとにこにこをくれるっていう……、そういう、『本物のお姉ちゃん』」


 本物の、お姉ちゃん。


 本物があれば、偽物もある。


 偽物の、お姉ちゃん。それは、妹にしあわせとにこにこをくれない姉。


 いつも、しあわせそうににこにこ笑っていない姉。


 お父さんとお母さんに、望まれずに生まれてきた姉。


 それが、『偽物のお姉ちゃん』だ。


「……………………………………」


 詩乃梨さんの瞳は、既に俺を捉えておらず、有りもしない天井のシミを眺める作業に従事していた。


 ……詩乃梨さんは、俺なんかよりずっと、綾音さんに感情移入していたんだろう。


 俺が綾音さんのことを娘みたいに思うだとか、綾音さんの立場に立って物を考えるとか、そういう紛い物で仮初めでまやかしな感情移入とは違う。


 詩乃梨さんにとって、綾音さんは、器の形があまりにも似すぎていて。詩乃梨さんが投射した感情は、この上なくぴったりと、綾音さんの中に収まってしまった。


 詩乃梨さんにとって、綾音さんは最早他人ではない。


 それはまるで、もうひとりの、自分。


 けれど、自分とはどこまでも決定的に隔たる存在。


 偽物のお姉ちゃんでしかない自分が、憧れて、成りたくて、でも成ることができなかった、本物のお姉ちゃん。


 かつての己が夢に描いた理想の極地が、具現した姿。それが、幸峰詩乃梨の心眼に映る、田名部綾音の正体なのだ。


「…………………………はぁ……」


 ま、これはさすがに言葉選びが大仰に過ぎたな。それにこの想像でいくと詩乃梨さんって綾音さんに気を許すどころか嫉妬通り越した殺意すら芽生えててもおかしくないのに、そんな気配微塵も無いし。百合百合してるし。二人できゃっきゃうふふしちゃって俺の疎外感煽りまくるレベルだし。


 でも、うん。詩乃梨さんと綾音さんの疑似姉妹が、ある意味では俺と詩乃梨さんの組み合わせ以上にベストカップルであるというのは間違いないだろう。


 でも俺はきっと、その関係に嫉妬すべきではないし、そもそも嫉妬しなくていい。


 だって俺、女の子達が百合百合してる四コマ漫画とか好きですしね。女子大生なお姫様と高校生な妖精さんの疑似姉妹カップルがゆりゆりしてるのなんて、眼福以外の何物でもないね!


「……………………ははっ」


 姉妹。その単語があまりにもしっくりと来すぎて、これまで詩乃梨さんを巡って俺と苛烈なバトルを繰り広げていた綾音さん(※妄想です)が、俺の恋敵から一気に攻略対象になったような気分だ(※妄想です)。目指せ姉妹丼(※妄想ですっ!)。え、目指すの? この宇宙にそんなルートあるの? だいたい綾音さんはマスターのことが好きなのよ? どこがどーなったら俺が寝取る展開になっちゃうの!?


「こたろー、さっきから顔おかしい。神経痛?」


「なんでやねん。俺は顔も健康も異状ありません。ほら見て、かっこいい顔してるだろ? 生きてるんだぜ、これ。……ブサイクだって、生きてるんだぜ。顔おかしいとか言わんといて……。うっうっ」


 腕を顔に当てて軽く鳴き真似してみたら、詩乃梨さんが「よっ」と勢いを付けて上体を起こし、ますます訝しげな眼でこちらを覗き込んできました。


「溜息ついたり、笑ったり、泣いたり、こたろーほんといそがしいよね。……それだけ慌ただしくしてれば、気もそろそろ紛れたんじゃない?」


 気が紛れた……? なんで紛らわす必要あるんだ? 俺、なんかプレッシャー受けなくちゃいけないような大イベントに立ち向かう所だったけ?


 首を捻って、視線で詩乃梨さんに答えを求めてみる。


 すると、詩乃梨さんは――


 ひきり、と、口元を引きつらせて。こめかみに青筋でも浮かびそうな、静かな怒りに充ち満ちた表情を浮かべ。


 しかし一転、とってもわざとらしい笑顔を浮かべて、高らかに告げた。


「もう今日は、膝枕ナシだからね! こたろーのばーか!」


 膝枕? ……ひざまくら!? おおぅ、膝枕からの本番生えっちコースが控えてたんだった! 世間話してるつもりがいつの間にかシリアス突入しちゃったせいで、性欲もバベルもすっかり消失しちゃってたわ!


 龍の吐く火炎に通ずる灼熱の笑顔を浮かべる詩乃梨さんに、俺は両手の平を拝むようにぱんっと打ち鳴らしてみせた。


「ごめん、ごめん、膝枕たのむ! おねがい、ナシとか言わないで! 膝枕ナシにするならとりあえずえっちはさせて! 生で! 俺の子供産んでくれ! 結婚しよう! あそだ、ハネムーンどこ行く? 海外とか無駄にお高い上に疲れそうだから、俺は近場の寂れた温泉宿とかいいかなって思うんだけど。でも一生に一度の記念なんだし、これ行きたいっていう希望があったらとりあえず言うだけ言ってみて?」


「……………………………はねむーんとか、行かないもん」


 拒否られた! むすっとした顔で拒否られちゃった! 結婚する前から離婚の危機!? 


 内心慌てまくる俺を、嘲笑うかのように。詩乃梨さんは、ふいっと顔を背けて、恥ずかしそうに眼を細めてぼそぼそと呟くのだった。




「………………はねむーんなんか行くより……、ここの屋上で、ちょっとごうかなお弁当食べながら、星見て、コーヒーすするとか……、なんか、そういうのが、いい……」




 ………………………………………………。


 ………………………………。


 ………………。


 むらっ。



 ◆◇◆◇◆



        この日の日記は、ページの一部が破られている。


        探せば、どこかに、その切れ端がありそうだ。

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