四月二十五日(火・続9)。その悪癖が、良くも悪くも未来を変えた。
こたつの天板の手前側に二人分の取り皿とフォークを用意し、ほぼ中央にはやたらでっかい紙製の箱をそっと置いて。後は詩乃梨さんが帰ってきたらコーヒーを鍋から取り出して持って来て、ゴージャスケーキ開封の儀をおこなうだけ。
だっつーのに、詩乃梨さんってば全然帰ってくる気配無し。せっかく温めたコーヒーがまたぬるくなっちゃいそう。
手持ち無沙汰すぎるから詩乃梨さんの飲みかけのコーヒーをもらっちゃおっかなー新品と入れ替えておけば喜ばれるし一石二鳥だよねーとか胸中で呟きつつ、手鍋から開封済みの缶を持ち上げようとした、まさにその時。
「……ただいまー」
制服ウィズ半纏アンド白猫の尻尾姿の詩乃梨さんが、なんだかちょっとばつの悪そうな顔でおそるおそる入ってきた。
扉を閉めていそいそと靴を脱ぐ彼女に、俺は腰に手を当ててひゅるりと溜息を吐いてみせた。
「おかえりー。ちょうど今、またコーヒー温め直そうかって考えてたとこだよ。綾音さん、どうだった? もし気まずい感じになっちゃったなら、俺が全速力でまほろば行って誠心誠意土下座してくるよ?」
「……………………んー……」
詩乃梨さんは曖昧な首肯と生返事を返し、俺と視線を合わせないままとっことっこと歩み寄ってきた。
そして、半纏のポケットをごそごそと漁り、上目遣いにこちらの様子を窺いながら、ある物をそっと差し出してくる。
「……スマホ?」
スマートフォン。特に何の変哲もない、手の平サイズの携帯端末。俺の使っている物とは別の機種だから、つまりこれは詩乃梨さんの私物だろう。
番号交換でもしたいのかな? これでようやく俺も綾音さんと互角になれる? 俺もいつでもしのりんとラブラブ長電話と洒落込めちゃうの?
「んー。んー」
詩乃梨さんはちらちらと俺の顔を見上げながら、弱々しい瞳で『はやく受け取って』と急かしてくる。どうにも、俺と朝までラブラブ生トークしたいとかなどという甘い気配は感じられない。むしろ俺とあんまり話したく無さそうな気配まで漂っている。なにゆえ。
俺は首を捻りながらも、促されるままにスマホを手に取った。
液晶ディスプレイに目を遣れば、そこには『通話中 あやね』の文字。
通話中……? え、これ綾音さんに繋がったままなの? なんで? ほわい?
あとこれ、現在進行形で料金発生中ってことだよな。金についてはどんぶり勘定なことに定評のある俺でさえ気付くことに、倹約精神の塊である詩乃梨さんが気付いてないわけがない。だが詩乃梨さんは、俺がスマホを受け取って以降は特に急かしてくるでもなく、半纏の袖に手を突っ込んで身体を揺すりながら気まずそうな顔で俺をちらちら窺うのみ。
心眼発動。俺、なんかわりと深刻な案件への対応を頼まれてるっぽい。
俺はスマホを耳に当てながら、綾音さんのみならず詩乃梨さんにも気持ちを伝えるつもりで穏やかに告げたみた。
「もしもし、綾音さん? どうしたの? 大丈夫? よくわかんないけど、俺に出来ることなら大抵のことはやってあげるから心配するな。なんでも気軽に相談してくれ」
詩乃梨さんは俺の意図を読み取ってようやく安堵したように表情を緩めてくれたが、電話口の向こうのお姫様は『ふぁっ!?』と仰天の奇声を上げる。
『こ、こたろーくん、今全然詩乃梨ちゃんと話してなかったよね!? なんで私が、琥太郎くんに相談あるってわかったの!?』
「まあ、伊達に詩乃梨さんと春夏秋冬二人きりで無言の時間を過ごしてきたわけじゃないですから。俺はいつだって、詩乃梨さんの気持ちを理解したくて、色々観察したりあれこれ考えたりしてるわけですよ」
俺のあたたかい眼差し存分に浴びた詩乃梨さんは、照れを押し隠そうと表情筋にぐっと力を入れて、こちらにくるりと背を向けてしまった。こたつの方へ向かう気配は無いので、単に俺達が話を終えるのをこのまま待つ気なのか、それとも、俺達の会話に心の中で耳をそばだてているのか。
「……綾音さん、相談の内容って、詩乃梨さんに聞かれても大丈夫なやつ? なんだかすっごい聞きたそうにしてるから、できれば一緒に聞きたいなって思うんだけど」
『……え、詩乃梨ちゃん、そんなに聞きたそうにしてるの? さっきは、けっこう……その、ぞんざいっていうか、ぶっきらぼうな感じだったから、無理言って怒らせちゃったかなぁって心配してたんだけど……』
「ああ、詩乃梨さんって普段大抵そんな感じですからね。たぶんそれ照れ隠しですよ。本当に怒ってたら、こんな風に俺にスマホ渡してきたりしないで、ソッコーで切ってます。むしろ、焼き餅焼きな詩乃梨さんが女の人からのお願い事を俺に回してくるなんて、綾音さんってば詩乃梨さんにめちゃくちゃ気に入られてますよ。俺の方が綾音さんに妬いちゃいそうです。ジェラッ!」
詩乃梨さんは横目でこちらをじろりと睨んできたが、結局何も言わずにふいっとそっぽを向いてしまった。彼女の纏う空気にはもう気まずさや弱々しさなど微塵も無く、ただ両腕を組んで仁王立ちする幼き雷龍さんのちっちゃな背中がそこにはあった。
俺は詩乃梨さんの肩に背後からぽんと手を置き、逆の肩の方から彼女の耳元へ顔を近づけて会話を続ける。
「で、どうですか? どうしても聞かれたくないっていうなら、一応席を外してもらいますけど……。でもその場合、俺、詩乃梨さんに秘密を守り通せる自信無いですよ?」
綾音さんは、しばし『うーん』と唸ってから、話の流れのやや外側から台詞を引っ張り出してきた。
『琥太郎くんって、他人が自分を信頼して打ち明けてくれた秘密は絶対墓まで持って行く、みたいなタイプだと思ってたんだけど……。違った?』
「概ね合ってます。でも、詩乃梨さんに対してはできるだけ隠し事なんてしたくないですし、あと……、秘密を打ち明けてきた相手が綾音さんやマスターだった場合、問題解決のために俺の独断で然るべき時に然るべき人に情報を伝えてしまう、っていう可能性は高いですね」
『……………………詩乃梨ちゃんに隠し事したくない、っていうのわかるけど……。私やお父さんのことは、余計なお世話だとわかってても、お節介を焼きたくなっちゃうくらいに……えっと、信、頼? してくれてる、ってこと、でいい……のか、な?』
勝手に秘密漏らすかもしれないぞって宣言してるのに、綾音さんは怒るどころか、とっても恥ずかしそうでとっても嬉しそうである。さすが、アイコンタクトも文脈も行間も空気も読めちゃう接客業の申し子。荒ぶる雷龍の本音までは見通せずとも、人の子の心の裡であればまるっとお見通しか。
「ま、そういうことです。……なんか、相談受ける前から色々と勝手なこと言っちゃって、すみません」
『い、いいよいいよっ! ぜんぜんすみませんしなくていいから! むしろこっちがいきなり相談とか持ちかけちゃってごめんなさいだからっ! しっ、詩乃梨ちゃん、詩乃梨ちゃーん! 聞こえてるー!?』
俺は詩乃梨さんの髪をそっと掻き分けるようにして、スマホを耳元へ当ててあげた。
詩乃梨さんはくすぐったそうに小さく身じろぎしてから、わざとらしくぶっきらぼうな風を装う。
「……聞こえてる。なんか用?」
『あのね、さっきの話、詩乃梨ちゃんにも……きっ、ききき、聞いて、もっ、もら、もらい、たいん、だ、け、ど……えっと、その……いい、です、か?』
「……………………………悪かったら、電話、もう切ってる」
意訳。『超聞きたいから是非お話しして、あやねちゃん!』
このわかりやすい副音声を聞き逃す綾音さんではない。綾音さんはほぁぁっと間抜けな安堵の溜息を吐いて、胸を撫で下ろしている姿が幻視できるほどに弛緩しきった様子で言葉を紡いできた。
『ほんっっっと、ごめんね、詩乃梨ちゃん。お話しの流れ全部無視していきなり要領得ない話ばっかりした挙げ句に、無理言ってわざわざ琥太郎くんに繋いでもらっちゃって……。今度うち来た時、なにか甘いのいっぱいご馳走してあげるからね!』
「…………………………ん。わかった」
詩乃梨さんは、ぶっきらぼうを貫けず、ふっと優しい息を吐いて微笑んだ。
これを一段落と見て、俺は詩乃梨さんの頬に自分の頬がくっつくくらいに顔を寄せ、全員で会話できるようにスマホの位置を俺達のすぐ目の前に移した。
「で、相談って何なんです? わざわざ俺に頼ってくるくらいなんですから、マスターには言えないような内容なんですよね?」
俺の、何気ない台詞が。綾音さんの、心臓の鼓動を止めた。
『……………………………………』
「あれ、綾音さん? あやねさーん? もしもーし? ……綾音ちゃーん? 綾音、おい綾音。コラ綾音、返事しろ! 二番テーブル、コーヒーおかわりだ! 綾音ぇ、きりきり働けぇーい!」
『……………………パパ、そんなこと、言わないよぉ……』
うん、そだね。あの人だったら綾音さん怒鳴るとか労働強要するとか絶対しないだろうね。赤ちゃん言葉で甘ぁく語りかけながら一生労働させないで養い続けるんじゃないかな、なんてったって鋼鉄の箱を織り上げしパパ上様ですものね。あれ、今綾音さんお父さんじゃなくてパパって言った?
つーか、えっと。マスターに言えない、とっても深刻な相談事?
……まさか、とは思うけど……、いや、まさかな。まさかだよな。さすがにありえないよな、うん。ろくに綾音さんについて情報持ってない俺が数少ない手がかりから無理矢理に連想しただけであって、まさか本当に俺の想像しているような事態が現実のものになろうとしているわけはないのであるこれ絶対いやマジで。
でも聞いてみちゃおっかな。綾音ちゃん、だんまりのままなんだか泣きそうな気配醸しだし始めちゃったしね。ちょっとこっちから会話の潤滑油的にちょろっとジョークを飛ばしてみよう。
俺はへらへら笑いながら、極めて明るく、ふわっと軽く、その台詞を口にした。
「やー。相談ってまさか、マスターに『だけ』は絶対言えない、ヒミツの恋愛そうだんだったりしてなー。なーんちゃって。あっはっは-」
『だけ』、と。注意して聞かなければわからない程度にちょっとだけ強調されたその単語を、そこに込められた意図を、詩乃梨さんはともかく、エアリーディングマイスターの綾音さんが理解できないわけがない。もし理解出来ないのであれば、それは即ち、俺の想像が単なる想像に過ぎなかったということの証左となるので、俺的にはむしろ理解されない方がとっても喜ばしかった。
そして俺は喜べなくなってしまった。
『…………………………こたろーくん、は……、ほんとうに、いろんなものを、見たり、考えたり、してるんだね。……そういうところ、ほんっと、パパそっくり』
綾音さんの声音には、思ったほど戸惑いは含まれていなかった。むしろ、俺が事の核心を突いていしまうことをある程度予見していたような、或いは核心を突いてもらえてほっとしているような空気がある。
……まじか。俺、おっさんと綾音さんのために生温かい目の用意しとくかなくちゃな。
「……こたろー。これ、何の話?」
詩乃梨さんが、俺のこめかみにこつこつ頭突きしながら無垢なお声で問うてきた。俺がそれに返事を返すより先に、綾音さんがなんだか悟りきったような力の無い笑い声を向けてくる。
『詩乃梨ちゃんには、けっこう話したよね? 私が、パパのこと、どう思ってかって』
「……うん。聞いた。すごく好きって、言ってた。……うらやましいなって、ちょっと思ってた。……ほんと、ちょこっとだけ、だけど」
羨ましい。その感情はきっと、両親から愛情を注がれなかった詩乃梨さんが、マスターと綾音さんの関係に見出した『親子の絆』に対する憧憬からきたものなのだろう。
だから綾音さんは、詩乃梨さんのその言葉を聞いても、『ごめんね、わたし詩乃梨ちゃんにとってつらいことばっかり言っちゃったってたよね』なんて謝ることはせず。
ただただ、いつもにこにこ笑顔の彼女にそぐわない、乾ききった笑いを漏らした。
『……私は、詩乃梨ちゃんの方が羨ましいよ。大好きな人に、女性として愛してもらって、結婚だってできちゃうんだもんね。しかも、相手は琥太郎くんみたいな、すっごく理想的な男の人。……ほんとうに、羨ましいや』
「……? あやねも、結婚、できるよ? 若いし。女だし。……あと、かわいい、し? こたろーは、わたしのだけど、他の男なら、どんな人でもすぐにげっとできると思う」
こたろーは、わたしの。あらやだ、俺の胸がきゅんっと来ちゃった。今はそんな場合じゃないってのにね。……いやほんとそんな場合じゃねぇなこれ……。
至極ごもっともなことを言う詩乃梨さんに、綾音さんはもう泣き出す五秒前みたいな震えきった声で再度弱々しい笑いを投げかけてきた。
『……私は、無理なんだ。……どうがんばっても、むり、なんだ……。……だって、わた、わたし、すきな、ひと、って――』
「――泣くんじゃねぇよ、綾音! お前ぇを泣かすようなくだらねぇ現実なんざ、俺がこの手でぜーんぶ丸ごとブッ飛ばしてやるからよ!」
脈絡無く唐突に、俺渾身の物真似炸裂。
自分が想像していた以上にあまりにも似すぎていて、自分で自分にびっくりし、詩乃梨さんまで顔を離してびっくりお目々で見つめてきて、電話の向こうの綾音さんまで『ぱ、パパっ!?』と素っ頓狂な悲鳴を上げてスマホを取り落とした。
俺は詩乃梨さんの肩に置いていた手を彼女の側頭部に回し、小さな頭をちょっと強引に元の位置まで戻した。再び二人でスマホを至近距離から眺めていると、しばらくして、ドアの閉まる音やザザッという雑音の後に、綾音さんの裏返った声が響いてくる。
『い、いまの、こっ、こここ、ここここた、こたっ、こ、こたこたっ』
「おう、なんか驚かせちまって悪ぃな。綾音があんまり情けねぇ声してやがるもんだからよ、思わず俺渾身の一発ギャグを披露しちまったぜ。って俺の物真似を一発ギャグ扱いしてんじゃねぇぞ小童ぁ!」
『……………………………………う、うわぁ……』
うわぁ言うな。俺だって自分で自分にうわぁだよ。俺何やってんだ。しかも無駄にクオリティ高すぎてさらに何やってんだ。
でもこれイケるな。
「なぁ、綾音よ。ちっとだけ、俺の話聞いちゃくれねぇか?」
『………………………………………………はい。きき、ます、です』
よしイケる。綾音さん、なんかすっごいぼーっとしてるけど、とりあえず涙の気配は吹っ飛んだし聞きの体勢にも入ってくれた。
俺は脳裏にあのべらんめぇな熊オヤジの豪快な笑顔を思い浮かべながら、軽く咽の調子を整え、憂うようにすっと目を細めて、近すぎてろくに見えないスマホの画面に『実の娘』の姿を幻視しながら、穏やかに語った。
「まぁ、なんだ。綾音が俺のことを好きだって想ってくれるのは、正直嬉しいぜ? あまりに嬉しすぎて、うっかり結婚申し込んじまいそうだ!」
「……うっかりで結婚申し込んじゃうのなんて、こたろーだけじゃないかなぁ……」
お黙れ、しのりん! 俺今恥ずかしさに耐えて超がんばってる所なの! お願いだから変な茶々入れないで!
俺の願いが届いたのか、それともようやく話の流れが見えてきたのか、詩乃梨さんは軽くふふっと微笑んでからスマホを眺める作業に戻った。
……もし、話の流れが見えた上でのこの反応、ということであれば、詩乃梨さんは俺と同じく、生温かい目の持ち主ということになる。
俺は詩乃梨さんに心を支えられているような気分になりながら、綾音さんに向かって一層気合の入った演技をお届けした。
「俺ぁな、本当は綾音のこと、『一生絶対嫁になんざ出さねぇぞ!』ってずっと思ってた。いつかどこの馬の骨ともわからんしょぼくれリーマンなんぞに穢されちまうくらいなら、『いっそ俺が綾音を……っ!』、なーんて、そんなことまで考えちまう始末だ。……ほんと、悪ぃな。こんな肥溜めから生まれたようなキング・オブ・クソなくされ外道のダメ親父でよ」
『……………………こたろうくん、どさくさで、パパのわるぐち――』
「でもよぉ! 俺ぁ娘にどんだけクソだと思われてもよ、やっぱ娘のことがかわいくてかわいくて仕方ねぇんだよ! もし万が一、箱に入れてたいせつに育て上げた成人間近の娘が『パパのお嫁さんになりたい』って言ってきたらよぉ、俺ぁ倫理だの世間の目だのンな俺以上にクソみてぇなモンは丸ごと宇宙の彼方にブッ飛ばして、『俺がどうすりゃ綾音は本当に幸せになれるのか』ってことだけ考えて自分勝手にわがままにやりたいようにやらしてもらうぜ! ヒャッハー!」
「……ひゃっはーって、たぶんマスターさんは言わない……」
お黙れぇい小娘! 俺もそう思うけど仕方ないじゃん、出ちゃったもんはさぁ! もう演技は終わりだ! 伝えたいことはもう言い終えたっ!
俺は顔から火が出そうな思いを咳払いで誤魔化して、土井村琥太郎としてのまとめを告げた。
「……というわけで、田名部善吉くんは、きっと綾音さんの気持ちに対して、真摯に向き合ってくれるのではないかと思うぼくなのでした。……少なくとも、綾音さんにガチの告白されたからって、倫理がどうのこうの言い出して突っぱねるとか、高熱出してぶっ倒れて店休むとか、そういう事態にはならないよ。たぶん」
たぶん、だけどな。あくまでたぶん、ではあるけど。俺はあのおっさん、わりと信じてるからよ。きっと、まぁ、大丈夫だ。
「もし、おっさんが綾音さんの感情を蔑ろにして道理を優先するようなことがあれば、俺に言え。俺があのヒゲダルマの顔中の毛引っこ抜いて成敗してやるからよ。……それに、俺ぁな、たとえお前ぇら親子が人の道に外れて禁断の愛に走ろうとも、絶対に――『友達』、辞めねぇからよ」
……だから、まあ、あれだよ。
「……世間の目を気にする暇があるなら、俺と……詩乃梨さんの、生ぬる~い目でも見に来いよ。缶コーヒーくらいなら、いつでも奢ってやるからよ!」
綾音さんには見えないだろうけど、わざとらしいほどに元気と自信に満ちあふれたにっかり笑顔を浮かべてやった。
俺に続けて、勝手に俺と一緒に生温い目連合のメンバーにされた詩乃梨さんが、不満を言うどころか大満足したみたいにむふっと鼻息を漏らした。
「……あやね、わたしの話、いっぱい聞いてくれたから。……わたしも、あやねが話したいことあったら、ちゃんと聞くからね?」
俺達の、生温~い光線にアテられて。綾音さんは、しばしの沈黙の後に、とても愉快そうに吹き出した。
『……ふ、ふっ、く、くふっ、ふ、ふう、あ、はっ、あ、あはっ、あはは、あははははははははっ! すっごい! すっごい似たもの夫婦がいるぅ! なにこれすごい! 運命ってすごい! さすが十年越しに再会した相思相愛の二人! なにこれおっかしぃー! あっははははははははは!』
メルヘンあやのんってば、そのネタまだ引きずっていらしたの? ちょっと変なこと言うのやめてくださる? なんか詩乃梨さんが全身をぎくりと固めちゃったじゃない。詩乃梨さんにとって初恋の人関連の話題は俺に言っちゃダメなやつ扱いになってるので、あんまり無闇につっつかないでくださーい!
笑い転げる綾音さんに、俺は呆れの溜息を吐き付けた。
「おい、笑いすぎだろ綾音。あんまり騒いでるとおっさんか奥さんが見回りに――」
『――おい、綾音。お前ぇ、ひとりでなんかやたら楽しそうだけど、なんかあっ――』
――ぶつん。……つー。……つー。……つー。……つー……。
「……………………………………」
少しディスプレイを離してみれば、そこには通話終了の文字。
「……まあ、あんだけ盛大に笑い転げてれば、そうなるわな……」
俺は何だか激しい疲労感に襲われ、ディスプレイを持っていた手と詩乃梨さんの頭に添えていた手をだらんと脱力させて、詩乃梨さんに覆い被さるように体重を預けた。
詩乃梨さんは俺を押し退けようともせず、ちょっと物思いに耽るような声で問うてくる。
「こたろーは、あやねの気持ち、知ってたの? ……マスターさんのこと、ただ好きなだけじゃなくて、えっと……おとこの人として、好きなんだって」
「……まあ、別口からある程度情報はもらってたからな。想定の範囲内ではあった」
「……………………べつくちって、マスターさん?」
「黙秘権を行使します」
黙秘権という名の肯定。俺はちゃんとおっさんのプライバシーを守りながら、詩乃梨さんに対して通すべき筋を見事に通してみせました。俺ってば冴えてるぅ!
冴え渡る俺は、詩乃梨さんの様子になんだか寂しげなものが含まれていることに気付いてしまいました。
「……詩乃梨さん、なんか落ち込んでる? 悩みあるなら俺に何でも言いなよ。今度は綾音さんの物真似で相談に乗ってあげようか?」
「……こたろー、ものまね、ハマったの?」
「ちょっと癖になりそうではある。おそらくそれは悪癖だけど」
……本当に、悪癖だ。自分が相手に伝えたいことを、他人の皮を被って代弁させようなんて、そんなずるいやり方が習慣化してしまったら、俺は誰にも本当の自分を見せることも見てもらうこともできなくなってしまう。
「……まあ、物真似は今回限りの非常手段だな。おっさんと綾音さんに、後で謝っとかないとなぁ……。あ、それにケーキのお礼もしなきゃだった」
「けーき?」
お、詩乃梨さんがちょこっと元気になったお顔で俺を見つめてくれてるぞ。ケーキってやっぱりすごい!
俺は苦笑しながら、詩乃梨さんから身体を離して、役目を終えたスマホを差し出した。
「今日のケーキはすげぇぞ? なんたってホールだからね、ホール。コロッセオみたいな円形のやつ。しかも、余り物の果物やチョコの切れ端なんかを良い感じの見た目でぶっこんでくれた、土井村琥太郎専用メニュー・通称『いつもの』の超絶豪華版。やべーな、あんなんどこの店探しても売ってないよ?」
「いつもの? いつもこたろーくんは、そんな豪華なものを召し上がっていらっしゃるのですか? ですか? か?」
「い、いや、だからそれの豪華版なんだってばよ。そんな無駄遣い咎めるような目で見んといて? ね?」
詩乃梨さんはしばらく俺をじーっと睨んでいたが、やがて奪い取るようにスマホをぱしっと受け取り、ぷんぷん怒ったような演技をしながらこたつへ向かった。
「こたろーはいっつもおいしいものいっぱい食べてるので、今日はわたしがちょっと多めにもらっちゃおうと思います! ……………………いい、かな? やっぱり、だめ?」
演技を最後まで貫けず、俺を振り返ってちょっと媚びたような仕草でおそるおそる問いかけてくる詩乃梨さん。
その愛らしさがたまらなくツボに入って、俺はにやにやしながら、再度缶コーヒーの湯煎を始めつつ答えた。
「食えるなら食ってみるがいいさ。なんてったってホールだからな、一回だけじゃ絶対食い切れないぞ」
「……………………食べられたら、食べていい?」
「食べられたらね。……あ、ごめん、やっぱダメ。ほどほどにしといて」
「……なんで?」
ちょっぴり情けない顔で疑問符を投げかけてくる詩乃梨さんを、俺はわりと真剣な目で眺めながらぽろりと呟く。
「……丸っこい、詩乃梨さんか。……アリはアリなんだけど、正直、俺今の詩乃梨さんの体型が好みなので、できればそのあたり考慮していただけると――」
「食べ過ぎはよくないね! ほどほどが一番だね、うん!」
「………。いや、やっぱり食べてもいっぱい運動すれば問題ないんじゃないかな。そう、例えばベッドの上で――」
「こたろーのへんたいばかすけべ! ……………………きょ、きょうは、待って。……股が、まだちょっと……いたい、から……」
………………………………。
硬直、する、俺の、目の、前で。
詩乃梨さんは、頬を染めて俯きながら、廊下と居間を区切るドアを、ぱたん、と静かに締めたのだった。




