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四月二十五日(火・続7)。幸峰詩乃梨はあほである。

 ブラック労働時代だったとか、半死半生だったとか、そんな風にラベルだけ貼って海馬の奥底に封じ込めていた過去。それをこんなに詳しく思い返したのは、あの先輩がいなくなってからは初めてのことかもしれない。


 閉じ込めた期間は、十年近く。なのに、語るのに要した時間は、ほんの十数分。こうして吐き出してしまってみれば、なんであんなに長いこと触れるのを怖がり続けていたのかと、間抜けで拍子抜けな心境が頭の芯まで浸透していた。


 俺は、魂まで抜けたようなふわっとした溜息を吐いて、詩乃梨さんを抱き締め続けていた腕からようやく力を抜いた。


 俺の両腕はだらりと垂れて。しかし、詩乃梨さんは俺の胴体に回した腕の力を緩めない。


 彼女の腕はとても華奢で、込められている力も決して強いものではない。けれどやはり、俺にとっては、特殊超合金製の命綱のような頼もしい腕に感じられた。


 ……ああ、そうか。俺があの時代を思い返してもこんなに冷静でいられるのは、この腕のおかげで、この女の子のおかげなんだ。


「……詩乃梨さん。話、終わったよ」


 半纏を頭からかぶったままの詩乃梨さんの、背中をぽんぽんと叩きながら優しく告げた。


 けれど、詩乃梨さんは無反応。一言も発さず、微動だにせず、ただただ俺を抱き締め続ける。


 ……えーと。……あ、そっか。まだトラウマスイッチについての話してなかったな。むしろそれを話すのがメインだったはずなのに、なんで暗黒時代の暴露なんてしてたんだろう。


 俺は改めて、隣り合って座る彼女の、頭の辺りを半纏越しにゆるゆると抱き締めた。


「……俺は……、『こたろうなんかどうでもいい』なんて、面と向かって言われたことはないよ。これは、嘘じゃない」


 随分間が空いてしまったが、彼女が発した問いにようやく答えることができた。


 詩乃梨さんの腕が、ぴくりと震えた。


「…………………………うそだー……」


「ほんとだー。……面と向かって言われたことがないのは、本当だよ。……俺が勝手に、『ああ、そうなんだろうな』って、相手の態度から推測して、そう思い込んじゃっただけ。要するに、ただの被害妄想なのよね。ちょーウケる」


「………………うけねーよ、ばかこたろー……」


 詩乃梨さん、おこである。激おこである。ぷんぷん丸である。そのうちファイヤーしそうな勢いである。


 俺は荒ぶる雷龍さんに丸焦げにされたくはないので、軽く天を仰ぎながら言葉を探した。


「……やっぱり、被害妄想、としか言えないよ。俺が勝手に信じて、勝手に裏切られた気になってるだけだもん。ネタにする気で大企業受験してうっかり受かっちゃった、っておもしろ話に友達がろくに反応返してくれなかったとか。仕事なんかより俺の身体を優先してくれると思ってた母さんが、俺のことなんてガン無視で正論しか言ってくれなかったとか」


 ネタなんだから、笑って欲しいと思ってた。でも実際はほぼスルーされた。


 相談してるんだから、心配してほしいと思ってた。でも実際は怒られただけだった。


「その辺りはまあ、まだマシだけどさ。あれだけ俺を痛めつけてきた先輩が相手でも、ちょっと優しくされただけで『この人は、実は良い人なのかもしれない』とか勝手に思い込んじゃったりさ。あとは内定の電話くれたお姉さんのことも、ちょっと優しくしてくれただけなのに、『この人はきっと女神に違いない』とか勝手に思い込んじゃったりさ」


 便と尿が血に染まるほどにいびられ続けても、少し微笑まれるだけで、俺はまた先輩に馬鹿みたいな幻想を抱く。懲りず、学ばずに、何度も、何度も。


 俺の事なんて電話終えて三秒で忘れているであろう、会ったこともないお姉さんに、俺は馬鹿みたいな妄想を抱く。抱いて、信じて、縋って、……そして、結果的に裏切られた。裏切りなんかじゃなかったけど。……裏切りなんて、上等な代物じゃ、なかったけど。


「……親友だと思ってたやつが、俺に何の報せもないうちに、結婚して子供までいたとかさ。……帰省する度に、『やっぱり辞めなくて正解だっただろ』とか言ってくる、母さんや父さんとかさ……」


 結婚するからって、俺にわざわざ報せなければならない義務などない。


 実際辞めなくて正解だったのだから、両親の言っていることに間違いなどない。


「………………俺が、みんなに、『こういう反応をしてほしい』とか、『こういう人であってほしい』とか、自分勝手な幻想を押しつけてただけでさ。……相手が実際そういう反応を返してくれなかったとか、そういう人じゃなかったからって、それは別に、相手を責めるようなことじゃないだろ」


 悪いのは、みんなじゃない。みんなは、俺が関わろうと関わるまいと、最初からそういう個性を持った人達だった。


 そういう個性を持った人なのだということを見抜けずに、全く見当違いな理想を自分勝手に押しつけていたのは、誰だ?


 ――本当に悪いのは、誰だ?


「……だから、俺が、悪いんだよ。……最初から最後まで、ぜーんぶ、俺の独り相撲。……ばかくせー。……悲劇の主人公気取ってる自分とかもいて、ほんと馬鹿臭ぇ……」


 ……こんなちっちゃな女の子に、腐りきった鬱憤や懊悩をなんもかんもぶちまけちゃってる俺とか、ほんと馬鹿臭すぎて。


 死ねよ、お前。


「………………………あぁ……。……死にてぇなぁ……」


 仰いだ夜空が、きらきらと輝き出す。


 気付けば、涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。


 目頭が、灼けるように熱い。鼻の奥も、じんじんと霜焼けみたいに腫れている。


 喉の奥が、震えていた。震えながら、情けない音を垂れ流していた。


 嗚咽。


 大の男が。もうすぐ齢三十になろうという、いい年した男が。自分で気付かないうちに涙と泣き声をダダ漏れさせて、まだまだ子供と呼んでいい年齢と体躯の女の子に縋り付いている。


 汚ぇ過去を、洗いざらいぶちまけて。くだらねぇ想いを、丸ごと全部暴露して。死にてぇって言いながら、ちっちゃい女の子を力いっぱい抱き締めてる。


「……あぁ、あ、あ、ぁ、っあ、あ、あ……」


 だらしなく開いた口からは、もう意味のある言葉なんて出て来ない。俺の肺や咽や横隔膜は、しゃくり上げて泣き続けるためだけに存在する奇異で醜悪な器官と化していた。


 頭が、真っ白だった。


 夜の闇が、白く染まっていく。


 眼が見えない。前が見えない。何も、聞こえない。自分の嗚咽すら、どんどん、どんどん、遙か彼方へ遠ざかっていく。


 俺は、音も色彩も無い、地平の彼方まで続く雪原のような白一色の世界に、ぽつんと独りで佇んでいた。




 そんな、俺を。強く抱き締めてくれる、女の子がいた。




「こたろーは、泣き虫だね」


 俺の胴体に回された細い腕が、ぎゅーっと、きつく締められた。


「こたろー、ほんと泣いてばっか。ご飯食べて泣いて、えっち怖がられて泣いて、寝ながらも泣いて、起きてても泣いて。ほんと、いつか絶対干からびるよね、この人」


「………………おれ、ここ何年か、ずっと、泣いて、なかったよ……」


「へー。ほー。うっそだー。わたし、泣いてるこたろーばっか見てるもん」


「………ほんとに、涙、もう、枯れてた、から。……期待なんて、何も、してなかったから。……だから、ずっと、裏切られないで、すんでた。……ずっと、泣かなくて、すんでた」


「ははぁ。じゃあ、なんで今はなんでそんなに泣き虫になっちゃってるのかなー?」


 詩乃梨さんは、俺の胴体を揉むように腕の力を入れたり抜いたりしながら、からかうように問いかけてきた。


 俺は、熱い吐息を夜空に吐き出しながら、決壊した心の亀裂から、本当の本音を引きずり出した。


「………………俺は、詩乃梨さんに、期待した」


「きたい。なにを?」


「…………俺を…………、俺を、『裏切らない』で、いてくれるんじゃないかって。……詩乃梨さんなら、俺の気持ち、全部、受けとめて、くれるんじゃ、ないかって」


「へー。こたろーくんは、自分よりとっても年下の女の子に、『死にたいって想いを受けとめてほしい』なんて、すーっごい無理難題をこなしてくれることを、うっかり期待しちゃったわけだね?」


 ……そう、なる、ね。……受けとめてほしい、って。受けとめてもらえるんじゃないか、って。詩乃梨さんなら、そうしてくれるんじゃないか、って。そんな勝手な期待をしたから、俺はこうして、言葉も涙も何もかも洗いざらいぶちまけてしまっているのだ。


 …………………ガキは、俺じゃねぇか。こんなの、クソガキが親の庇護を期待して癇癪起こしてるようなものだ。護ってもらいたい、庇ってもらいたい、慰めてもらいたい、甘えさせてもらいたい、そんなガキそのものみたいな幼稚で原始的で安直な欲求に突き動かされて、俺はこうして泣き喚いている。


『こたろーは、わたしが護る』。『こたろーは、なにも悪くない』。『こたろーは、きっとまだがんばれる』『こたろーがつらくて泣いちゃった時は、わたしがうんと甘えさせてあげる』。


 そんな甘ったるくてヘドが出そうな言葉を、心から期待した俺に。


 詩乃梨さんは、そのどれでもない、全く予想外の台詞を放ってきた。




「死にたいなら、死ねばいいんじゃないかな?」




 それは、突き放すどころか、奈落の底へ突き落とすような言葉。けれど、俺の心はむしろふわふわと浮き上がっていた。


 だって、詩乃梨さんの声。すごく、すごく――嬉しそうだった。今まで彼女が発した台詞の中で、一番なんじゃないかってくらいに、とっても嬉しそうな声音だった。


 詩乃梨さんは、俺の胴体に回してた手を解いた。空いた手で俺の抱擁も無理矢理に解き、ついでに半纏も頭から外して「ぷはっ」と顔を上げる。


 彼女の顔に浮かぶのは、咲き誇る満開の桜のように可憐な笑み。


「こたろーがどーしても死にたいって思うなら、わたし、止めないよ。むしろ、全力で応援する。がんばれ、こたろー! ふぁいとだー、いけー! って」


 なんぞそれ。どういうこっちゃ。予想の斜め上どころか異次元から回答を引っ張り出してきおったぞ。でもしのりんとっても嬉しそうなので、俺もやっぱり嬉しくなっちゃう。


 嬉しいけど、ちょっと彼女の思考の経路がわからない。


「えーと。なして詩乃梨ちゃんは、崖っぷちに立つ俺の背中を笑顔で蹴り飛ばすんだい?」


 詩乃梨さんは、いそいそと半纏を羽織りながら、きょとんとした顔で口を開いた。


「こたろーが、そうしてほしいなら、そうするってだけだよ? わたしだって、意味無くわざわざそんなことしたくないよ。そんなことより、こたろー、コーヒーちょーだい」


 半纏にくるまってぬくぬくしながら、詩乃梨さんはずいっと小さな手の平を差し出してきた。


 そんなこと。俺の命、コーヒーに完敗です。


 俺は苦笑しながら、ベンチの端に追いやっていた缶コーヒーを二本とも手に取り、一方を軽くちゃぷりと揺らしながら掲げてみせた


「ほい、どーぞ」


「ありがと。……………………む、ぬるい」


 詩乃梨さんは缶コーヒーを両手で包み、眉を顰めて唸った。それでもカフェインの誘惑に勝てなかったのか、ぷしりとプルタブを開けてくぴりと一口啜る。


「……………………むー、ぬるい……」


「……そんなぬるいなら、もう一回あっためようぜ? 部屋戻ろうよ」


「……ん。そだね。そうしよっか」


 詩乃梨さんは小さく微笑み、軽く勢いを付けてベンチから降りた。


 ふわりと翻るプリーツスカート。ふわりと香る、詩乃梨さんの匂い。


 半纏越しに小さなお尻をぼんやりと見守る俺に、詩乃梨さんは背を向けたまま夜空を仰いで言い放つ。




「わたし、こたろーが死にたくなったら、一緒に死んであげるからね! いつでも気軽にお声をかけてくださいなっ!」




 ………………………………………………………………。


「まじか」


「うん。まじ。おおまじ。まじでガチ。……いやだった?」


「え、いやいやいや、嫌っていうか、ね? こういう時は普通『弱音吐いちゃだめだよ! 頑張って生きてればいつかきっといいことあるよ!』みたいにクソの役にも立たない希望的観測で慰めるものではないのかね? なぜに喜び勇んで心中希望しちゃうのかねチミ?」


「『くそのやくにもたたないきぼうてきかんそく』での慰めって、こたろーはもらってもうれしくないよね? じゃあそんなのただのごみじゃん。ごみは、きちんとくずかごへどーぞ」


 詩乃梨さんは、缶コーヒーを瀕死の月に向けて掲げてキラキラ光らせて遊びながら、一切の遠慮も躊躇を含まない声音でさくっと断言した。


 ……おい。まじか。俺が抱いた勝手な期待なんぞ軽くひとっ飛びして、とんでもねー答えを返してきたもんだなおい。


 幸峰詩乃梨、まじパねぇ。俺如きの理解なんて到底及ばない高みに達していらっしゃる。


「……………………く、くく、くくっ」


 やばい。面白い。底が知れない。なんだよこの子、マジおもしれぇ。器がデカいんだか考えがズレてるんだかわからんけど、こんなあほな子そうそういないぞ?


「……こたろー、なんかわたしのことバカにしてない?」


 詩乃梨さんはこちらを振り向かずに、不機嫌そうに呟いた。


 俺はひとしきり笑ってから、はふっと溜息を吐いて背もたれに体重を預けながら間の抜けた声を返す。


「バカになんてしてないよ。今、詩乃梨さんに惚れ直してたとこ。……惚れ直したっていうか、好きだと思う箇所が増えた感じ?」


「……………………ふぅん? ……なら、いいや」 


 詩乃梨さんはようやく掲げていた缶を下ろし、ゆっくりとこちらに振り返った。


 こちらに、缶コーヒーと人差し指をずびしっと突き付けてきて。彼女は、燃え上がる照れくささを意地の悪そうな笑みの裏へと隠して、めちゃめちゃに上擦った声で宣言した。


「もっと、いっぱい、惚れるところ、あるからね。こたろーごときじゃ、一生かかったって、全部見つけるのは不可能なんだからね! まー、せーぜーがんばってさがすがいいさ! ……………………………………なっ、などと、ようぎしゃははきょうじゅつしており……」


 勢い! 勢い最後まで頑張って! 恥ずかしいこと言ってる自覚に途中で押し負けちゃって急にヘタれて小ネタ挟んでくるとか、何これ俺まで恥ずかしくてたまらないよ!

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