四月二十五日(火・続5)。親鳥と雛鳥(後)。と、重き想いは重くない。
俺が少しだけ開いている口に、詩乃梨さんの固く閉ざされた小さな唇がほんのちょっぴり押し込まれてきた。
形だけ見れば、俺だけ舌出す気満々のディープキス体勢で、詩乃梨さんは舌なんて絶対ヤダと言わんばかりのソフトキス体勢という、どうしようもなく気持ちが擦れ違ってしまっているカップルのような格好。でも俺と詩乃梨さんの心は、ひとつの偉業を成し遂げるためにしっかりと重ね合わされていた。
だから俺は、詩乃梨さんのやわらかい唇を覆うように、己の口を大きく開いて吸い付いた。
俺の口の中で、詩乃梨さんがゆっくりと唇を開いていく。彼女の動きは正におっかなびっくりといった様子で、俺の肩に置かれた小さな手にも緊張の強ばりが漲っていた。
やがて。詩乃梨さんの口の中から、舌ではない感触が、俺の口内へと流れ込んできた。
詩乃梨さんの唾液に存分に漬け込まれた、スライスされたレバーの一切れ。予想より遥かに原型を留めていたそれを口移しでしっかりと受け取って、俺は詩乃梨さんの唾液が互いの口の間から零れないようにと、少し強めに詩乃梨さんの唇へ吸い付いた。
詩乃梨さんは俺の意図を察してくれたのか、俺にタコみたいに吸い付かれてもすぐに逃げ出すことはせず、ゆっくりと顔を離していった。
俺の口の間から、詩乃梨さんの唇が抜かれていって、最後にちゅぱっと水音を立てて接吻が終わる。
十分に距離を取った詩乃梨さんは、恥ずかしさで泣き出しそうな顔で唇に力を込めたり抜いたりしながら、ふて腐れるようにじっとりとした眼で俺を見下ろしてきた。俺の肩を掴む手にも、つねるみたいにぎゅーっと力が込められてくる。
俺はあえてそれらを無視し、詩乃梨さんがくれた唾液とレバーに己の唾液を絡ませながら、もぐりもぐりと咀嚼した。
十分に噛んでから、ごっくんと嚥下して。
俺は、はぁっと恍惚の溜息をつき、心の底からの感想を述べた。
「……詩乃梨さんのお味がして、とても美味しゅうございました……」
詩乃梨さんの手料理を、詩乃梨さんに口移しで食べさせてもらう。なんという贅沢なのだろうか。欲を言えば、詩乃梨さんがもっとよく噛んで大量の唾液でどろっどろにしてくれたものを頂きたかった所だが、流石にそれは行き過ぎた願望だろう。
詩乃梨さんは俺の言葉を聞いて、ますます頬の赤味と不機嫌さを増していきながら、俺の肩から手を離して殊更行儀悪くどすんとあぐらをかいた。
「こたろーってさ……、ほんっっっっっっとーに、わたしのこと好き過ぎだよね……。なんなの、そのありえないほどの愛情。わたし、そんなにこたろーに愛してもらえるようなこと、なにかした?」
「俺に生きる希望と処女をくれた」
「………………………………ぶっとばしていい?」
俺がせっかく爽やか極まるイケメンスマイルで即答してあげたというのに、詩乃梨さんってば胡乱な目つきでバイオレンス宣言。
だけど俺は、たとえどれだけボコボコにされようとも、今の発言を撤回するつもりはない。笑顔を引っ込めて、真剣な眼差しで詩乃梨さんを見つめながら解説を付け加えた。
「俺は……、ここ一年くらいは、屋上で詩乃梨さんと会うことを一番の楽しみにして生きてたよ、本当に。……俺、趣味無いし、友達少ないし、女っ気も当然のようにゼロだから、生きてても楽しい事なんてあんまりなかったんだよね。精々、まほろばでおっさんとじゃれ合いながらお茶するとか、たまに散財して高い家電買うとか、そんくらいかな」
「………………わたしとの関係って、そんなに楽しみに思ってもらえるようなもの、だったっけ? わたし、こたろーに迷惑しか、かけてなかった気がするんだけど……」
ちょっとばつが悪そうな顔をする詩乃梨さんに、俺は静かに首を横に振って見せた。
「迷惑なわけないだろ。外も中も自分好みな女の子のお世話をあれこれ焼いてあげられて、それを全部きちんと受けとめてもらえるんだぜ? 俺の心の中は、パラダイス通り越してヘヴン状態だったよ」
「………………………ふぅん……?」
詩乃梨さんはまだ納得がいかないようで、あぐらをかいた脚に手を突いて、とても不思議そうな顔で首を捻った。
捻って捻って、ふと何かに思い当たったように『あっ!』と声を上げる。
「こたろーってさ。自分が『大好きだー!』って思ってた相手に、『こたろーなんかどうでもいい』とか言われたことあるの?」
………………………………。
「なんだか、いきなりだね。そんなの言われたこと無いけど、どうしてそんな?」
何でも無い風を装って微笑みを浮かべながら。しかし、俺の心臓は氷柱でもブッ刺されたみたいな悪寒と激痛に見舞われていた。
『お前なんかどうでもいい』と、面と向かって言われたことは一度たりとも無い。なぜなら、そんな捨て台詞すら必要だと思われないほどに、俺はみんなにとってどうでもいい存在だったから。
……悪いのはみんなじゃない。みんなを好いて、勝手に信頼を寄せて、一方的な感情を押しつけていたのは、俺の都合で、俺の瑕疵だ。誰かを恨むのはお門違いの筋違いで、恨むべきは、憎むべきは、己の馬鹿さ加減と浅ましさ。
やっべ、ゲロ吐きそう。気分重い。泣きそう。ほんっと、この辺りの話って俺にとって地雷だな。気を抜くと、まーた『どうせ詩乃梨さんも俺のことどうでもいいとか思ってんだろ』なんてこと考え始めちゃいそう。
……もし本当に、詩乃梨さんが、そう思ってて。俺が詩乃梨さんのこと好き好き言いまくるもんだから、同情や憐れみで、こうして一緒にいてくれてるだけだとしたら。
俺の人生は、終わる。
「――こたろーくんが、わたしに、嘘をつきました」
底なしの汚泥に沈み往く自我が、愛しい少女の幼い声によって救い上げられた。
詩乃梨さんは呆れ返った目で俺を睨め付けながら、両腕を大仰に組んでフンッと不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「やっぱり言われたことあるんじゃん。どうして無意味な嘘つくの? わたしに嫌われてもいいの?」
……詩乃梨さんに、嫌われる?
嫌われたら……俺は……、俺には、もう、何も、残らない。
じゃあ、嫌わないでくれって、泣きつくのか? 泣きついたとして、それでもし詩乃梨さんの心を繋ぎ止められたとしても、それってただの同情だよな。
やさしい女の子の、やさしさにつけ込んで、やさしさを踏みにじって、やさしい嘘をついてもらって。
それでお前は、満足なのか?
「……嫌いたいなら、嫌ってくれよ。俺、元から詩乃梨さんに好いてもらえるような人間じゃ――」
「えっち、しよっか? 今すぐ。ナマで。一晩中」
「――おいそれどういうことだってばよ!? なんでこの流れからいきなりそんな話になっちゃうの!?」
なぜえっち。いやしたいけど。したいけど今はちょっと勃たないですよ流石にしかし。でもしのりんがお口で優しく刺激してくれたらたぶん否応無しにバベルの塔がそそり立つ。
けれど詩乃梨さんは全然えっちしてくれなさそうな冷めきった目で俺を睨んでいらっしゃいます。バベルの塔、建造前に崩壊です。
「こたろーのそれさ、なんなの、ほんとに。トラウマのスイッチが目に見えるレベルだよね。ほんと何あったの? お姉さんに話してみ?」
「お姉さんて。貴女俺より干支一周分くらい年下よ? そんな子に、俺のしょーもない被害妄想とか変に重苦しい想いとかをゲロみたいにぶちまけちゃうわけにはいかんでしょこれ」
「そんなの今更じゃん。『きみに捨てられたら俺は自殺する』とかきっぱり宣言した人が、今更何気にしてるの?」
―――――――――――。
「え?」
「『え?』じゃなくて。お風呂入る時にそう言ってたじゃん。冗談ゼロぱーせんとの、本気百二十ぱーせんとな声で。だから重苦しい想いぶちまけるとか、今更すぎるほど今更なのでそんなの気にしなくていいのではないでしょーか」
詩乃梨さんはあぐらをかいた脚に手を引っかけて、身体をゆーらゆーら前後に揺らしながら至極どうでもよさげな風で言葉を放ってきた。
……え、聞こえてたの、あれ? ……いや、正直、聞こえてくれてることをほんのちょびっとだけ願ってはいたんだけど、実際聞こえてたらあまりにもガチすぎてヤバいなって思って敢えて全力で考えないようにしてました。風呂から出てみても詩乃梨さんの態度普通だったから、てっきり聞こえてないもんだと思ってたんだけど……。え、この子、聞こえてた上での今までのあの態度だったの? というか、聞こえてた上でのこのどうでもよさげな態度なの?
混乱と戸惑いで言葉が出ない俺に、詩乃梨さんはゆらゆら揺れながら溜息を吐き付けてきた。
「だいたいさー。結婚してくれぇー、結婚してくれぇーって言うなら、隠し事は厳禁じゃないの? そもそも、お嫁さんにしたいって人に、『年下だから』って理由で、言いたいこと言わないのって、なにそれ? こたろーくんはほんとーに、幸せな家庭を築くつもりがあるのでしょーか。わたし、とっても不安だなー」
全然不安に思ってなさそうな投げ槍極まる態度だけど、それはこれ以上俺の気持ちが沈んでいくのを防ぐための彼女なりの気遣いなのだと、俺の心眼は見抜いてしまった。
俺の心眼は、さらに見抜く。詩乃梨さんが、同情や憐れみや野次馬根性で俺のトラウマを暴こうとしているのではなく、ただ俺のことを純粋に心配して話を聞いてくれようとしているのだということを。
……つまりは。俺の重い想いを知ってなお、詩乃梨さんは、俺のことを見限らなかったということになる。見限らなかったどころか、『そんな細けぇこたぁどうでもいいんだよ!』とばかりに、俺への好感度に一切影響無かったくさい。
じゃあ、ええと。うーん。むーん。
「……つまらない話になるけど、いい、です、か……ね?」
おそるおそる、問いかけてみたら。
詩乃梨さんは、和らいだ表情で、ふんっと鼻息を漏らした。
「いいよ。……あ、でもまず、ご飯食べちゃおうか。こたろーの話は……そだな、膝枕しながら、聞かせてもらおっかな?」
裸の膝をぺちぺち叩いて、詩乃梨さんは照れくさそうにはにかんだ。




