四月二十五日(火・続4)。親鳥と雛鳥(前)。
レバー。
肝臓のことである。
今日の食卓には、肝臓が乗っていた。それも、超、特大の。
「………………………………」
レバニラ炒めというものをご存知だろうか。レバーとニラを一緒に炒めた料理のことだ。顎の弱い人や嗅覚の鋭い人に優しくないレバーと、歯並びの悪い人や消化器系が弱い人に優しくないニラ、そんなやたらと人に優しくない二つの食材を用いているにも関わらず、味は抜群・栄養満点。食べた後は顎の怠さに患わされながら歯の隙間を爪楊枝でしーしーやり続けなければならないという呪いを受けることがわかりきっているというのに、ふと気がつけばまたおいしいおいしいと食べている。そんな悪魔の正餐、それがレバニラ炒めである(嘘)。
さて。ここでもう一度、こたつの上の大皿にででんと鎮座している物体を見てみよう。
肝臓である。
レバーと呼べるほどに料理的な見た目ではなく、レバニラ炒めと呼べるほどに彩り豊かではなく。
『肝臓』としか呼べない、猟奇的で彩り皆無な臓器の、通常より三回りも四回りも巨大なそれが、俺と詩乃梨さんの眼に映っていた。
「…………………………………」
俺、絶句したまま正座。これを用意した本人である詩乃梨さんも、何も言う事無く、同じく正座。
ご飯を持ち、箸を構えてはみたものの、この物体に手を付けることはひどく躊躇われた。
俺は食欲ではなく戦慄によってごくりと咽を鳴らし、山で行き逢った熊から目を逸らすことができない哀れな登山者のように、正面を向いたまま傍らの少女に問いかけた。
「なあ、詩乃梨。これはいったい、何なのかな?」
これに少女が、あざといはにかみ笑顔できゃぴるんっと答えて曰く。
「レバニラ炒めだよ? いっぱい食べてね。えへへー」
「……………………ニラ要素どこよ?」
「……レバーに食べられちゃったんじゃないかな……」
レバーに食べられた。ニラが。レバーに。食べられた。どういうことだってばよ。この肝臓、生きてんのか? やべぇ、まさに悪魔の正餐。未知。怪奇。雷龍さんは禁忌の呪法によって意志有る臓器を生み出し、それを調理して人の子の食卓に出しました。猟奇的。やばい。超やばい。
俺は再度咽を鳴らし、別の問いを投げかけた。
「これ、ちょっと、デカくない、すかね? このサイズは、流石に、ありえなくね? ……ねえ、これ、何の動物の肝臓?」
「……牛と、豚と、鶏と、あと……よくわかんないやつの、合成動物? あはっ!」
――合成動物。キメラ。キメラである。やはりこの雷龍、禁忌中の禁忌、生命創造方面に手を出していやがった……! それでいてこのまばゆい笑顔だと……? どうなってしまうんだ、この世界は……。俺、この世界も捨てたもんじゃねぇってようやく思い始めてた所だってのに! ちくしょうっ、ちくしょうっ!
なんて小芝居はこのくらいにしておこう。いや、ちょっとどころじゃないくらいに度肝抜かれちゃったけど、詩乃梨さんが作ってくれた料理という時点で、『食べる』以外の選択肢が俺の中には存在しない。
その選択肢、バッドエンドに繋がってないといいなぁ……。まあ、しゃーない。とりあえず、食べてみるだけ食べてみよう。
見た目は巨大なひとつの臓器なんだけど、実はこれ、薄くスライスされたレバーが『これでもかっ! これでもかぁっ! これでもかあああぁぁぁぁああっ!』ってくらいに山盛りになってるだけだしな。匂いもフツーにレバニラ炒め。薄味好きの詩乃梨さんにしては珍しく、しょうゆの焦げた香りの濃厚なヤツがふわふわと立ち上っている。
レバニラ炒めって、ほんと味と匂いは抜群に良いんだよなぁ。あとで顎怠くなる上に爪楊枝しーしーも確定なんだけど。まあ今回は爪楊枝要らなさそうだな。その代わり俺達のアゴは確実にくたばるだろうから、今日はしのりんとディープキスできないのとお口でしてもらうの不可能なのが確定。しょぼーん。
まあいいや。とりあえず、ある程度速攻で食って山を崩して、ほとばしる臓器感を無くそう。じゃないと詩乃梨さんがいつまでも怖じ気づいたまま餓え続けることになるし。
てなわけで。
「いただきまーす!」
「うん。めしあがれー」
俺が満面の笑顔で宣言してみせると、詩乃梨さんがようやくほっとしたような様子で自然な微笑みを見せてくれた。
俺は山の一番てっぺんの一枚を箸で挟み、ご飯を受け皿代わりにして口元へ持って行って、ぱくり。
「……あ、美味い」
美味い。詩乃梨さんが作ってくれたっていう心理的な作用によって美味しく感じるっていうのは勿論あるんだけど、今回はそういうことじゃなくて、純粋な味として普通にうまい。
詩乃梨さんメイドの野菜主体且つ薄味な料理にすっかり慣らされてた所に、このガツンと来る醤油ベースの濃いめの味付けと、確かなこりこりっとした肉の食感。やだなにこれうまい。精進料理を至高として崇め奉っていた僧侶がひょんなことから焼き肉屋に連れて行かれてじゅわっと焼いた味付きカルビを食べさせられた時みたいな感じ。僧侶は知ってしまったのだ、脂の乗った肉をさっと炎にくぐらせてからタレにちょちょいと付けて熱々なうちにぱくりと食べる、命あるもの殺生してを己の糧に変えることへの罪悪感を乗り越えた先にある至高の悦楽をっ!
「やべぇ、なにこれ。超うまい」
ひょいぱく、こりこりもぐもぐ。ご飯ももぐもぐ。ひょいぱく、こりこりもぐもぐ。ご飯ももぐもぐ。ひょいぱく、こりこりもぐもぐ。ご飯ももぐもぐ。ひょいぱく、こりこりもぐもぐ。ご飯ももぐもぐ。
そんな風に無心でひたすらひょいぱくこりもぐしてたら、いつの間にか山の半分くらいが綺麗さっぱり消えてることに気付いてはたと箸を止める。
「おっ……と。詩乃梨さん、全然食ってなくね? ほれほれ、食べなよ。うまいよこれ」
臓器感が無くなるどころか、このままだと丸ごと全部俺の胃の中へ消えてしまう勢いである。俺は口をもぐもぐさせながら、箸で大皿をちょいちょい差して詩乃梨さんに勧めた。
詩乃梨さんは、肉では無く箸を咥えながら、ぼーっと俺を見つめていた。どうにも心ここにあらずといった風情。
うーん? 俺なんかマズった?
「……あ、そっか。詩乃梨さん、なんか俺に文句言いたいことあるって言ってたっけ。ごめんね、それそっちのけで美味しいご飯ぱくついちゃって」
謝りながらも、俺の箸は再びレバーを一枚掴んで、口の中へひょいっと放る。いやだってこれうまいんだもん。やめられないとまらない。
こりこりもぐもぐしながら詩乃梨さんの反応を窺っていたら、詩乃梨さんがようやく目の焦点を俺に合わせて、ふっと柔らかく微笑みながら軽く首を横に振った。
「文句は、あとでいいいや。それより今は、これ熱いうちに食べちゃってよ。せっかく、こたろーのために作ったんだからさ」
「……俺のため? ……どゆこと?」
俺っていつも臓器を所望してるようなヤバい面貌してたっけ? いやレバーもホルモンもハツもミノも大好きなんだけどさ。……ああ、詩乃梨さんって普段肉ケチりがちだから、「たまにはこたろーにお肉たっぷり食べさせてあげよう」ていう心優しい気遣いの結果がこのキメラの臓物だったのかな?
と思ったのだけど、詩乃梨さんはとーっても照れくさそうな笑顔で、予想外の爆弾を放ってきました。
「こたろー、さ。……昨日いっぱい、あの……、白くてねばねばしたの、出したでしょ? ……レバーって、精力増強に良いらしいから……色んなレバーをこれだけいっぱい食べれば、こたろー、ちゃんと回復するかなー、って。……えへへ」
………………………………。
「……詩乃梨さん、もしかして、誘ってる?」
どう考えてもそうとしか取れない。俺の白いヤツが回復した端から詩乃梨さんの上のお口と下のお口に搾り取られていく未来が見える。もしかして今彼女が白いご飯を全然食べていないのは、俺の生み出す白いご飯待ちなのでしょうか。詩乃梨さんってば「こたろーの味がしておいしい」って恍惚の表情で仰ってましたものね。
でも詩乃梨さんはきょとんとした顔で首をふるふる横に振る。
「誘ってない、誘ってないよ。今日はこたろーを回復させる日なの。……こたろー、昨日寝てるときすごかったんだからね? もうずっと垂れ流し状態で、『この人ほっといたら干からびちゃうかも』って怖くなるくらいだったんだから」
……冗談を言ってる様子は、無い。どうやら詩乃梨さんは、至極真面目にそういう危惧を抱いたようだ。俺どんだけだよ。しかもキメラの臓物食べるまでもなく既に充填率八十パーセントくらいには回復してるんだけど、ほんとに俺どんだけだよ。
俺は自分の異常さを再確認して乾いた笑いを浮かべながら、詩乃梨さんを安心させるために優しく語りかけた。
「俺はそんな簡単に干からびたりしないよ。溜められる水の量も、生み出す水の量も、普通の人の三倍くらいあるから」
「……………………………………さん、ばい?」
あれ、安心させるはずがなぜか戦慄させてしまったぞ。これはちょっと言い訳しなければならんかね? でも事実なので言い訳を差し挟める余地皆無である。
俺は結局うまい台詞が見つけられず、詩乃梨さんから目線を外してレバーに集中することにした。一枚掴んで、ぱくりと食べて、もぐもぐこりこり。ああ美味し。でも流石にちょっと顎疲れて来たな、中途半端に休憩挟んだせいだろうか。
俺がちょっとゆっくりペースでもぐこりしていると、詩乃梨さんもようやく大皿に箸を伸ばした。伸ばしたのだが、それはなんだかばっちいものを掴むような掴み方で、しかも顔の前に持って行ったそれをしかめっ面で睨み付けたまま一向に食べようとしない。受け皿代わりのご飯に、ぽたりぽたりとタレが垂れて染みが広がっていく。
「……詩乃梨さんって、レバー、嫌いなの?」
「……………………よく、食べるよ?」
微妙に答えになっていない。でもよく食べはするのか。なんでそんな親の敵でも見るような目で睨まねばならん代物をよく食べるのやら――って、あー……、そっか。レバーって女の人には心強い味方でしたっけね……。あぶねー、変に突っ込んで訊く前に気付いてよかった。
でも、そっか。詩乃梨さんは、自分がすこぶる苦手にしている物を、俺のためにってことだけ考えて、無理を押してこうして用意してくれたわけか。
……ありがとな、詩乃梨さん。俺はほんと、すごくすてきな女の子を好きになったんだな。
なんて、温かい眼差しで見守っている俺の心中をどう曲解したのやら。詩乃梨さんはなんだか情けない顔でぐっと息を詰まらせて、渋々、しぶっしぶ、嫌っそーに、小さく口を開けてレバーを一口噛み千切った。
「……………………うぇぇ……」
ぎゅっと目を閉じ、くちゃくちゃやりながら、嗚咽にも似た呻きを漏らす詩乃梨さん。どんだけレバー嫌いなんすか貴女。
俺も、例しにもう一枚ひょいぱくもぐもぐしてみた。うん、やっぱ美味い。あ、ニラがちょっとくっついてた。ラッキー。
「……すげー美味いと思うんだけどなぁ……。何がそんなにダメなんだ?」
「…………もそもそした食感。……変な臭み。……あと、食べてると、あごがだるくなる……」
ああ、レバーが持つ暗黒面が全部受け付けないわけなのね。詩乃梨さんって普段野菜主体な上に薄味好きだから、レバーなんてただでさえ人を選ぶような肉は天敵みたいなものなんだろう。
ダメなのは、食感。臭み。あごの怠さ、か。
………………………………ふむん……?
「………………………………」
俺はくっちゃくっちゃ咀嚼しながら、ちろり、と詩乃梨さんの全身を眺めた。
格好は、俺が帰宅した時と全く変わっていない。三つ折りソックスにスカートにブラウスにエプロンに猫の尻尾。きちんと正座していたはずがいつの間にか猫背気味な女の子座りになっていて、ほぼ減っていないご飯とほぼ減っていないレバーを両手に構えながら、今にも泣き出しそうな顔でひたすらもぎゅりもぎゅりとレバーの欠片を噛み続けている。
もぎゅり、もぎゅり、もぎゅり。…………………………ごっ、くん。
「……………………ぷぁぁ……。………………もういいや。ごちそうさま」
「早っ!? ちょっと待ってよしのりん、貴女全然ご飯食べてないわよ!? お残しは許しまへんで! もったいないでしょーねーちょっと! 貴女いつもの倹約精神はどこに行ったの!?」
「どっか行った」
リアクションがすっごい雑だ!? ほんとにレバー嫌いなんだね、あぁた!
しのりんはこたつにご飯と箸をそっと置いて、両手を力なく膝の上で握ってぼんやりと大皿を見つめたまま、微動だにしなくなってしまいました。
……えぇ、マジでご飯終了くさいよ……? 俺の体調なんかより、貴女の体調が心配でたまらないよ……?
「……………………」
俺は、レバーをもう一欠片口に放り込んでくっちゃくっちゃやりながら、詩乃梨さんを横目に見つめて再度考える。
ダメなのは、食感。臭み。あごの怠さ。
………………………………ふむん。
「……………………………………………………………………」
……やるか? もし怒られたりドン引きされたりしたら、今日は枕を涙でズブ濡れにしよう。
俺は口の中の物を飲み込まないまま咀嚼を中断し、詩乃梨さんと同じようにご飯と箸をこたつに置いた。
「……こたろー? もうごちそうさま?」
詩乃梨さんがちょっと心配げな様子で問いかけてくる。
俺は首を横に振った。そして、床に拳を突いて身体の向きを変え、背筋をしゃんと伸ばした正座で詩乃梨さんに相対する。
詩乃梨さんは、不思議そうな顔で首を捻ってから、特に何も考えていない様子で、俺へ向かってちょこんと正座し直した。
パジャマ姿のおっさんと、幼妻スタイルの女子高生。正座で向かい合う、両者の間に。
くちゃり、と。殊更に大きな咀嚼の音が、響き渡った。
そして詩乃梨さんはひくりと口元を引きつらせる。
「…………………………こたろーくん。……まさか、とは、思うのですが」
「………………くちゃ?」
「………………………………いえ。なんでもありません。さすがのこたろーくんでも、きっと、たぶん、そこまでへんたいではないだろうと、わたしはしんじております」
「…………………………………………」
信じられてしまった。俺は詩乃梨さんの信頼を裏切ることなどできない。
終了。しょぼーん。………………想像以上に、しょぼーん……。
仕方無いので、俺は口の中のものをごっくんと飲み込んで、いそいそとこたつに向き直った。
再びご飯と箸を構え、緩慢な動作で黙々とレバニラ炒めを消化していく。
「……………………はぁ…………」
ついつい溜息が漏れてしまった。これはきっと、顎が疲れてきたせいだ。それだけだ。別に俺は気落ちなんてしてません。涙だって零れそうになんてなってません。零すのは寝る時までお預けなのです。
なんか瞳と鼻の奥が潤んでいくのを感じながら、俺は無心で箸を進める。
滲んできた視界の端で、詩乃梨さんが再びレバーを一枚持って行くのが見えた。どうやら、さすがにもうちょっとくらいは食べた方がよかろうと思い直してくれたらしい。よかったよかった。めでたしめでたし。
「こふぁろー」
「んー? なんすか姫様-」
丁度口の中を空にしたタイミングで声をかけられ、気の抜けた返事と共に振り向いた。
そこには、おっぱい。
……純白のエプロンを押し上げている、美しい膨らみ。いつまでも眺めていたいけど、あれっ、詩乃梨さんの愛らしいお顔はどこですのん?
「こふぁろー」
「はいはい、なんすか王女様-」
詩乃梨さんは何故か膝立ちになっていた。ちょっと目線を上げれば、そこには俺が見たかった愛しの姫様のご尊顔。
詩乃梨さんは、頬を赤く染めていて。その赤い頬を怒り以外の理由によって膨らませたまま、怒りを秘めたような瞳で俺をじーっと見下ろしていた。
彼女の口から、くちゃり、と。音が聞こえたような気がした。
「…………………………」
俺はご飯と箸をそっとこたつに戻し、粛々と詩乃梨さんに向き直った。
俺の両肩に、ぽん、と置かれる、詩乃梨さんの二つのお手々。
「こふぁろー」
「はい。ゴチになります。詩乃梨様」
俺は、口を半開きにして、顎を軽く持ち上げた。それはまるで、親鳥に餌をねだる雛鳥のように。
そして、詩乃梨さんは。恥ずかしそうに眼を細めて、閉じた口をぷるぷると震わせながら、ほんの少しだけ首を傾けて、自分の顔を俺の顔へと近付けてきた。
それは、まるで。雛鳥に餌を与える、親鳥のように。




