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四月二十五日(火・続2)。同じ穴の男。と、不条理な敗北?

 いつもより、ちょっと早めに仕事が終わって。自宅の最寄り駅で電車を降りた俺は、詩乃梨さんの元へ帰宅する前に、喫茶店『まほろば』へと向かった。


 営業している時間を少しばかり過ぎてしまっている。もしかしたら無駄足になってしまうかもしれないけど、でも、俺にはどうしても果たさなければならないひとつの使命があった。


 詩乃梨さんの、処女卒業のお祝い。それに相応しいプレゼントを、俺は用意したい。


 詩乃梨さんが目を輝かせて喜んでくれるようなプレゼントと言えば、そう、ケーキだ。俺の部屋でケーキを口にした彼女は、噛まずに飲み込めるようなふわふわの欠片を、いつまでもいつまでも、もーっちゃり、もーっちゃりと、恍惚の表情で堪能しまくっていた。


 お祝いに、ケーキ。常識的に考えても常道である。しかも詩乃梨さんがめさめさ悦ぶこと間違いなし。ならば俺が知る中で最も美味いケーキを用意してあげねばなるまい。


 ゆえに、俺はまほろばへと足早に向かう。もし営業時間を過ぎていたとしても、無理を言えばたぶん売ってくれると思う。


 俺は、おっさんや綾音さんを、一方的に信頼する。けれどその信頼はきっと、俺の独り相撲でも、感情の押しつけでもないはずだ。


 今の俺は、自然と、そう思うことができた。


「……………変われば、変わるものだな」


 あの、小さくて、幼くて、愛らしい、女の子が。どうしようもないほどに醜くて馬鹿臭かった人間未満な俺を、ひとりの真っ当な人間へと更正させてくれた。


 俺は涙が出そうなほどに胸が熱くなるのを感じながら、溜息を吐いて己を落ち着けた。


 そうしているうちに、程なくしてまほろばに到着。


 無駄に凝った似非木製ドアには、デフォルメされた兎に掲げられた『CLOSED』の木札。メニューの書かれたイーゼルと黒板も既に引っ込められており、完膚なきまでに営業時間終了を告げていた。


 玄関口からちょっと後退して、店の窓に眼をやる。


 締められたカーテンの向こうから漏れる、人口の光。そして、それを時折遮る、人の影。


「…………………………」


 居る。おっさんか綾音さんか、奥さんかはわからないけど、店にはまだ人が残っている。


 チャイムを押さずとも、玄関の扉を叩けば、それだけで、誰かが来てくれる。


 ……営業の終了した店に、個人的な無理を言うために訪ねる。拒絶されないだろうと思ってはいても、やはり、どうしても二の足を踏んでしまう。


 俺は少し深呼吸して、詩乃梨さんを思い浮かべた。そして、綾音さんと、あとついでにしょうがないからおっさんの顔も胸中に描いた。


「……………………うっし」


 大丈夫。きっと、大丈夫だ。


 俺は自分に何度も言い聞かせて、再びドアの前へと立った。


「いくぞ」


 己に向けて、力強く宣言。そして俺は、ドアをノックすべく、手の甲を正面に向けたままゆっくりと腕を振り上げていき――



「ふーん、ふ、ふんふん、ふふ、ふふ、ふー……………………。…………ふん?」



 突然、ドアががちゃりと開かれて。それを避けるために反射的に飛び退いた俺は、腕を中途半端に掲げてへっぴり腰とアホ面を晒しながら、ドアの向こうから現れた女性と見つめ合うことになった。


 女性の名は、田名部綾音。実年齢は十九で、大学二年生のはず。子供と大人のちょうど狭間に位置する彼女は、詩乃梨さんが持つ雷龍要素を抜いて甘みとエロスを濃縮したような、甘ぁい心とエロめの身体を持つ女の子だ。


 毛先に軽くウェーブのかかった、綿菓子みたいにふわふわの長髪。足下まで覆う丈長のワンピースや、その上から羽織った長袖のボレロは、程良くフリルがあしらわれていて、実に女の子らしい愛らしさに溢れている。そんなふうに全身から漂っている甘さを引き締めるかのように、腰には革製の無骨なベルトを締め、ワンピースからちらちら覗く足下もこれまた無骨なブーツで覆われている。


 甘みと、苦みを、絶妙な加減で兼ね備えた女性。そんな彼女が浮かべる微笑みは、初夏のバルコニーでケーキとコーヒーをまったりと楽しんでいるかのような、のほほんぽわわんとした気持ちを、見る者全てに与えてくれる。


 はずなんだけど。今は微笑んでないですね、彼女。ドアノブを掴んで押し開けた体勢のまま、俺を見上げてきょとんとした顔で硬直していらっしゃいます。


 俺は何事も無かったように居住まいを正し、軽くスーツの襟とか整えて、ごほんと咳払いをした。


「……綾音さん、こんばんは」


「あ、うん。こんばんは、琥太郎くん」


 綾音さんはドアが留まる所まで開け放ち、自由になった両手を太股に添えて、満面の笑みでぺこりとお辞儀をしてくれた。


 さすが挨拶フリーク綾音さん。どんな状況でもすぐさまにこにこ笑顔でご挨拶。


 でも笑顔終了。綾音さんはちょっと驚いたような様子で俺の間近までちょこちょこ寄ってきた。


「琥太郎くん、どうしたの? こんな時間に来るなんて。ていうか、平日にうち来たのなんて初めてじゃない?」


「あー、えっと、うん。そうなんだけど、ごめん、ちょっとだけ待って」


 俺は綾音さんに手の平を突き付けて待ったをかけた。


 疑問符を浮かべる綾音さんに、ちょっとだけ横に避けてくれるようにジェスチャーして、彼女が開けてくれたスペースから店内を覗き込む。


 ――探すまでもなく、俺が今話すべき中年オヤジが、すぐ側のテーブルを雑巾がけしながらこちらをじーっと見つめていた。


「よ、マスター。御機嫌いかが?」


 軽く手を上げてへらへら笑ってみたけど、マスターから返事はなし。いつものむっつり顔をこっちに向けたまま、手だけ動かしてテーブルの同じ所を何回も拭き拭きしている。


 ……う、うわぁ、やっぱ綾音さんと親しげな感じで会話しちゃったから、怒ってるんだろうなぁ……。


「……………………………………」


 俺とマスターは、ひたすら見つめ合う。視界の端に映る綾音さんは、ちょっと困ったような顔で俺とマスターをきょろきょろと見比べていた。


 マスターが何も言ってくれないので、俺はとりあえず、視線で綾音さんに『大丈夫だから、落ち着いて』とアイコンタクトを試みた。


「……ほんとに、大丈夫?」


 綾音さんすげぇ。俺のアイコンタクト完全に読み取って、胸元で不安そうに拳をきゅっと握りながらおそるおそる問いかけてきた。


 俺が首肯で応えると、綾音さんは拳を開いて胸に当て、ほっと息を吐き出した。


 そんな綾音さんの愛らしい仕草についつい見とれそうになりながら、『でも俺は詩乃梨さん一筋ですのでっ!』と魔法の呪文を唱えて己を律し、再びマスターへと向き直る。


 マスターは、いつしか雑巾がけする手を止めて、完全に固まった状態で俺をじーっと見つめていた。


「…………ま、ますたー。ごっ、ご、ごきげん、い、いかが?」


 怖い。なんかマスターが怖い。睨んできてるわけじゃないけど、意図の読み取れない眼が得体知れなさすぎて怖い。


 内心冷や汗だらだら流しまくる俺に、マスターは「はんっ」と軽い鼻息を放ってきた。その鼻息が謎の圧迫感を霧散させ、平常運転に戻ったおっさんは両腕を大仰に組んで小馬鹿にしたように見下ろしてきた。


「俺ぁいつだって超ゴキゲンだぜ? ま、てめぇの顔見たら一気にテンションダダ下がりになっちまったけどな。で、今日はどうした? 会社クビになって俺を頼りに来たか? うちは面接私服でいいぞ、しょぼくれリーマン」


「しょぼくれてねぇよ。俺今人生で一番輝いてる時期だよ? そしてこれから一生俺のキラメキは留まることを知らないよ?」


「はぁー? きらめきぃー? どこどこー? ぼくにはみえないなー」


 なんだその棒読みと大根演技。遠くを眺めるように手を目の上に翳してとぼけ面できょろきょろ見回してやがる。ケツ蹴っ飛ばしたろか。


 俺は先程のおっさんと同じように、大仰に両腕を組んで「はんっ」と小馬鹿にした溜息を吐き付けてやった。


「あーおっさんの曇った眼じゃあ俺のキラメキは見えないのかもなぁー。俺今綾音さんと目と目で通じ合えてテンションうなぎ登りでうっはうっはでギンギンギラギラ輝きまくってるのになぁー?」


 俺が出任せで放ったジャブは、うっかりおっさんの心臓を止めてしまい。そしてなぜか、綾音さんの鼓動を一気に高鳴らせてしまった。


「こっ、こたろーくん、わ、わたしと、てっ、てんしょん、あ、あがっ、あがっ、ぎ、ぎらぎら、ぎらぎら! こたろーくんが、わたしを、ぎらぎらしためで、ねらってる!」


「待ってよメルヘンあやのん。私にはしのりんが居るので、貴女のことをギラギラした眼で狙ったりなんてしないわ。ごめんね、変なこと言っちゃって」


 俺は綾音さんの頭をぽふぽふと叩き、そのまま軽く撫でてあげた。


 綾音さん沈黙。沈黙、しながら、顔がみるみる沸騰していく。


 ……ああ、鋼鉄の箱入り娘でしたね、この子……。


「なあおっさん、ちょっと頼みあるんだけどいいか?」


 俺はゆーっくりと綾音さんから手を離し、これまでの一切合切を無かったことにするかのように平素極まる声をおっさんに放った。


 おっさん、手で日除けを作って俺を眺めたまま硬直中。おい、いつまで固まってんだ。箱入り娘うっかり触っちゃったのはごめんってばよ。お願い、スルーして。


 そんな俺の願いは届かなかった。


「……なあ、琥太郎」


「いきなりファーストネーム呼ぶなよ。なんだ善吉」


「……おめぇ、綾音のこと、どう思うよ?」


 …………………………。


『はぁ?』


 俺と綾音さんの声が重なった。俺は純粋な疑問符で、綾音さんのは素っ頓狂な驚愕の悲鳴。


 おっさんは思案顔で腕を組み、あごひげをじゅりじょりと撫でた。


「いやぁよ、おめぇ、綾音と随分仲良さそうじゃねぇか。まともに話したのなんざ、この間が初めてだとか言ってたくせによ。ありゃ嘘か?」


「嘘なわけないだろ。……あ、いや、外でばったり出くわした時とかに、軽く挨拶したりお辞儀したり、程度はしてたぞ? それくらい許せよ、鋼鉄の箱を織り上げしパパ上様」


「パパ上様ってなんだコラ。……はぁん。……ふぅん? ……綾音、それで合ってるのか?」


 俺の言葉に納得がいかなかったようで、おっさんは綾音さんに水を向けた。


 綾音さんはこれに対し、こくこくこくこくと高速で首肯。


「合ってる合ってる、すごく合ってる。琥太郎くん、外で私と会っても全然お話しとかしてくれなかったの」


「はぁん……? そのわりにゃあ、なーんかやたら打ち解けてねぇか? 顔合わせてもろくに会話しねぇような感じ悪ぃヤツだったんだろ、コレ?」


 コレ言うなし。俺は日本の経済基盤を支える縁の下の力持ち、通称社畜のしょぼくれリーマン様なのだぞ。……あ、今はしょぼくれてないけどね。日本を支えている俺を支えてくれる、とっても力持ちな女の子が居ますのでね。うぇへへ。


 俺が心の中でふざけているのとは対照的に、綾音さんは至極マジ臭い空気で顔を赤らめてワンピースの太股辺りを握りしめてもじもじやり出した。


「それは……えっと……。私、最初っから、琥太郎くんのこと、別に悪い人とか思ってなかったし」


 おっさんは、意外そうに眉を上げた。俺もおっさんと同じ心境だ。俺おっさんに義理立てしてたから、綾音さんにはわりと辛い対応しかしてなかったはずだもん。


 大人の男二人分の視線を受けて、綾音さんは完全に俯いて身体を縮こまらせながら、ぼしょぼしょと言葉を紡いだ。


「琥太郎くん、お父さんと、仲良かったし。……お父さんが、気に入ってる人なら、悪い人なわけ、ないもん。……そ、それに、さ。……琥太郎くん、私のこと、一度も無視しなかったの。どこで、どんな状況で会っても、ちゃんと、挨拶とかお辞儀とか、返してくれたの」


 ……そりゃ、会ったらそれくらいするんじゃね? 特に好印象に繋がるような行為じゃない、というかむしろじりじりと悪印象与えてくような行為だよな? 何回会っても毎回ろくに会話しないでさっさと消えるとか、「お前となんか話したくない」って言ってるようなものじゃん。


 俺は首を捻りながらおっさんに疑問符を投げかけてみた。


 それを受けたおっさんは、俺に何か言う事も無く、思案顔でじーっと俺と綾音さんを見つめてる。


 仕方無いので、俺は綾音さんを見つめながら自己完結の道を探した。


 ……挨拶をちゃんと返してくれた、か。……ああそっか、綾音さんって挨拶中毒者だもんな。きちんと挨拶をする人というのは、綾音的に好感度激高なんだろう。そういうことか。


「あのさ、綾音さん」


「ひゃいっ!?」


 綾音さんがびっくりして全身を跳ね上げて俺を凝視してきた。ワンピース掴んだまま手を跳ねさせたもんだから、一瞬ソックスに覆われてない生のすねやふくらはぎが盛大に露出して俺までびっくり。


 俺は内心の動揺を隠して、綾音さんに申し訳ない顔を向けた。


「あの、正直、ごめんな。今まで、ろくに会話もしないで、毎回さっさと逃げちゃってさ」


 綾音さんは顔のまでぶんぶんと手を横に振った。


「い、いい、いいよそんなのっ! 琥太郎くん、お父さんとの約束ずっと守ってただけでしょ! 全然ごめんなさいしなくていいよっ! 悪いの全部お父さんじゃん!」


「――いや。おっさんは、悪くない」


 思わず、ちょっと強い声になっちゃって、綾音さんが手を掲げたまま全身を硬直させてしまった。


 俺は、相変わらず思案顔で何も言わないおっさんをちろりと見てから、なんだかぼんやりしている綾音さんを真摯に見つめて口を開いた。


「おっさんは、綾音さんのことが、すごくたいせつなだけなんだよ。たぶん、綾音さんが思ってるより、ずっとずっと、おっさんは綾音さんのことを想ってる。……できることなら、綾音さんに、一切自分以外の男と口を利くなって、自分以外の男を視界に入れるなって、そう思っちゃうくらいなんじゃない……か、な?」


 流石にこの表現はちょっとアレかと思って、語尾を使っておっさんに発言権を回した。


 おっさんは、俺の視線に何やら得心の頷きを返してきて、ぼんやり顔の綾音さんにゆったりと向き直った。


「まぁ、ぶっちゃけりゃあ、琥太郎の言ったのは、合ってる。つか、本当はそれ以上にヤバいこと考えてんだが、よ。……悪ぃな、綾音。こんなクソみたいな父親でよ」


「――くっ、くそなんかじゃないよっ!」


 綾音さんは、目の焦点をおっさんにしっかりと合わせて、怒りに満ちた真っ赤なお顔で両手を無駄にぶんぶん振り回しながら訴えた。


「パパ、絶対くそなんかじゃないもん! いっつも私のこと考えてくれてるもんっ! 世界で一番ステキなパパだよっ! なんでそんなクソとか言うの! くそって言う人がくそだよっ!」


「お、おお。す、すまん、綾音。俺が間違ってた」


「なにをどう間違ってたのか、きちんと答えなさい! 制限時間十秒!」


「あ!? 十秒!? ……あ、ああ、ええとだな、ああ、つまり、あれだ。俺は、なんつーか、綾音にとって、あの、あれだよあれ、わかるだろ、なあおい、……こっ、琥太郎っ!」


 俺に涙目で助け求めんなよ。俺しーらないっと。


「パパ、ちゃんと答えてっ! あと二秒っ!」


「えあっ!? あ、ああ、ああっ! わかった! 俺は綾音に激甘でいいんだってことだ!」


 おっさんの勢い任せっぽいデタラメな解答は、しかし、綾音さんをすこぶる満足させるものであったらしい。


 綾音さん、腰に手を当てて満面の笑みを浮かべ、むふーっと盛大に鼻息を漏らしました。


「パパ、わかってるじゃーん。そうだよー、パパはそれでいいんだよー。よくできましたー。頭撫でてあげよっかー?」


 あげよっかー言いつつ、綾音さんはおっさんの所にちょこちょこ歩いてってそのまま撫で撫で始めました。なんかデジャヴ。


 おっさんは、背伸びしてにこにこ笑顔で頭を撫でてくる綾音さんをどうしたらいいかわからないようで、再度俺に涙目で助けを求めてきた。


 ……しゃーねぇな。とりあえず親子喧嘩未遂は一段落したっぽいし、話題転換を兼ねて本題切り出させてもらうか。


「なあおっさん、今日はちょっと頼みがあるんだけど、いいか?」


 場違いにフラットな声音によって、仕切り直しの意図を伝えた。


 それを受けて、綾音さんははたと正気に返って、そそくさとおっさんから離れてくれた。綾音さんは頬をぽりぽり掻きながら、誤魔化すようにあははと小さく笑う。


 おっさんはそんな綾音さんを見て安堵の溜息を吐きながら、改めて俺に顔を向けてきて、なんか意味も無くムカつく顔で軽く首を傾げた。


「頼みだぁ? そういや、なんかさっきもンなこと言ってたな。珍しいじゃねぇか、てめぇがンなこと言い出すなんざ」


「……え、そうか?」


 俺、おっさんにはわりと無茶振りしまくってると思うんだけど。例えば俺がよく頼む『いつもの』っていう俺専用メニューとかね。あれ、『多少高くついてもいいから、余った材料とかで面白いもん作ってくれよ』っていう意味なので、これかなりわがまま極まってるお願いじゃないかな。


 でもおっさんはそう思ってないみたい。


「お前ぇ、あんま個人的なことで誰かを頼るようなタチじゃねぇだろ? 軽い冗談で言うならともかく、営業時間外にこうして押しかけてきて『頼みがある』なんて言って来るなんざ、まぁ、いつもだったら考えられねぇわな」


 おっさんは至極軽い口調でそう言いながら、なんだかちょっと鋭い目を向けてきた。


 俺は「んー」と軽く唸ってから、特に悩むでもなく素直に返事を返す。




「まぁ、そうな。あんまり頼らないって言うか、誰も頼りになんかしてなかった。俺、人間嫌いだから」




 俺の、言葉に。


 おっさんの眼が、悲しそうに細められて。綾音さんの目が、びっくり仰天とばかりに見開かれた。


 俺が居心地の悪さで背中をむずむずさせていると、おっさんがやがて「ハッ」と鼻息を吐いた。いつもの小馬鹿にしたような感じじゃなくて、嬉しそうな音色だ。


「人間嫌いか。ハハッ、なるほどな。やっぱな。俺の目は狂ってなかったってわけだ」


「なんだ、気付いてたのか?」


「おうよ。だもんだから、『こんな欠陥人間は、綾音には絶対ぇ近づけちゃなんねぇ』って思って、口酸っぱくして言い聞かせてたわけよ」


「言うね、おっさん。欠陥人間て。綾音さんびっくりしちゃってるよ?」


 欠陥人間。人格否定どころか種族から否定してる、余りにも酷すぎる悪口だ。心優しきお菓子の国のお姫様がびくっと怯えてしまうのも無理は無い。


 だがおっさんは、綾音さんの頭を乱暴にわしわしと撫でて彼女の怯えを照れに強制変換させてから、なんだかにやりとした顔で俺を見ながら再度繰り返した。


「欠陥人間だったろ、お前ぇは。だーれも信用してねぇくせに、上辺を取り繕ってヘラヘラ笑って人に溶け込むのは一丁前でよ。さすが高給取りの営業だなって、思わず感心したもんだ。ヘドが出らぁな」


「感心しながら反吐吐くなよ。どういうことだおい。俺おっさんに心の中でヘド吐きかけられてたの? 何それ地味にショックなんだけど」


「まぁまぁ、いいじゃねぇか。そんなのいっちゃん最初の頃だけだったんだからよ」


 最初の頃だけ。じゃあ、その後は?


 おっさんにヘド吐かれてたのがわりとショックすぎて言葉が出ない俺に、おっさんは獣染みた顔の造詣に似合わない優しげな笑みを浮かべた。


「お前ぇ、人間嫌いなくせして――っつか、人間嫌いになった原因か。お前ぇはよ、『相手の立場に立って物を考えすぎる』んだよ。……他人は、お前ぇほど善人じゃねぇんだ。お前ぇが必死こいて相手の立場に立って考えても、相手はお前ぇのことなんてそこまで考えてくれねぇぞ」


 ――その、台詞は。俺ではなく、俺を鏡として、そこに映る誰かに語りかけているようだった。


「……………………」


 俺はなんとなく、綾音さんに目を遣った。


 綾音さんは、おっさんに乱された髪を手櫛で整えながら、なんだか心配げな眼で俺の様子を窺っていた。


 ……綾音さん、言ってたっけな。『琥太郎くんは、お父さんに本当にそっくりだ』って。


 なるほどな。俺とおっさんは、同じ穴の狢だったってわけだ。おっさんの愛妻家っぷりや綾音さんへの溺愛っぷりに、なんだかとっても納得がいった。


 おっさんも、俺と同じように。かつては俺と同じ欠落を抱えていて、しかし、その欠落を埋めてくれる『自分のことを自分以上に考えてくれる相手』と巡り会った。そういうことだろう。


 俺はおっさんに、にやりとした笑顔を返した。


「よう、おっさん。奥さんと娘さん、大好きか?」


「うるせぇよ。お前だって、あのマブい妖精さんのこと大好きなんだろ?」


「ああ。勿論だ。俺は詩乃梨さんのことが、世界で一番大好きだ」


 胸を張って答える俺に。おっさんは、実に愉快そうに「ああ、そうかい」と満面の笑顔を浮かべた。獣っつか、森のくまさん的な愛嬌のある顔だ。


 俺も似たような顔を返しながら、さて、と会話を仕切り直した。


「そういうことで、俺は世界で一番大好きな妖精さんのために、俺が知る中で一番美味いケーキを所望するわけさ。頼んで良いか?」


「なるほどな。なんかのお祝いってわけか。何のだ?」


 処女卒業祝い、なんて言えないわな。じゃあ、うーん。


「……結婚ほぼ確定祝い?」


 首を傾げながらぽろっと言葉を零してみたら、おっさんは特に疑問に思った様子もなく納得の頷きを返してきた。


「ほぼ、か」


「うん。ほぼ。とりあえずOKはもらった。……あ、これオフレコな? まだ言いふらしていいものかわからないし」


「言いふらすわけねぇだろ。お前ぇだったら、言いふらすか?」


「んなわけないじゃん」


「じゃあ、そういうこった」


 おっさんはそう言うと、それ以上何かを追求することも、余計な言葉を紡ぐこともなく。軽く腕を回しながら、のっそのっそと奥の部屋へ引っ込んでいった。


 うん。世界で一番美味いケーキくれるって、背中で言ってたね、あの人。かっけぇわ。


 俺は手近なテーブルに軽く腰を預け、ふぅと溜息を吐いた。なんか色々紆余曲折あったが、ようやく目的が達成できそうだ。


「………………………………あん?」


 なんか横合いから、ちょいちょいと袖を引っ張られた。


 振り向けばそこには綾音さん。なんだか両手を握って胸元で小さくガッツポーズしながら、キラキラしたお目々で俺の顔を覗き込んできた。


「ね、ね、琥太郎くん。どういうこと? ね、どういうことなの?」


「え、何が?」


「結婚! ほぼ! 確定! 祝い!」


 ……お、おお。綾音さんがすこぶる眩しい。マジで発光してね? 目が潰れんばかりの輝きを放ってるぞ。


 俺は綾音さんに眼を潰されないように手の平でガードしながら、大まかな説明をすることにした。


「まあ、なんていうか。詩乃梨さん、俺と結婚してくれるらしいです。もちろん、今すぐじゃないですけど。結婚したいって言ってくれて、愛してるって言ってくれて、一生一緒に居ようと約束もしました。……あ、これオフレコですからね?」


「わかってる! もちろんだよ! おめでとう、おめでとう、琥太郎くんっ! おめでとう、詩乃梨ちゃんっ!」


 綾音さんは俺のみならず、虚空に思い描いた詩乃梨さんにまで祝福のメッセージを送ってくれた。


 ……良い子やなぁ。マジで。自分のことのように喜んでくれてるよ。相手の立場に立てる人間。なるほど、あのおっさんの血縁だな。


「……………………」


 結婚に、血縁と言えば。


 ……綾音さんって、マジでおっさんのこと、男として愛してたりするのかな?」


「……ねえ、綾音さん」


「ん? なあに?」


 綾音さん、すこぶる上機嫌。背筋を伸ばして、股の辺りで両手を組み、にこにこ笑顔で俺を見つめてきました。


 俺は、結局。曖昧な笑みを浮かべて、「なんでもないよ」と首を横へ振った。



 ……近親相姦、か。……それもまた、ひとつの愛の形だと、俺は思うんだけど……。


 おっさんの言葉が、どうにも脳裏に焼き付いて、離れなかった。


『他人は、お前ぇほど善人じゃねぇんだ』、なんて。


 世界は、この俺よりも悪い人間で溢れかえっているんだという、そんなおぞましい事実を突き付けてくるその言葉が。俺の脳裏に、深く焼き付いて、離れようとしなかった。

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