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四月二十五日(火・続1)。不条理な敗北。

 さて。新章に突入したし、ちょっと俺と詩乃梨さんの間にある関係の変化について一文で端的におさらいしておこう。


『結婚。OKもらいました!』


 はいきたー! はいきたこれー! きましたよちょっと奥さんこれどーするよマジでー! 奥さんっていうか詩乃梨さんが若奥様よー! 幼妻よー! 一週間誕生日が遅ければ今からほんの一ヶ月前くらいまで中学生やってたような現高校生が俺の生涯の伴侶決定よー! 俺のことを大好きって言ってくれていつかは愛してくれるって言ってくれてた子がついに俺のことを愛してるって言ってくれてそれだけに留まらず肉体でも愛しあっちゃいましたよー! どーするこれー! どーしよーこれー!


 えへ。えへへ。えへ、えへ、えへへへへへへへ、うぇ、うぇひひひひひひひひひ、ひはっ、ひは、ひひ、ひははははははははははははは! ヒィィィィィィィヤッッハァァァぁぁぁあぁぁああああああああああああ!


 ああああああああああああっ! ああ、あ、ああああああっ、ああああああああああああああっ! う、ううあ、うああああああああああああっ、う、うあっ、う、う。


 う、うううううう、うううぅぅぅぅ、う、ううぐっ、ぐ、っ、ぐすっ……。


 ありがとう、ありがとうしのりん。大好きです。きみのことが、とっても大好きです。愛してます。結婚してください。一生一緒にいようね。きみのこと、一生、ずっと、ずっと、大事にするから。俺、絶対、生涯、来世も、その後も、ずっと、ずっと、ずーっと、きみのこと、愛し続けるから。きみだけのことを、愛し続けるからね。


 ……………………ん? あ、なに。これ読めって? え、なにこれ。つーかあんた誰。え、いいから早く読め? ちょっ、わかった、わーかったから、背中バシバシ叩くんじゃねぇよ、痛ぇだろ。後で缶コーヒーやるからちょっとそっちで待ってろ。


 ふぅ、まったく、なんなんだよ……。で、えーと、なになに?


 ………………………………………………。


 …………………………おっとー。


 …………………………俺、今、しのりんだけに永遠の愛を誓ったばっかなんだけどなぁ……。



 ◆◇◆◇◆



 正午過ぎ。また営業先を回っている間にメシ時を過ぎてしまい、俺は公園のベンチに腰掛けて詩乃梨さんの愛妻弁当を食べていた。


 愛妻弁当。いやまだ妻じゃねぇし。まあいずれ妻確定だけど。


「……詩乃梨さん。愛してるよ」


 青空に愛しいあの子のはにかみ笑顔を思い浮かべながら、俺は卵焼きをぱくりとかじってほぅっと溜息をついた。


 俺、今、恋しちゃってる。相思相愛な、恋、しちゃってる。


 そんな感慨に胸をじーんと震わせていたら、俺の視界にひょっこりと汚物が入ってきた。


「先輩、今日はやけに食うの遅いっすね。休憩もうすぐ終わりっすよ?」


「……尾野」


「はいはい、なんすかー?」


「ごめん。今日だけは、ちょっとだけ休憩時間オーバーさせてくれ」


 俺の真摯な願いに、尾野はぎょっとした顔で後ずさった。


「どっ、どうしたんすか先輩!? せ、先輩、仕事に対しては真面目すぎるほど生真面目じゃないすか! なんでそ、そんな、サボり上等みたいなこと言い出してんすか!? あともっといつもみたいに苦みのある言葉くださいよ! なんでそんなコーヒー抜きで砂糖しか入ってないカフェオレみたいな顔してんすか!」


「それただのホットミルクじゃね? ……そっか、俺、ホットミルクみたいな顔してんのか……。へ、へへ、へへへ、うぇへへへ……」


 やばい。にやにやが止まらない。自分でも無自覚にそんな甘ったるい顔をしてたってことは、やっぱり俺は心の底から詩乃梨さんのことが好きなんだ。


 俺は目玉焼きを一口囓り、もっきゅもっきゅと咀嚼した。尾野は放置。今はあの子が作ってくれたこの幸せを噛みしめる。


 もっきゅもっきゅ、ごっくん。


 はぁ………………。これが、愛妻弁当か……。いや、まだ、妻じゃ、ないけどさ? い、いつか、本当の、妻に、なるんだよ? それ決定事項なんだよ?


「え、えへ、えへ、えへへっへへへへへへ」


 最早俺の笑いを止める術は無い。満員の通勤電車に押し潰されながら張り詰め直した気が、愛妻弁当という天上の秘宝によってものの見事に木っ端微塵に吹き飛ばされた。


 ああ、詩乃梨さん。愛してるよ。大好き。大好きだ、詩乃梨さん。


 ご飯と幸せを殊更にゆっくりと噛みしめる俺を、尾野はなんだか嬉しそうな顔で見下ろして溜息を吐いた。


「先輩、例の『まだ妻じゃない奥さん』と、良いことあったんですね。ご結婚、おめでとうございます」


「……ん。……ありがとうは、言わねえよ。まだ、結婚じゃないから、な」


「まだ、すか」


「うん。まだ」


 俺の頬が自然と緩み、それを見た尾野も実に自然な微笑みを浮かべた。


 なんだろ。尾野のイケメン顔が、今だけは、憎くない。つーか、可愛い顔してんな、こいつ。


「尾野。お前、かわいいな」


「…………………………………………」


 尾野は笑顔をびしりと固まらせ、呼吸すら止めて完全な銅像と化した。


 俺はもっきゅもっきゅとご飯を噛みしめながら、尾野を眺める。先程のかわいい発言について、特に撤回の必要性を感じない。イケメン憎しの感情を取っ払って考えれば、尾野はわりと良いヤツだ。イケメンなのに気取ったところ無いし、俺にやたら懐いてくれてるし。かわいいという表現はあながち間違っていない。性的な意味は無いけど。


 俺が言い訳をしそうにないと判断したのか、尾野は「あー」とか「えー」とか意味もなく呻いた後、照れ笑いで後ろ頭を掻きながら小さくお辞儀してきた。


「さんくす、先輩。先輩も、めちゃくちゃかっけーですよ」


「……んぐ、んぐ……。……そう、かな?」


「そうっすよ。ホモでも無いのに、男に『かわいい』なんて自然に言えるって、なんつーか、すげーかっけぇっす」


 尾野の言葉にも微笑みにも、嘘くささは感じない。むしろ本気で俺を尊敬している気配が漂っている。


 ……まあ、なんつーか。……悪くねえ空気だな。男女の空気的な『良い雰囲気』って意味じゃないけど。


「……なあ、尾野。お前、嫁さんいるんだよな? その人も、かわいいか? お前みたいに」


 俺の唐突な質問に、尾野は頬をぽりぽりと書きながら恥ずかしそうに天を仰いだ。


「んー、そっすねー。……オレなんかより、ずっと、ずっと、かわいい子っす」


 尾野の、表情に。一筋の陰が差したような気がした。


 錯覚だろう。だって、尾野は微笑んでいる。甘いマスクのイケメンスマイル。暗い要素なんてどこにもない。


 ……イケメンスマイル、か。


「尾野。その顔、やめろ」


「はぁ。顔、すか? えー、オレって笑っちゃいけないんすかー? ひでーなーもう」


「……酷いのは、お前だろ。……なんつーか、酷い顔してる。……ような、気がする、かも、しれ、ない? そこはかとなく。なんとなく。……すまん、変なこと言った。忘れてくれ」


 俺は弁当をすっかり平らげて、満足の溜息を吐いた。


 蓋を閉じ、箱を包みに戻して、それを小脇に抱えてよっこいせっと立ち上がる。


 尾野に『お仕事再開だ』とアイコンタクトを取ろうとした所で、俺はようやく異変に気付いた。


 尾野の目が、空を見上げたまま、帰って来ない。完璧なイケメンスマイルもいつしか剥がれ落ちていて、なんだか寂しげな微笑みが浮かんでいる。


 言葉を失う俺に、尾野は虚空を仰ぎながら気の抜けた声を放ってきた。


「ねー、先輩。……先輩のお相手の人って……その、なんつーか。……こんなこと、訊くのは打ち首モンの失礼だってことは、わかってんすけど……」


「……なんだよ?」


「…………………………その人にとって、先輩って、過去も未来も唯一の『オトコ』っすか?」


 ――それは。詩乃梨さんが処女であるのかと、詩乃梨さんが浮気をしない子なのかと、そう問うているも同然の台詞だった。


「…………………………」


 本来なら、打ち首どころか、眼球抉りだして舌引っこ抜いて耳の穴から脳味噌に灼けた鉄の棒をブッ刺してぐちゃぐちゃに掻き混ぜてやってもまだ足りないくらいに激怒するような問い。


 なの、だが。どういうわけか、烈火の如き怒りなど湧いてこず、むしろ逆に、ひどく寒くて冷たくて、悲しい風が、俺の胸を吹き抜けた。


 返すべき言葉を見つけられずにいる俺を、尾野はようやく視界に映した。


 尾野は、傷だらけの下手くそな笑みを浮かべる。


「すんません。忘れてください」


「………………………………」


 俺は、返事も、首肯も、返せなかった。


 尾野の微笑みに、ふっと、ほんの少しだけ自然な色が混じった。


「先輩、良い人っすね。今の質問、普通の人なら怒髪天確定っすよ」


「……俺も、できれば髪の毛逆立てたいところ、なんだがな。変身できる金色の戦闘民族じゃないから、残念ながらそれはできないんだ。期待に応えられなくて悪いな」


「なんすかそれ。先輩、マジおもしれぇっすね。く、くふっ、くく」


 尾野は本当におかしそうにぷっと吹き出し、軽く腹まで抱えて笑い声を上げた。


 尾野は、目尻の涙を拭って、はぁっと溜息を吐く。


 そして、今日の天気は晴れですね、みたいな何でも無いことを言うような声音で告げた。


「先輩。オレの嫁さん、オレが初めてのオトコじゃないんすよ」


 ……………………………………。


「そう、か」


「そーなんす。初めてじゃないどころか、まあ、それなりの数のお相手が居たようで。……ま-、それを包み隠さず全部話してくれて、今はオレしか眼中に無い! って全身全霊で証明してくれてるんで、気にするようなことじゃないんすけどね」


 気にするような、ことじゃない。尾野の声音は確かにそう言っていた。


 でも。爽やかな笑顔の裏に隠された、『目に見えないもの』を、俺の目はすっかり見通してしまっていた。


 ……やれやれ。俺の心眼は、詩乃梨さんの心を見るためだけにあるんだけどな。


「尾野」


「はい、なんすか?」


「なんすかじゃねえ。仕事だ、仕事。ほれ、行くぞ」


 俺はさっさと踵を返し、社用車を留めてある駐車場へ歩き出す。


 尾野はしばらくその場に留まっていたが、十秒以上遅れて俺の背後から駆け寄ってきた。


「尾野」


「はい、なんすか?」


「――『言いたいことは、何でもいいから、とりあえず口に出せ』」


 尾野の方を見ないまま、歩みも留めないままに、いつか告げたのとまるきり同じ台詞を放り投げた。


 尾野が息を詰まらせたのを気配で感じながら、俺はふっと脱力の溜息を漏らした。


「俺は、お前がどんな女々しくてくだらなくて醜い想いを抱えてたとしても、絶対笑わねぇよ。……だから、まぁ。気が向いたら、なんでもいいから相談してくれ。……前、お前も俺の相談に乗ってくれるって言ってたしな。等価交換ってやつだ」


 尾野はしばらく、無言。無言で、俺の斜め後ろを付いてくる。


 やがて、目当ての車が見えてきた頃。


「……先輩」


「なんだ」


「………………先輩って、マジで激甘カフェオレっすね」


「……最近、色んな人にそう言われるな」


「っすよねー!」


 ちらりと、横目で確認した、尾野の表情は。


 どこか吹っ切れたような、爽やかな微笑みだった。



 ◆◇◆◇◆



 世の中には、色んなカップルがいるようだ。


 俺と詩乃梨さんのように、初めて同士のカップルがいれば。尾野のように、変えたくても変えられない過去を呪うことしかできないままに、それをどうにか乗り越えて愛を育むカップルもいる。


 過去は、変えられない。しかし未来は、良い意味でも悪い意味でも、相変わらず不確定なまま。


 約束された勝利など、この世界には存在しない。例え『結婚』という強固な絆を持ってしても、その事実を変えることはできないのだ。


 じゃあ、俺は、どうすればいいのか?



 ――答えは、以前と変わらない。


 勝利へ向けた地道な努力を、俺と、詩乃梨さんで、着実に積み重ねていく。それが、唯一にして最短の、勝利への道筋なのだ。

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