四月二十五日(火)。その日記は、どこまでも続く。(本編Fin)。
明朝。けたたましく鳴り出したアラーム音を止めるべく、布団を吹っ飛ばすように上半身を跳ね上げ、足の方に有るPCデスクに向かって全身のバネを活かしたタッチダウン。
ベッドに四つん這いになって身を乗り出し、目一杯突き出された俺の右手の人差し指は、PCから充電中のスマホをしっかりとタップしていた。アラーム終了。完全睡眠状態からここまで、およそ三秒の出来事である。
現在の時刻は六時四十五分。今から五分掛けて意識と身体を暖機運転し、五十分になったら速攻でベッドから飛び出してパジャマ脱ぎ捨ててスーツやらシャツやら着込んで、廊下に置きっ放しの鞄を引っ掴む勢いのままに玄関のドアに体当たりして、アパートの外に出たら深呼吸しながら軽くジョギング兼散歩と洒落込み、駅までの道程の途中にあるコンビニに寄って朝飯買って、のんびり歩きながらパンかおにぎりをぱくついてコーヒーを啜る――
「………………………………?」
……いや、それは以前までの俺の生活スタイルだ。今の俺は、そんな時短と憩いを両立させるために練り上げた奇異なルーチンワークで動いてはいない。
ここ数週間ほどは。朝六時前くらいには俺の意識がぼんやりと覚醒してて、そこに詩乃梨さんが合い鍵を使って登場。手早く朝食と弁当の準備を済ませてくれる詩乃梨さんと一言二言会話を交わしながら頭をしゃっきりさせていって、食事の用意が調ったら二人並んでほぼ無言でひたすらもぐもぐ。腹を満たし終わったら、詩乃梨さんにじーっと見つめられながら俺が茶碗洗いして、洗い終えたら電気ケトル湧かしてお茶を錬成。六時四十五分のアラームが鳴るまで、二人でまったりとお茶を啜る。
「………………………………」
ぺたんと正座して、ベッドを振り返る。
詩乃梨さんが、居ない。
ゆっくりとした動作で、部屋をぐるりと見回す。
詩乃梨さんが、居ない。
自分の下半身に、おそるおそる目を遣る。
詩乃梨さんと俺が、交わった証が。ろくに拭い取りもせずに放置していたはずの、奇跡の液体が――綺麗さっぱり、消えていた。
「…………………………………………」
汚らしいオッサンの、吹き曝しになっている無価値な国。俺の眼に映るのは、ただそれだけ。
俺を一人の『男』にし、無価値だった俺の国に意味や役目を与えてくれた、あの少女の残り香が……どこにも、無い。
「――――――――――――――――」
血の気が引いた。
声が出ない。呼吸すらできない。
嘘だ。
嘘だろ。
詩乃梨さんは、幸峰詩乃梨という、俺が愛した少女は。
女や愛に餓えていた俺が、昼も夜も関係無く見続けた、夢現の存在でしかなくて。
屋上の、妖精は。孤独に押し潰された俺が生み出した、ただの妄想の産物――
「あ。こたろー、起きてた」
寝室兼居間と廊下を隔てるドアがかちゃりと開き、ふつーの女の子が――ふつーとは言えないほどに美少女然とした、ふつーに現実に存在している女の子が現れた。
幸峰詩乃梨、平日の朝の幼妻バージョン。リボンタイまできっちりと結んだ学校の制服姿で、短め丈のスカートから伸びるほっそりとした脚には膝上丈の黒ソックス。身を包む衣装の上に白いエプロンを着けて、きらきらと輝く銀髪めいた灰色の長髪をうなじで括って猫の尻尾のように垂らしてる。
キツめの印象を受ける吊り目がちの目元が、今はほんの少しだけ優しく緩められていた。
彼女は、無表情以上笑顔未満のお顔で俺を一瞥し……ついでにシュバッと俺の股間に目線を送ってから、何事も無かったように廊下の方へ引き返していった。
冷蔵庫の開く音がする。中の物をてきとーに――というより適当に漁る音がする。それに紛れて、猫の鳴き声みたいな「にゃー」という歌声が時折響いてくる。
「………………………………」
いつもの、朝の光景。
俺はのろくさとスマホを手にとって、電源ボタンを軽く押した。
現在の時刻。『五』時、四十五分。
「………………ねー、詩乃梨さんさー」
「んー?」
「俺のスマホ……っていうか目覚ましアプリ、いじった?」
「んー。……ダメだったー? メールとか見てないし、目覚ましだけだよ?」
「いや、メール見たいならみてもいいよ。今はただ、なんでいじったのかなって」
俺はベッドの横に脚を下ろし、軽く後ろに手を突いて体重を預ける。
俺がふぅと溜息を吐くのと同時に、詩乃梨さんは廊下からひょっこりと顔を出して、ちょっと不安そうな表情を向けてきた。
「……勝手にいじって、ごめんね、こたろー。……ロックかかってたら、諦めようと思ったんだけど……」
「いいよ。詩乃梨さんに見られて困る物なんて、俺にはもう何も無いから」
「……………………………………ふ、ふ、ふ、ふ、ふぅん?」
詩乃梨さん、なんだか急に頬を赤らめてドアの木枠を両手で握りしめながら顔を半分引っ込めてしまいました。
彼女の視線がちらちらと向かう先には、はい、ぱおーん。
「……そういう意味じゃねぇよ……。詩乃梨さんって、実は超エッチなの?」
「…………………………………………そう、かも? ……え、えへ、えへへ」
温度の高いはにかみ笑顔が、俺のハートをずきゅんと打ち抜いた。
やばい、このままだとまた平日の朝っぱらからエロ展開に雪崩れ込んでしまう。それは待て、今日は平日、しかも部屋を出るまで一時間くらいしかない。ワンアワー。頑張れば何回戦までいけるかな、昨日は初めてだったから手探り状態だったけど今はわーわーわー!
俺は頭を振って雑念を払い、再度詩乃梨さんに問いかけた。
「で、結局、なんで時計いじったわけ?」
その問いに、詩乃梨さんはなぜかはにかみ笑顔の温度をより一層高くして、手が白くなるほどに木枠を握りしめながらつっかえつっかえ答えた。
「えーっと、ね。……こたろー、寝てたじゃん? すごく、よく、寝てた、じゃん? ……わたしが、こっ、こた、ろーの、ぺ、ぺに、ぺにっ…………………………、を、な、なめ、なっ、なめ、なめなめっ、……………………、と、とにかく、よく寝てたじゃん?」
「…………………………………………」
俺は、己の股間が綺麗になっている理由について、まるっと理解してしまった。
硬直する俺に気付かず、詩乃梨さんは恥ずかしさでそっと目を細めながら続ける。
「……よく、寝ちゃってたから、さ。……目覚まし、いつもの時間に、かけておいて、あげた方が、いいよね、って。……………………ごめん、ね、こたろー」
「許さない」
「…………………………………………え?」
俺の静かな一言に、今度は詩乃梨さんが硬直。
俺はゆっくりと立ち上がり、詩乃梨さんの目の前まで歩み寄った。
俺は、呆けたような顔で見上げ来る彼女に、切実に訴えた。
「詩乃梨さんのおくちでしてもらった記憶が、俺には無い。無念。すごい無念。ひどい。そんなの人生で一度もやってもらったことないのに。初めてだったのに。俺の初めてが、俺の知らないうちに、勝手に奪われていた。これは女の子が自分の知らないうちに処女奪われてたようなものだと思うのです」
「………………………………ご……、ご、め、ん……」
詩乃梨さんは、しょんぼりと落ち込んでしまい、木枠を掴む手の力をほとんどゼロにまで緩めて、そこへぽてんと寄りかかって俯いてしまった。
俺は詩乃梨さんの耳元へそっと口を寄せて、彼女の頭をゆっくりと撫でながら囁いた。
「だから、今度は、きちんと俺が起きてる時に頼むよ。一回だけじゃなくて、何回も、何回も、俺の気が済むまでやってもらうから。それで、今回のはチャラにしてあげる。……それで、いい?」
「………………………………ひゃぁー……」
詩乃梨さんは掠れた悲鳴を上げて、白いうなじを朱色に染めていきながら、俯いたままこくこくと何度も首肯した。
俺は背筋を伸ばし、腰に手を当てて仕切り直しの溜息を吐いた。
「にしても、なんで勝手に居なくなったのさ。折角一緒に寝てたんだから、一緒に起きればよかったのに。起きたら詩乃梨さん居ないし、下半身綺麗だしで、一瞬何もかも夢だったのかと思っちゃったじゃん」
「………………………………夢、じゃ、ない、よ」
それは、とってもか細い声。けれど、聞き逃すことなんて有り得ないほどに、確固たる自信に満ちあふれた声。
戸惑う俺に、詩乃梨さんはより一層肌を赤く染めながら告げた。
「……朝、起きたら、ね? ……股から、こたろーのと、わたしの、が、あふれてて……。昨日のこととか、いっぱい、思い、出しちゃって……。こたろーの、あの、それ、綺麗にしながら……、わたし、も、ちょっと、あの、自分で、あの、それ、あれ、やっちゃっ、て……、こっ、これ、きれいにしないと、さすがに、ちょっと、まずいなって、おもっ、ちゃった、から、ひ、ひと、が、おきてこ、ない、うちに、へっ、へや、いそいで、もどって、ぜんっ、ぶ、ぜんぶ、きれーに、してき、た、の」
……………………………………。
「おい、詩乃梨」
「………………………だっ、だから、なんで、いきなり、呼び捨――」
「ちょっとだけ真面目な話だ。聞け」
俯く詩乃梨さんの両頬をそっと両手で挟み、しっかりと俺の方へ目を向けさせた。
きょとんとしている彼女に、俺は至極真面目に諭した。
「いいか。そんな乱れきった格好で、外出歩くな。綺麗にするなら、この部屋でそのままやればよかっただろ」
「…………い、いちおう、最低限、き、きれいには、してから、外、出た……よ?」
「うるせぇ、口答えするな。襲うぞ」
俺、わりと本気で怒ってます。
その本気が伝わったのか、詩乃梨さんがちょっと怯えた目になってしまう。
怯えてる。俺の、大好きな、愛しい女の子が、怯えてる。
――でも、俺は。
愛する女性を怯えさせているという、胸の痛みにぐっと耐えて。ただひたすらに、真摯な想いをぶつけた。
「詩乃梨さんは、とてもかわいい。めちゃくちゃかわいい。胸がきゅんきゅんしすぎて破裂しそうなほどに激烈かわいい。そんなかわいい子が、男との行為の直後に、最低限しか身体を綺麗にしてない状態で、まだ暗い中を出歩ってるんだぞ? こんなの、強姦されても文句言えないだろ」
「………………………………文句は、言いたいなぁ、それ……」
「だまらっしゃい。大人数にマワされて文句も考えられないくらいに心が壊れちゃったり、拉致監禁されて猿ぐつわ噛まされて文句どころか呼吸もまともに出来ない状態で凌辱の限りを尽くされちゃったりするかもしれないだろ。人道とか倫理とか理屈とか、そういう何もかもを吹っ飛ばしてうっかり強姦したくなるほどに、貴女はとっても魅力的なの。その自覚を持ちなさい」
俺の台詞が終わる頃には、詩乃梨さんの顔から俺に対する怯えは無くなっていた。代わりに、なんだか引きつったように口元をひくひくさせてる。
「……こたろーさー、わたしのこと、好きすぎない? どれだけ心配性なの?」
……俺の、想いは、伝わらなかったのだろうか。
燃え尽き掛けた俺の、冷たい手の平を、温めるかのように。詩乃梨さんは、顔を真っ赤っかに染めていって、にまーっといやらしい笑みを浮かべた。
「こたろーは、わたしのことが、大好き。だから、わたしのことが、すごく心配」
「……………………うん。その通りだ」
「んふっ。…………わたしも、ね。こたろーのこと、大好きだから、さ。……うん。こたろーのこと、心配させないように、がんばるよ。……だから、さ――」
いやらしい笑顔は、にししという笑い声が聞こえそうないたずらっぽい笑みへと変わり。
そして、最後は、恥じらう乙女の――元乙女の、はにかんだ笑顔が、可憐な花を咲かせた。
「これから、一生、わたしのこと、心配してね。わたしも、一生、心配されないように、がんばるから」
――俺は、詩乃梨さんを、いつもどこかで『幼い』と思っていた。
おそらくそれは、間違いではない。肉体的にも、精神的にも、彼女はまだまだ、事実として、幼い。
だが、きっと。今この瞬間、今この台詞を紡いだ、今この幸峰詩乃梨だけは。
きっと、俺なんかより、ずっと、ずっと、大人びた心を宿していた。
「……………………一生、か」
「そ。一生。一生こたろーと一緒。……いやだった?」
いやだったのかと問いながら、詩乃梨さんは、俺の答えなんてわかりきっていると言わんばかりの笑顔だ。
実際、わかりきっているだろう。俺は何度も、詩乃梨さんに愛してるとか結婚してくれとか幸せな人生を送ろうとか言いまくっていた。
でもたぶん、詩乃梨さんの自信の根拠は、俺の過去の台詞や行動ではない。
今、詩乃梨さんは。俺の中にある、俺自身ですら見つけることのできない『目に見えないもの』を、しっかりとその目で見つめている。
だから、俺も、詩乃梨さんを中にある、『目に見えないもの』を探した。
わたしと一生一緒に居ることはイヤか、と問う彼女の、目に見えない、本当の気持ち。
――うん。見えた。もう二度と、見失うことはない。
「詩乃梨さん」
「ん」
「結婚しようか」
「んっ!」
俺の心からまろびでた素直な言葉に、詩乃梨さんもまた、心からの笑顔を返してくれた。
俺は、彼女の頬へ伸ばしていた手を、ゆっくりと曲げながら、顔を近づけていった。
彼女は、俺を、拒まない。戸惑いもしない。ただ、俺の瞳を、嬉しそうに見つめていた。
俺達は、何の躊躇いも、怖れも無く、間の距離を埋めていき。
そして、当然の帰結として、俺と詩乃梨さんの距離は、ゼロへと到達した。
――むしろゼロを超えて突入かましてべろちゅーしちゃったぜイェーイ!
◆◇◆◇◆
土井村琥太郎は語らない。否、語ることを先送りにした。
そして、幸峰詩乃梨も、語らない。否、語ることが出来ない。
『幸峰詩乃梨の、初恋の君について』。
琥太郎には、その記憶が無く。詩乃梨の記憶も、ひどく朧気だ。
けれど。詩乃梨に限って言えば、頭では無く、心で、初恋の君についてすっかり思い出していた。
直接のきっかけは、四月十日。琥太郎と、初めて同衾した日。
詩乃梨は、眠る琥太郎を、間近から余すところなく観察し、顔の形、身体の感触、放たれる匂い、それら全てを堪能していた。
屋上で過ごした、一年の間。頭では『有り得ない』とにべもなく斬って捨てながら、心では『もしかしたら』という思いを捨てきれないでいた、ある可能性。その現実味についての検証が、この日、彼女が自覚しないままに、完了した。
そして、昨晩。詩乃梨が十六歳の誕生日を迎えてから、ほぼちょうど一月後のことである。
精根尽き果てて眠る琥太郎が、眠りながらとめどなく生命を放出し、死へと着実に近付いていく傍らで。詩乃梨は、必死に琥太郎の生命をその身の内へ回収しながら、その単語を聞いた。
「…………『トラ』……?」
それは、寝言だった。
詩乃梨之目に映ったのは、寝ぼけ眼で自分を見つめてくる、琥太郎。
記憶の彼方に置き去りにされた、あの雪の日に出逢った人と同じ。今にも死にそうな顔で、自分のことを『トラ』と、見当違いな名前で呼んでくる男。
あの日の青年の微笑みに。琥太郎の微笑みが、完全に一致した。
けれど詩乃梨は語れない。彼女の記憶は、ひどく朧気だ。
存在しない記憶を語ることは出来ない。それは奇しくも、琥太郎と同じ結論だった。
でも。詩乃梨は、頭ではなく、心で、全てを理解した。
理解して、全ての真実を、己の心の中へ、そっと秘めることにした。
それもまた、琥太郎と同じ結論で。
だからきっと、詩乃梨もまた、琥太郎に全てを打ち明ける時が来るのだろう。
記憶の欠落を持つ二人が、愛し、愛され、全てを語り、語られて、欠落を埋めることができるほどの想いのやりとりを交わして。
その結果がどうなるかは、今はまだ、わからない。よく思い出せもしない初恋の君を、完全に過去の人とするのか。それとも、二人共思い出せないけれど、きっとお互いが運命の相手であると結論するのか。
その日が来るのは、きっと、ずっと、ずっと、後になる。もしかしたら、二人が死ぬまで、結論なんて出ないのかもしれない。
ならば、気長に待つとしようではないか。
……え、そんなに気長に待てないって?
まあまあ、そんなに慌てなさんな。そうだな、じゃあこんな風景を想像して、ちょっと心を落ち着けてみたらどうだい?
晴れ渡る、済みきった空の下。
誰も利用者の居ない、安アパートの屋上で。
ひとつしかない、樹から丸ごと掘り出したようなベンチに腰掛けながら。
きみは、吹き抜ける風にちょっと身体を震わせながら、あたたかい缶コーヒーを啜る。
臓腑に染み渡る、ほっとするような、ぬくい熱。舌で味わう、甘さと苦み。鼻腔で味わう、豊かな香り。
きみは、思わずこう呟くんだ。
「あったかいな」
遮るものの無い空へ、何の気なしに放り投げられた、その言葉に。
きみの隣に、寄り添うようにして、腰掛けている少女が。脚をぷらぷらと意味無く揺らしながら、缶コーヒーをずずっと啜って、きみと同じ空を見上げながら、ほっとした溜息と共にこう返す。
「うん。あったかいね――」
――本編・Fin




