四月八日(土)。まともな、会話。
詩乃梨さんがとてもぴりぴりしている。というより最早ビリビリであり、その雷撃染みた刺々しい雰囲気は、まるで一年前の彼女が現在へタイムスリップしてきたかのようだった。
◆◇◆◇◆
今日の詩乃梨さんは、数週間ぶりに見る学校の制服姿。純白のブラウスは清純を、胸元に揺れるリボンタイは知性を、袖の長いカーディガンは愛らしさを、濃紺のブレザーは気品を、丈の短いプリーツスカートは健康的な色気をそれぞれ象徴しているかのようだ。その上スカートとニーハイソックスのコラボが生み出す桃源郷が朝日を受けて仄かに輝いており、それを恥ずかしがって隠すかのように、淡い色彩の黒髪が春風を受けてさらさらと清流のように揺らめく。
しかし。そんな『詩乃梨さんめっちゃ可愛い』描写を何もかもぶちこわしにしているのが、詩乃梨さんの全身から放出される不可視の電撃である。
パンを囓りながら彼女が来るのを待っていた俺は、待ちわびていたはずの邂逅を果たした瞬間に感電死。以降俺は、パンに食らいついた姿勢のまま、隣で自家製弁当をがつがつ食べ始めた詩乃梨さんを凝視し続けていた。
がつがつ。がつがつ食べている。いつもは目つきが鋭いながらももっと小動物的な愛らしさの漂う食べ方なのに、今日はまるで竜か虎が獲物を屠殺するが如き苛烈さを以て弁当に顔を突っ込んでいる。
――どうした詩乃梨さん。学校でなんか嫌なことでもあったのかね? そういや聞いてくれよ、俺も会社で厄介なことになってさー、今週頭に入ってきた新入社員の教育係押しつけられて、それだけならまだいいんだけどその新入社員ってのがえらいイケメンな上に性格も良くて仕事までどんどん覚えやがって俺の立場が無くなりそうだよははは、ハハハ。
……なんて、どうでもいい世間話をできる雰囲気ではない。けれど、ここで彼女に関わらない道を選んでしまえば、それこそ去年の焼き回しだ。
だから俺、土井村琥太郎は。手にしていたパンを包装に戻してそっと余所へ押しやり、代わりに決意と勇気を拳の中に握りしめて、詩乃梨さんを真剣な面持ちで見つめた。
「なあ、詩乃梨さん――」
ぎろり。食餌を邪魔されたドラゴンは、熱線でも出て来そうなほどに強烈な眼光で、哀れな羊を刺し貫いた。
しょんべん漏らしそうになってる瀕死の羊に、ドラゴンさんは静かに語りかける。
「……ねぇ、こたろう」
「は、はい。ボクこたろーです」
「こたろうは、さ。…………その、なんていうか……。……あの、ね? ………………えっと、こう………………。だから、うんと……………。わたしが、じゃ、なくて……わたし、に? …………でも、ないから……………わたし、のこと………、ああ、もぉっ……!
………………………。………………や、やっぱり、なんでもない……」
これはどうしたことだろう。ドラゴンはその正体が幼気な幼女か張り子の虎であったことが露見したかのように、何かを恥じたり言い訳を考えたり逆ギレしたりするような仕草を見せた後、最終的にしょんぼりと肩を落ち込ませてすっかり黙り込んでしまった。彼女を突き動かした想いは完全に熱を失い、何もかも燃え尽きたような面持ちで弁当の残りをもそもそと啄み続けるのみとなる。
……俺と詩乃梨さんが綴ってきた歴史において、最長となる長台詞だったな、今の。まるで意味わかんなかったけど。この子何が言いたかったの?
数少ない手がかりを抜き出して考察してみよう。
何故か怒っていた詩乃梨さん、そこに話しかけた俺、すると詩乃梨さんは「こたろうは」「わたしが」「わたしに」「わたしのこと」等と言いにくそうに述べた後、結局「なんでもない」と誤魔化して話を強制終了させ、落ち込んでしまった。
ここから導き出される回答は――
『ねえ、こたろう。こたろうは、どうして私が怒ってるかわからないの? 原因は、こたろうなのに。……こたろうが、いつまで経っても態度をはっきりさせてくれないせいなのに。……ねえ、こたろう。こたろうは、わたしのこと、どう思ってるの? わたしは、こたろうのこと……すごく、すっごく、大好きだよ……!』
無いな。アホか。
「詩乃梨さん。何か言いたいことあるなら、ちゃんと聞くよ?」
結局、何の面白みも無い台詞を口にするのみに留める。
詩乃梨さんは、ご飯を喉に詰まらせかけて「ぐむっ」と唸ると、食べかけの弁当をそっと膝に下ろして、ついでに視線も落としたままぶっきらぼうに呟いた。
「……………べつに、なんでもないって、言ったよね?」
「なんでもない話でもいいから、したいんだよ」
「……なんで?」
「なんで、って……。………………え、実は俺となんにも話したくないとか思ってたりするの……?」
関係を進展させたいと思ってたのは、やっぱり俺だけ? 詩乃梨さんはひたすら無言の関係の方が好ましく思っていた? むしろ俺なんて居ても居なくてもいいっていうか居ない方が嬉しい? う、嘘でしょ?
という最悪の想像は、想像だけで終わったようだ。詩乃梨さんはローファーのつま先を意味も無く突っつき合わせながら、恥ずかしそうに首を横に振った。
「そういうこと、じゃない、けど……」
俺と話したくないわけではない。イコール、俺と話したいってことじゃないかはっはっは! 俺、大勝利!
「じゃあ、話そうぜ。話したいこと、いっぱいあるし」
「……いっぱい?」
勝利に酔いしれてたらうっかり勇み足してしまった。すぐさま誤解を解こうと――もとい正解を誤解にしてしまおうとしたが、それより先に詩乃梨さんは何かを納得して頷いた。
「そっか。いっぱいあるんだ……。なら、今日はやっぱりいいや」
なにゆえ!? なにゆえそうなるんスか!?
混乱する俺に、詩乃梨さんは至極真っ当な応えを返した。
「だって。そろそろ、学校行かなくちゃいけないから。……ごちそうさま」
詩乃梨さんは、最後に残っていた卵焼きをぱくりと一口で食べ終えて、弁当箱に蓋をした。そのままの流れで、熟れた手付きでブレザーのポケットから缶コーヒーを取り出し――かけて、はたと動きを止める。
困り顔が、俺を振り向いた。
「……熱すぎて、一気飲みできない……」
「なぜ一気。……あ、本格的に時間無いのか?」
「うん。だからご飯急いで食べた。……本当は、今日休みだったはずだったのに……。……チッ」
最後の舌打ちの一瞬、詩乃梨さんの背後にドラゴンが見えた。
あー、うん。今日の詩乃梨さんの態度について、疑問が完全に氷解しました。……でも、詩乃梨さんが俺に話したかった『なんでもないこと』の内容については未だ闇の中である。
まあ、でも、詩乃梨さんは、俺と話したくないわけじゃないっていう言質取ったし。今わりと『なんでもない話』できてるし。闇の中に光を当てる機会は次回に譲るとして、今日のところはこれで満足しておこう。むしろ大満足でご満悦です。いっぱい詩乃梨さんとしゃべっちゃったぜひゃっほい!
「っと、時間無いんだったよな。じゃあ……」
俺はズボンのポケットから、未開封の缶コーヒーを取り出した。程良くぬるくなっているそれを、詩乃梨さんに差し出し、一言。
「交換で」
どこかで聞いたような台詞。勿論わざとやったのだが、詩乃梨さんは怪訝そうな顔をするのみだった。
「交換? なんで? ……あ、それぬるい?」
「そうです、ぬるいんです。でもだからといって本気で一気はやめときなさいね、腹痛くするとアレだし」
「……そだね」
詩乃梨さんは、顔を思いっきり顰めながら同意した。はい、既に経験済みのようです。
ともあれ、俺達はクロスカウンターを繰り出し、ホットとぬるいを交換した。二人同時にプルタブを引き起こし、俺はちびちびと、詩乃梨さんはごくごくと飲んでいく。
当然、先に飲み終えたのは詩乃梨さんだ。
「――やっぱり、これだけはやめられないよね」
どこかうっとりとした表情での、カフェイン中毒宣言。この子、ヤバいです。いや、俺が言えたこっちゃないんだけどね。ほぼ毎日朝昼晩缶コーヒー飲んでる上に、休日は近所の喫茶店通いしてますしね。
詩乃梨さんは手早く食事の後片付けを終え、軽い掛け声と共に立ち上がった。続けて、「こたろう、またね」と早口で言い捨て、出入り口の扉に手を掛ける。
俺は、今日の詩乃梨さんは随分活動的だな、などとぼんやり感想を浮かべながら、何の気なしに返事を返す。
「おう。いってらっしゃい」
詩乃梨さんは、ほんの僅かの間だけ動きを止め――そして、鉄扉の上げるきしみに紛れさせるように、何故か殊更むすっとした表情でこう返したのだった。
「……いってきます」
◆◇◆◇◆
詩乃梨さんの居なくなった屋上で、俺はひとり感慨に耽る。
――話せた。とても、普通に。とても、自然に。……とても、楽しく、おしゃべりできた。
それはきっと、詩乃梨さんの『友達』ならば、呼吸のように極々当たり前にこなす、至極ありふれた行為。
俺は今、詩乃梨さんにとっての『友達』に――ほんの少しくらいは、近づけたと思って、いいのだろうか。
……ていうか、もう友達って言っても過言では……あ、はい、過言ですね、さーせん。